48



翌日早朝。
若い看護婦が検温の際に情報をくれた。
現在整形外科のベッドは満室で、救急で搬送された俺は
空いていた部屋に仮置きされているということらしい。

一体俺は何日寝たのか、それにいつ治るのか。
聞きたいことは他にも多々あったが、
若い看護婦は自分が言うべきことを言うと、あとは逃げるように俺の前から姿を消した。
・・もしかすると前日俺が尻を握った娘だろうか。
今朝見た限りではかなり若かった。
まだ見習いだとすると、本来高校生の歳かもしれない。

(割れ目に親指・・。)

あれは事故だった。
事故にしてもしかし、申し訳ない気がしてこないこともない。
かといって敢えて謝れば自分は確信犯だと認めることになる。
一体俺はどうするべきかと、そんなことを想ううちに気が遠くなった。
今まで随分と寝たはずなのに、いくらでも寝れる。
破損した身体を治すのに睡眠が必要なんだろうか。
他にまだ考えないといけないことがあるんだけど。

(バイト先に連絡・・俺の店・・それと・・)

ハニー。
今日来るって。
本当だろうか。

◇◇◇

目覚めたら、ハニーが俺を覗き込んでいた。

「お。起きたか。」

ハニーは小脇に木箱とイーゼルを抱えていた。
木箱は多分画材入れ。
昔。俺の目の前であれがブチまけられたのはいつのことだったろう。
もう随分と昔の話だけど、ハニーに関する思い出は俺の中で決して褪せない。
しかし病室に何故それを。

「寝てていーぞ。」

ハニーは来るなり俺の枕元少し向こうの窓際で、ゴソゴソと作業を始めた。
見舞い客というよりは仕事に来た内装屋みたいだ。

窓下にイーゼルを立て、小振りのキャンバスを置く。
俺の知ってるハニーはいつも人の半身が実物大に書けるサイズのキャンバスに向かってたけど、
今イゼールに乗せられたそれは、大学ノートよりも小さくて葉書よりは大きいくらい。
どこかから探してきた折りたたみの椅子を引くと、
ハニーは俺に横顔を見せて、キャンバスの前に座り込んだ。

「窓から何か見えんの。」
「病院周りに潅木。その向こうに首都高。
更に向こうには、なんか知らんがビル群。」
「それって描くのにいいの?。」
「まあ普通。もしくは普通以下。」
「・・。」
「事情があってな。家じゃ全く描く気になれん。家よりはナンボかマシだ。」
「ふうん。」

相槌は打ったものの、俺にその事情は分からない。
でも細かいことはどうでも良かった。

いつもより小さいキャンバスに見入るように、
ハニーは座った腰を更に屈めて絵筆を握った。
何かに取り組む無防備なその横顔を眺めることを許されたこの時間が
俺にとっては夢のようだなんて、ハニーは思いもしないんだろうな。

「あ。イーゼルの足に包帯。」
「ああ。骨折したんだ。お前と一緒だな。」
「へえ。」
「俺が蹴り壊した。」
「・・。」

会話の合間もハニーは決して俺に振り向かず、ただ絵筆を走らせ続けた。
そのことがむしろ、俺にはハニーの気遣いのように思えた。
だって見舞いなんて言っても、野郎二人が敢えて話す事なんて何も無いわけで。

「どんなもんだ。パリ絵よりナンボかマシだ。」
「パリ?。」
「俺は今パリの街頭を描くという仕事を請け負っている。」
「へえ!。」
「で、挫折しかけてる。」
「なんで。パリ行った事ないから?。」
「それなら初めから請け負わん。」
確かに。
「つまらな過ぎる。」
「ええと。」
「そんな理由で仕事をフイにするヤツはいない。
分かってるんだがな。」
「そっち見せて。こっからだと見えない。」
「待っとけ。あと2枚ほど仕上げる。」
「え。もう一枚できたん。」

「それよりそっちの見立てはどうなんだ。」
「見立てとは。」
「全治何ヶ月とか。」
「あ〜。聞いてない。」
「ああ?。」
「尻さわったせいかな〜、
なんかこう、今ひとつコミュニケーションが。」
「尻?!。」

会話の途中今まで一度も俺を見なかった宗蔵が、
突然俺を見据えてカッ、と振り向いた。
違う、と利き手を振ろうとした俺は
そっちの手が微塵も動かない事に気付き、
動くほうの手に変えて、違うんだとブンブン振り回した。

「事故!。事故だから!。
意識が戻ってすぐ!、あったんだよ目の前に。」
「・・目の前に尻があるか。」
「あったんだよ!。あったんだからあったとしか言えないの!。
目の前によ?、起きてすぐ、例えば桃があったらどうするよ?!。
『違うよ葡萄が良かったのに』とか思わないだろ?!。
『もっと小振りの桃ならなあ』とか、思わないだろすぐには!。」
「・・。」
「とりあえずさわるだろ普通!。
そ、そんで食うかはその後の問題で、少なくとも俺は」
「もういい。黙れ。」

