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自宅に帰るなり次郎に電話で連絡を取った。
次郎というのは観世の付き人だ。
長いマネージャー職を経た今となっては執事か召使いといったポジションにある。
例の屋敷の売却の件について尋ねると、仲介業者に一任したということで、
委託先の担当者の連絡先を告げられた。
進捗としては、上物の取り壊し作業の期日を決めかねているとのことだった。
上物とはつまり、屋敷自体に当たる。
鹿鳴館には遠く及ばないにしろ、明治時代の迎賓館を彷彿とさせる豪邸だ。
取り壊さずにせめて売却すべきだと、営業が連日観世の元に押し寄せているらしい。

そもそもは俺も観世も、あの家のことなど念頭に無かった。忘れていた。
烏のような中年が観世に邸宅を売れと持ちかけたせいで事は始まった。
タダで住んでる場所を敢えて買い取るということは、
あの場所に何かイイ物でも埋まってるんじゃないかと観世は邪推したが、
結局、埋もれていたのは中年男の感傷的な追憶だけだった。

つい先日、俺はあの家を取り壊すことを観世に進言した。
根拠としては、観世自身が調べさせた仁井の過去の経緯。
俺が直接聞き及んだ内容については、口にする気がしなかった。
「とにかく何でもいいからあの家は壊せ」
そんな俺の一方的な主張を、結局観世は呑んだ。

実質的な手続きが次郎経由で動き出したとして、
クソ中年は既に邸宅を追い出されたのかどうか。
俺が知りたいのはその辺の詳細だったが、
どうやら立ち退き要求自体がこれかららしい。

棲家を追い出されることを逆恨みに思い、俺の知人つまり梧譲に
ちょっかいと出したという線は、薄いように思えた。

色々と面倒をかける旨の礼を述べて、次郎との通話を切った。


(・・さて。)

そっちは一旦置くとして、次は俺自身の件だ。
大荷物を持ち出して場所を替えてみたところで描けなかった。
作業部屋には俺自身が描いたバカでかい夜景が昼夜控えたままだ。
今では部屋に入る気すらしない。
しかし。俺自身、分かってもいた。
問題は場所ではない。俺自身のヤル気なのだ。

そして今、その気は完全に失われている。

俺は引き出しの奥をあさって契約書を再確認した。
半年で30枚の月割り。今月の納期が間もなく。
しかし引き受けてすぐに4枚までは仕上げた。
うっかりサルを描いたあの一枚すら手直しすれば、
今月の納期には間に合う計算だ。
しかし。
来月以降も俺は見たことも無いスカした街の絵にうなされ続けるのか。

無理だと、そう思えた。
確実に無理だ。

俺は今置いた受話器を取り直し、
契約書に添付されていた名刺の番号にダイアルした。
しかし応答したのは留守電だった。
そういえば本日は土曜日、普通の会社は休業日だ。
今初めて気付いたくらいだから留守電を意図したわけではないが、
相手が機械であることは好都合だった。
聞く者もいない受話機に俺は用件を述べ立てた。

「契約を破棄したい。俺の一方的な都合だ。
違約金その他の詳細があったら連絡しろ。以上。」

受話器を置くと、何故かいたたまれない気分になった。
財布だけをポケットに突っ込むと手ぶらで家を出た。
どこへ行くという宛ても無く、くわえ煙草で伏目がちに歩く。

(ざまあみろ。)

意外に気分は爽快だ。
だが様を見るべきに敗北したのはおそらく俺自身だった。


人混みを避けて裏通りへと向かう。
目的もなく歩く道すがら、俺は俺自身の身の振り方を考える。
俺は今、仕事を一つフイにしたわけだ。
他にツブシがあるわけでもなく、
現時点で唯一の仕事を失ったのだという事実を噛みしめてみる。
・・しかし危機感は薄い。

観世はあの邸宅、もしくは邸宅を売却した資産を吾一に譲ることを考えていた。
しかし、贈与に関する手続きの詳細をサル頭と対峙して執り行うことの面倒に思い至った。
そして観世は今更ながら、吾一の養育費に当たるものを
今まで一切支払っていないという事実に思い当たったようで、
なんなら資産はそのまま俺が受け取れと言い出した。
勿論俺は断った。
しかし俺がゴネれば話は吾一に回り、事務的な手続きは進まず、
あの家を一刻も早く取り壊してクソ中年を叩き出すという俺の目論見が立たなくなる。
結局俺は観世の案に同意し、売却益は一時俺預りとすることで話がまとまった。
つい数日前の話だ。
家を売り払って出来た金など通帳にのしを付けてサルにくれてやるが、
それにしても間もなく、おそらくは数千万の金が俺の口座に振り込まれる。

