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右手には布にくるんだキャンバスを3枚。左手には画材箱。
大荷物を抱えて病棟の廊下を歩く。
なかなか不自然だ。

無地のキャンバス3枚は長辺40cm程度のF6号。
例のパリ絵の納品サイズ。
つまり。
ヤツの見舞いがてら、気の重い作業をやっつけてしまおうという魂胆だ。

うっかりカフェにオランウータンを座らせて以来、パリ絵は一枚も上がっていない。
そもそも同じものを30枚も描けなどというオーダーが馬鹿げているのだが。
しかしその馬鹿さ加減を承知で引き受けた仕事でもあった。
このご時勢、描くことで生計を立てる人間など数えるほどもいない。
枚数を描いて報酬を得られるなどというのは未曾有の幸運と感謝すべきだ。
そう思うべきなのだ。
全くそうは感じられないにしても。

辺りに人影も無い病棟の通路を縦横に歩いた先、視聴覚室。
ヤツが何故病院の視聴覚室に据え置かれているのかは分からないままだ。
謎は謎だが俺にとっては好都合なのでこだわらないことにしている。

この場所を訪れるのはこれで3度目になる。
つい先日まで例の邸宅の処分について観世ともめていたこともあり、
2度目に来てからは少し間が空いた。

「よう。」

他に挨拶の言葉も無く、無骨な文句で引き戸を開ける。
しかし答えは無かった。
無いのは答えばかりでもなく、何も無かった。
つまりそこには病床自体が無かった。

そこそこ広い部屋全体には、雑然と長机と長椅子が散らばっていた。
置ききれない椅子は投げ出したかのように机の上に積まれている。
まるでここはそもそも昔からただの物置だったんですとでも言いたげだ。

・・死んだのか。

骨折で人は死ぬものだろうか。
骨折以外にも見逃された内疾患があった可能性もある。
それであっさり逝ったのか。
そもそも当初から厄介な内疾患が見つかっており、面倒なので、
そんな患者はいなかったことにするため視聴覚室に隔離されていたのか。

アイツは死んだのかどうかを一体誰に尋ねるべきかを考えながら
両手に大荷物を抱えたまま、俺は今来た廊下を戻った。


「オイ。視聴覚室で寝てた男は何処だ。」

結局俺は受付の女に聞いていた。
20台に見える若い女は、案の定俺に不審気な視線を向けた。
そう。聞いた俺自身も分かっている。普通病人は視聴覚室にはいない。
おまけに謎の問いを発する俺は、見舞い客にしては不自然な大荷物。

「・・視聴覚室?。」
「視聴覚室。」
「あのう視聴覚室には」
「ああ分かってる。普通病人は視聴覚室にはいない。
そして俺の大荷物の中に不審な物は無い。何ならここで開いて見せるが」
「イエそれは別に」
「なら誰か分かるヤツに聞いて来い。
最近まで視聴覚室には救急で運ばれた男が寝ていた。
そいつはその後移転したのかそれとも死んだのか。行け。」
「・・。」

女が動く気配を見せないので、俺はカウンターの内側に半身を乗り出して告げた。

「行け。」

女は逃げるように身を翻して奥へと消えた。
清算待ちか薬待ちか、受付前の長椅子にたむろする老人達が怪訝そうに俺を眺めていた。
手持ち無沙汰の俺は煙草を取り出し、一本くわえてから院内は禁煙だろうと思い立った。
一度はくわえたそれを神妙にしまうのもしゃくだが、まさか火をつけるわけにもいかず、
煙の上がらない煙草をくわえたままどうしようかと思い悩むうちに女が戻った。

「3階です。相良梧譲さんですね。
3階整形外科の入院病棟2-Aに移動になりました。」
「そうか。」

どうやらまだ死んではいないらしい。

「あの。」
「何だ。」
「院内は禁煙ですから。」
「・・知ってる。」

俺は火のつかない煙草をポケットにしまい、大荷物を抱え直した。

「入院病棟は別館になります。そちら右手の渡り廊下から・・。」


大荷物を抱えて長い廊下を歩き、別館に出る。
階を上がると、寝巻姿の人間がそここに覗える。
壁の案内図を眺めつつ、指示された病棟2-Aとやらを探す途中、
廊下では家族連れの見舞い客やナース姿の女とすれ違った。
紛れもなく、まさに絵に描いたように普通の入院病棟だ。
しかし何故今更。
今更普通の場所に移動されても俺のパリ絵が上がらないのだが。