無実なんだ。
本当に無実なんだよ俺は。
未必の故意って言うか、故意かどうかも曖昧・・。

「見るか。」
「な何を。」
「今この状況で俺の絵以外に何か見るものあんのか。」
「見ます。見せて下さい。」
「貴様今何考えた?。」
「絵!。まさにそれ!。」

「見せるほどのものとも思ってないが。
ここで尻を出す気はねーしな。尻の絵にすれば良かったか。
今から描くか?。」
「・・結構デス。」

「一枚目。」

イーゼルを引き寄せてベッド脇に寄せると、
宗蔵はその上に小振りのキャンバスを乗せた。
まるで俺だけのための紙芝居みたい。

さっき宗蔵が語った通りに、手前には植え込み、その向こうが高速。
遠景にはビル群がそびえ立っている。
まるで写真のように臨場感あふれる風景が、最小のタッチで、
本来よりかなり小さい布地の上に描き出されていた。
数少なく置かれた筆跡自体は殴り書きのようなのに、
絵全体で見れば、そこにそう色を置くしかない必然に見えてしまう。

少ない線で描かれる重厚感の謎を見据えてみれば、
絵は事象を描く輪郭よりも光と影の差分で浮き出るように表現されていた。


「二枚目。」

イーゼルには次の絵が置きなおされた。
それは、まるで同じ構図の絵だった。
同じ構図なのに、まるで印象が違う。
一枚目と比べると全ての色が褪せたかのように澱んで、
背後のビル群から伸びた陰が不吉に道路と植え込みを覆っている。
ビルの陰には悪魔の居城があって、この土地は古くから呪われているのだとか、
そんな小説の挿絵にならふさわしい。

「三枚目。」

次も同じ構図だった。
こちらはまた対照的だ。
光溢れる都市空間に夢の高速が今まさに開通しましたという風情。
子供の頃に見た『未来の都市像』の絵を思い出した。

「5秒待て。4枚目。」

ある程度想像は付いた4枚目。
達筆な一筆描きの筆致で、大きく桃が描かれていた。
桃の向きと形状は微妙で、もしかすると女の尻かな?と思えるようになっている。

「くれてやる。窓辺に飾るか。」
「・・勘弁して下さい。」
「印章も入れてやる。版が無いから手書きだ。」

宗蔵は俺の頭の上のほうにまわり、ひとりで何やらゴソゴソと始めた。
俺の懇願も空しく、桃絵というか尻絵が窓辺に飾られたんだろうか。
それをもし雌ゴリラが目に止めたなら、俺は一体どんな目に合うのか。

「宗蔵・・頼むから・・」
「オイ。」
「ハイ。」
「お前は退院したら、早速女作れ。」
「?!。」
「男でも構わんが。」
「?!!。」
「昨日、そしてこないだ。
俺は期待させるようなことをしたかもしれん。
もしそうなら、悪かった。今日は貴様に謝るつもで来た。」

語られた言葉は、尻のせいで突然とも思い難い静謐さで響いた。
一瞬で俺の目の前が暗転していた。

「夕べ、ここから帰って考えた。
これじゃ俺達は過去を繰り返すだけだ。」

答えられなかった。
何故ならその過去に選択を下したのは俺じゃないからだ。
繰り返すも何も、俺は変わりもしない。
変えられもしなかった。
今改めて変えようとして、その道すら探せずにいる。

「お前は普通の人間より血の気が多い。」

知ってる。

窓辺から俺の傍らに戻った宗蔵は、俺に背を向けてベッドの端に腰を下ろした。
動く方の手を伸ばせば抱きしめられる距離が、とてつもなく遠い。

「だが、世間では誰も彼もが相手を求めてる。
野郎のくせに野郎を求めるお前は普通じゃないのかもしれんが、
逆に俺は相手が女なら求めたいとうわけでもない。
おかしいのは俺の方だ。分かってる。」
「おかしいとかそういうんじゃなく」

話しかけた俺を、宗蔵はただ手で制した。

「5歳の頃だ。事件があった。それ以来俺は、人と関係を築いたことがない。
小中高と学校にもまともに行かなかった。今思えば卒業できたのが謎だ。
今思えば、俺を引き取った叔母が金・権力・名声と何もかも掌握した人間だったせいだろう。
私立だったしな。大学はまあ自力で入ったが、所詮ペーパーテストだ。」
「・・関係、って。」
「誰とも口をきかなかった。必要も感じず、欲求もなかった。
俺と世界の間には透明な壁があって、俺は世界と隔離されていた。
誰も存在しない場所だ。人は多分その場所で孤独とか絶望とか、そんな事を思うんだろう。
だが俺には孤独を孤独と知る感性が欠如していた。
具体的に欠如している有様を人に語るのは難しい。なんせ欠如してんだからな。」