そういった状況下で、仕事を失った危機感に身を晒すというのは、なかなか困難だ。

葉桜を揺らす寒風が俺を吹き抜けて、
俺のくわえた煙草の先の灰を散らした。
いつまでも学生気分の抜けない俺を親父が笑ったような気がした。



あてもなく歩いて気付いてみれば、
着いた場所は通い慣れた画材屋だ。

今しがた描く仕事を放棄して家を出て
その足で画材を仕入れるとはどういうことか。
つまりはどういうことも何も、俺は普段から描く以外に何もしていないのだった。

その店は商店街からも遠く離れた裏通りの住宅街にある。
他に店もない通りに一軒ぽつりと存在する画材屋は
一見すると客を歓迎していないかのように見える。
ココ以外にも俺はそんなギャラリーを一軒知っているわけだが。

しかし一歩踏み込んでみれば、そこが俺の場所とは明らかに違うのが分かる。
どの商品にも焼けや埃は一切無く、絵の具の色に欠番も無い。
カドミウムの制限で今では製造中止になった古い画材すら
丁寧に保管されていたらしく、つい最近まで美品で調達できた。
店番にはいつも気難しそうな爺さんが独り。
彼の寿命がこの店の寿命かと思うと、爺さんの健康を願わずにはいられない。

狭い店内には人が擦れ違う余裕もなくびっちり整然とモノが陳列されている。
この場で俺以外の客に出会った事は無いから、狭さは特に苦にならない。
どこに何があるか、今では店主並みにに心得ているから、モノを探すのも楽だ。
絵の具の2、3を手に取りレジへと向かう。
しかしそこに居るのはいつもの爺さんではなく、見ず知らずの若者だった。

若い男に代金を支払い、商品の紙袋を受け取る。
爺さんは死んだのか、とは聞きかねた。

「あの・・ギャラリーのひとですよね?。」
「?。」
「こっから歩いて駅の方にある・・
なんて店だったかはちょっと、アレなんですけど。」

店名が分からないのは正解だ。
何故なら俺のギャラリーには看板も何も無い。
そもそも店名自体、考えたことも無い。

「それが、何か。」
「イエ。俺、前に覗いたことあるんで。
外から見ただけですけど。」
「何か入用か。」
「俺、この店引き継いだんですよ。祖父は歳で引退したがってたし。
俺この場所昔から好きで、卒業したら譲ってもらうことになってて。
それでお祝い・・を自分でってのもおかしいですけど、
記念にココに一枚飾れたらなあ、なんて。でも、見ただけで。
まだそんな稼いでないし、いつかそのうち、と思って。」
「描くか?。」

これは一体何と言うのだろう、渡りに船とは少し違う。
失業者に仕事。そのまんまだが。

「出来合いのものより、この店を描いた方がいいだろ。」
「・・でも」
「まあ気に入ったのができるとは限らんからな。
買うかどうかは見てから決めろ。」
「ででも」
「金額なら見てからの言い値でいい。
まあもしアンタが買う場合だが。
そうだな、最低で100円。」
「ひゃくえん・・。」
「色を付けるというなら上乗せは拒まん。
この場合色というのは絵の色じゃないぞ。当然だが。」
「いいんでしょうか・・。」
「俺は常連だからな。祝儀の意味もある。」
「それじゃ・・お願いします!!。」

「参考に外の写真を撮るか。写生もなんだしな。
そっちはまあ勝手にやるが、一枚アンタの好きな絵か写真を準備しろ。
被写体はこの場所でも、そうでなくても構わない。」
「それはどんな」
「人には好みがあるからな。やたら小綺麗なのが好きなヤツ、
荒いのが好きなヤツ。写真風、抽象風、その他まあ、いろいろだ。
俺の趣向が入るから好みのまんまとはいかんが、多少は努力する。」
「はあ。」
「準備しとけよ。」
「ハイ!。それじゃ、よろしくお願いします!。
あと、ありがとうございました!!。」


そういえばこれは俺生涯初の営業だろうか。
なかなかの首尾ではないか。
どんなもんだ。


量販30枚の仕事をフイにした直後に売り上げとしたら100円、
もしくは買取不可の可能性も残る仕事を自力で取った俺は
気分的には上々だった。

何かしら成し遂げた気分で意気揚々と自宅に戻る。
ギャラリーの隅、応接机の上では
留守電が俺の帰りを待って点滅を繰り返していた。

「ご連絡ありがとうございます。
契約の破棄という伝言を拝聴いたしまして、
契約内容にご不満故の更新という意味かとは存じますが、
明日早々そちらに一度お伺いさせて頂こうかと。
休日ではありますが明日、どうぞよろしくお願いいたします。」


・・明日は厄介な日になりそうだ。


- 続 -
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