「2-A」というプレートの部屋は、階段脇の大部屋だった。
部屋の内部は、白くて薄いカーテンで6区画に仕切られている。
区切りの中には各々一台のベッドとオフィス用脇机が一つ。
それしかないという以上にスペース的にそれ以外入らない。
風情としては、清潔でやや上品な野戦病院というところだ。

室内に踏み込んですぐ、区切られたスペースの手前左にヤツがいた。

「おー!!。」
「デカイ声出すな。大部屋じゃねーか。」
「そうなんだよ。前の方が良かったよ。」

数日振りのヤツはまあ、元気そうだ。
長髪が後ろの斜め脇で一本に結われていて、少しバカに見える。

「元気そうだな。」
「まあね。内臓悪いわけじゃねーし普通に元気なんだよね。」
「何よりだろ。」
「暇でさ〜。まあ座って座って。」

大荷物を床に置いてベッド脇にパイプ椅子を広げる。
それだけでもう区切られたスペースは完全に満杯だ。
おまけにスペース内唯一の家具である脇机の上には、
田舎の仏壇か通り魔被害者の献花台かというように
果物やら菓子やらペットボトルやらが山積みになっている。

「何だこの供え物は。」
「戒而がさ〜。」
「持ってきたのか。」
「違うんだけど。」
「そもそも貴様は何故今頃普通の病室に」
「戒而がさ〜。」
「全部戒而か。」
「違うんだけどさ〜。」
「全く分からん。」
「そもそもヤクザが俺を撃って」
「ああ?!。」
「イヤ撃たれてないけど。
撃たれたら死んでるよな。あはは。」

・・その話のどこが面白いのかも分からない。

「分かるように話す気はないのか。
まあどうしても聞きたいということもないが。」
「イヤあの俺も良く分かんないのよ。
クルマであおられてさ。車内から長いもので狙われたら
ライフルかもって思うじゃん?。」
「・・。」
「撃たれて死ぬくらいなら相手道連れにしてやろうと思ってさ。
カマ掘らせるつもりでブレーキ踏んだら避けやがって。
そしたら俺がココで俺の前がこう交差点でさ、前に対向車がこう」
「そういう詳細は省け。」
「え。ここが大事なのに。まあいいや。
てかあとはもうあんまし意識ないわけ。
で、救急で運ばれて意識が戻った時『あのヤクザ野郎』とか言ったらしいんだよね俺。
覚えてないんだけど。んで親とか連絡先とか聞かれてもさ。そういうの無いしさ。」
「・・。」
「んで。要するに俺は抗争中のヤクザだと思われたらしーんだよね。」

・・成程。
非常に納得できる。

「で、隔離されてたってわけか。」
「そゆこと。」

そういえば最近、組員と間違われた民間人が病室で撃たれるなどという物騒な事件もあった。
あきらかにヤクザと分かる男を一般病棟に置かないという判断はむしろ正しい。

「そういうことならそう思ってもらってて良かったんだけどさ〜。
あそこの部屋、俺貸し切りだったわけで。
ハニーもあそこの方良かったっしょ。絵描けるし。」
「・・誰?。」

「こんにちわ。あらお友達。良かったわねえ。」

カーテンの仕切りの合間から、知らない中年女性が俺らを覗き込んでいた。

「これご一緒に召し上がって。」
「あ〜いいよオバサン。見てコレ。食い切れないし。
なんならちょっと持ってって。頼むから。」
「あらそお。じゃあ頂いていこうかしら。」

見ず知らずの中年女性が狭いスペースへとぐいぐい入り込んできた。
俺の膝に乗りかかるようにして手を伸ばし、脇机上の果物数個を手に取る。
そして対価としてか、俺の胸元に菓子箱を押し付けた。
これは一体意味のある物々交換なのかどうか。

「それじゃお大事に。どうぞごゆっくり。」

まるで自分はここの住人だというような台詞だ。

突然現れて消えた闖入者の煩雑な余韻で会話は途切れ、
俺は所在無く後頭部を掻いてみたりする。

「隣がボケ老人でさあ。」
声をひそめて梧譲が俺に囁いた。

「ボケで入院してるわけじゃなくて転んで骨折したそうなんだけど。
あのひとその嫁さん。嫁さんっても婆さんの嫁さんだからつまりもうオバさん。
見たら分かるけど。とかって大部屋で近所付き合いする気もなかったんだけどさ〜。
戒而、来るたび部屋中に挨拶して回るからさ〜。すっかり人気者なんだよね俺ら。」
「・・。」
「入院の手続きとかそういう細かいこと全部戒而がやってくれてさ。
アイツもおすごい看護婦サン受けが良くって。
おかげで俺もヤクザの汚名返上で部屋も替えられたというわけよ。」
「・・成程。」
「でもここじゃ描けないよね。」
まるで自分が描くつもりだったかのように、梧譲の声音はしょんぼりしていた。