俺は言葉を探せなかった。
同意も理解も納得も、今口にしたら嘘になるような気がした。

「多分俺は、遥か昔に壊れてる。今も、壊れたままだ。
精神科に行けばそれらしい診断を下されるのかもしれん。
俺が覚えていないだけで、5歳の頃に病名はついていただろう。」
「・・アンタはサルとうまくやってきた。」
「ああ。アイツだけだ。全く普通じゃない俺の身勝手な方法論を、アイツは全て理解した。」
「それなら俺にもできるぜ。」
「悟一は何も求めない。」

そう。いつも同じ場所で俺達は動けなくなる。
遮断機の向こう、俺と見つめ合いながら帽子を目深に引き下ろした遠い日の彼。
その彼は今俺のすぐ脇、抱きしめられる程近く、手の届くところにいて、
だけどやっぱり俺達はあの時と同じに、見えない線路に分け隔てられている。

「求めに応えられないということはつまり
それだけの想いは無いということだと、
俺はそう俺自身を理解していた。
だがそれなら、何故貴様が死ぬところに血相を変えて駆けつけなければならん。」
・・死に際くらい来てよ。
「そこで仮説を立ててみた。俺は失くすことを恐れているのではないかと。」

「もういいよ。」

抱きしめたかった。
ハニーが人とどこか違うなんて、出合った瞬間から気付いてた。
自分の傷に踏み込んで、ハニーが俺の為に何かを語ろうとしてくれた、
その事実だけで、もう充分だった。
ハニーを愛していると、そう思った。
だけどその言葉を口にすれば、俺の感情の重さが彼の亀裂を深くする。

身動きも取れず、言葉にも出せず、
ただ切なくて涙が出そうだ。
人は身体が弱ると涙腺も弱るんだろうか。

潤んだ涙が流れないように、俺は枕の向こうへぐぐっと頭を反らした。
すると枕は首の下へと滑り込み、俺は頭だけ反り返るようにして窓を見ていた。
そこにはさっき宗蔵が立てかけた桃、もとい尻の絵があった。

バカバカしくて、切なくて、愛しくて、
ぎゅっと閉じた目の端から結局涙はこぼれて落ちた。

「なあ、アンタ、壊れてんの?。」
「そう言ったろ。」
「5歳の時に壊れたって言ったよね。
そしたら俺が初めてアンタを見た時、
アンタはもう壊れてたんだ。
なら俺は壊れたアンタが好きなんだろ。
そうじゃない時なんて俺知らないんだから。」

「何年も前に別れて、お前は俺のことは忘れただろうと思ってた。」
「忘れたことなんてねーし。」
「なら、お前は充分に傷ついたはずだ。」
「だったら何。」
「繰り返す必要があるのかって事だ。」

「じゃあ今後俺はこの桃を見ながらアンタのこと思って抜くよ。それでいい?。」
「・・・。」
「女作れとか言わないで。俺はアンタがいいんだ。」
「・・そりゃよっぽどバカだぞ。」
「知ってる。」
「面倒な事になんぞ。」
「面倒って?。」
「想像だから、知らんが。」
「じゃあその面倒OK。問題ナシ。
てかそれより俺を起こしてもらえませんか。首が痛いんだけど。」
「貴様は何故そんな体勢になってんのか。」
「気分。」
「・・。」

「喪失を恐れているのか否か、試してみろと、そういうことか。」
「俺死んでねーし、アンタは何も失くさない。
それより頼むからこの体勢を。首が。」
「いいだろう。」

重い腰を上げたハニーは荷物を運ぶようにガツリと俺の頭を抱え込んだ。
俺の首の下の枕は引き上げられて、その上にドサリと頭が落とされた。
枕の上で俺の頭はバウンドして、目が眩んだ。

「試してみるさ。」

ふと抱きなおされて、覆いかぶさる影、ふわりと重なった唇。
反射で俺はハニーを抱きしめて上下逆になろうとしていた。
だが動かない腕と足が俺の挙動を引き止めた。
・・助かった。それはダメだ。今の今だし。

俺は動くほうの腕をハニーの背に回した。
しかし回した手で彼の背を抱いていいものかどうか。
散々躊躇った挙句、俺は壊れ物に触れるように軽く、
痩せて尖った肩に手を置いた。


壊さないって、誓うよ。
もう壊れているんなら尚更。


俺は多分、壊して踏み込む事が愛だと勘違いしていた。
だから俺自身壊されて踏み込まれたいと、そんな風にも感じてた。
そういう事でしか伝えられないと思ってたんだ。
違う方法もあるって、ようやくこの歳で気付いたから。

あらん限りの力で軽く触れるよう制御して
力が余って痙攣しそうなこの腕を
今度は絶対離さないから。


いいだろ?。



- 続 -
 


このひとがこわさないのは無理だと思うんですけど・・。
一応現在の決意ということらしいです。
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