「別に描きに来たわけじゃねーし。」
「マジで?!。」
「イヤ。それは嘘だな。」
「どっち。」
「追求すんな。」
「・・。」

「それより貴様、事故ったのはいつだ。正確に何日かを言え。」
「ええと。今日が土曜日で・・てか今日何日。」
「質問を変える。俺の運転手を勤めた何日後か。」
「次の日。」

・・翌日。
俺は梧譲の事故が仕組まれたものである可能性を考えていた。
俺の暴挙を止める為、梧譲はクソ中年の指を折った。
その件に対する見返りである可能性は、あるのかどうか。

「次の日っても、次の日の早朝。アンタと別れてから俺寝れなくてさ。
バカみたく朝早くから動いてたんだよね。
アンタの件は関係ないよ。」

俺の思惑を汲んでだろうか、
似合わない神妙な面持ちで梧譲首を傾げて見せた。

「少なくとも俺が指折った本人じゃなかった。
人に依頼したなら動きが速過ぎる。
アンタの件は、関係無いよ。」
「なら、いーがな。」
「気違いってのはいるもんさ。そんで俺は運が悪かった。」
「運だけか。」
「日頃の行い?。そっちはそこそこ悪くないケド。」

確かに梧譲の言う通り、クソ中年が動いたにしては早過ぎる。
だとしても事の翌日に撃たれかけたるとはあまりに不穏だ。
まあ本当に撃たれるところだったのか、その要所が曖昧なわけだが。

「描いてけよ。持ってきたんでしょ道具。」
「ここでか。」
「いいじゃん別に。狭くて無理?。」
「そういうのはまあ、どうにでもなるが。」

話題の転換を促されたのだということは分かった。
確かにこの場で考えて何かが判明するということでもない。
しかしどうにも気分を切り替え難い。

手持ち無沙汰な気分に押されて勧められたまま画材箱を開く。
パレットに適量の黒と少量の茶と赤を絞り、混ざり切らない程度に細筆で混ぜる。
しかしまあなんだ、などと意味の無い事を呟きながら、
俺は梧譲の足側に移動した。
狭くかつ雑然としたこの場所にイーゼルを立てる気にもならないから、
俺は吊られた足の底、石膏を包帯で固めたその部分に数匹の虫を描いた。
黒、茶羽、やや赤みの強いヤツ。
デカイのはおおむね黒く、小さいのは茶系が強いような記憶があるがどうだろう。
要するに全部ゴキブリだ。

カーテンで区切られた仕切りの内側へ人が訪れるとして、
布の切れ間から踏み込んだその場はベッドに寝た人間の足側になる。
いきなり踏み込んで吊られた足を見上げるとして、虫はどのアングルなら自然か。
標本を描くわけでもないから、昆虫を真上から見た図では臨場感に欠ける。
虫のディティールはさておき、3歩離れて見た場合の躍動感を重視したい。
サイズと位置の違うそれぞれを斜めから見るとして、各々の脚の向きや高さが要所か。
そして翅の乱反射の程度。

「・・あのお。何やってんのかな。」
「動的な臨場感の試作。」
「・・見えないと不安なんですけど。」

5匹程度の虫だからどう練ってもあっという間に描き上がる。
仕上がった後は俺自身が3歩離れて眺めた。
自分で言うのもなんだがなかなかの出来だ。
その証拠に、眺め続ければ描いた俺自身すら鳥肌が立つ。

「ヨシ。」
「・・あのお。」
「じゃ。帰る。」
「えっ!。ちょちょっと待」
「どうせここじゃ何もできねーしな。」
「!!。なな」
「念の為言い直しておくが描けないという意味だ。」
「そ。そそそうだよね。」

「身辺に気をつけろよ貴様。一応。」
「え?。」
「じゃ。」

大荷物を手早くまとめると、俺はカーテンの区切りから抜け出した。

「あらあお帰り?。」

さっき俺に菓子折りを押し付けた中年女性が、
俺を待ち構えていたかの如く隣の区切りから顔を出した。

「これおみやげ。もってかえってちょうだいな。」
「結構だ。そこで寝てる男にでも渡してくれ。」
「あらそうお。残念ね・・。」


大荷物を抱え、布で区切られた大部屋を後にしようとするその時、
俺の背に「んぎゃー」という女の悲鳴が突き刺さった。
『動的な臨場感の試作』を一番に目にしたのは、かの中年女性らしい。


- 続 -
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