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かの麗人との前哨戦は、色々あったがとにかく滞りなく完遂した。


彼との対峙で思い知らされた事は少なくない。
僕は男で可愛気も無く世間体からしても最悪。どこを取っても彼の弁の通りだった。
「大反対」だと言い切りながらもしかし、彼は舞い戻った僕の存在を拒まなかった。
それはただひとえに悟一を思いやるが故だ。
僕を待ち続けていたという悟一の痛みを、宗蔵は自分の痛みとして抱いていた。
僕は知らぬ間に、彼らのどちらをも傷付けていた。

しかし今、自責の念で俯いて足を止める場合でもない。
逃げ出したところで何も解決しないと思い知ったばかりだった。

すっかり日も暮れて外套が灯りだした街並みを早足に歩く。
悟一を呼び出した場所まではあと少し。
約束の場所は、悟一の自宅からひと駅先の博物館前。
前に一度だけ訪れたことのあるその場所は、緑の多い公園に隣接していた。
休日の昼なら混雑しているだろうが、平日の閉館後なら人気も少ないだろうという読みだ。

待ち合わせ場所までの道すがら、僕は花屋に寄った。
決して単なる思い付きじゃない。
告白の際には腕いっぱいの花束を抱えて、というのがかねてからの僕の理想だ。
子供じみた青臭い発想だと笑う人もいるだろう。
だとしても、ヤるからには僕の思う通りにヤらせてもらう。
生涯最後の一大イベントなのだから、僕の夢想と誠意と不安と興奮と情熱と疑心暗鬼と、
とにかく全ての想いを今日のこの瞬間に託するつもりだ。

しかし。僕のあれやこれやを受け止めた結果、花屋の配達人のように
腕に余る大束の植物を抱えて電車で帰る悟一を想像すると、さすがに不憫な気になった。
花束はとりあえず小振りのブーケにまとめてもらった。
できあがったブーケは、持参した社用の紙袋の中に収めて店を出た。
どうしても中途半場に常識人な僕だった。

約束の場所、閉館後の博物館正門前。
人影もまばらなその場所で 外套にひとり背をもたれた青年は、
スポットライトに照らし出された役者のように僕の目についた。
無意識に小さな少年を探していた僕は、改めて流れた年月を実感した。
腕時計で時間を確認する。時間にシビアな僕にしてはめずらしく、15分の遅刻。
しかし悟一は待っていてくれた。
待っていてくれるだろうとも思っていた。
結局、僕は彼に甘えているのだ。
願わくば、今後とも永遠に僕を甘えさせてくれないものだろうか。
僕が甘えるのは、後にも先にもキミひとりなのだから。

「遅くなりました。スイマセン。」

僕へと振り向いた青年は、両手をスタジャンのポケットに突っ込んだまま、
少々他人行儀な硬い視線で僕を仰ぎ見た。しかし変わらない大きな瞳は、
かつて両手を広げて僕に抱きついた少年の面影を今も残している。

「少し、歩きましょうか。」

砂利を引いた散策路の先は隣接する公園へと連なっている。
公園は夜桜見物の若者で賑わっているらしく、道の先からは時折嬌声が湧く。
僕は人混みを避けて、博物館を周回するように歩を進めた。
悟一は僕の脇に並び、砂利を蹴るようにして歩いた。

「オレ、戒ちゃんに言うことある。」

僕より先に切り出した悟一の口調は、いつになく硬かった。

「オレもう、戒ちゃんが思ってるほど、ガキじゃないから。」
「貴方を子供扱いしました?、もしそうなら」
「オレの事は、オレが決めるから!!。」

悟一の口調の強さについ足が止まった。
悟一も歩を止めて僕を見上げていた。
横一文字に口を結んだ悟一の表情が意味するところはつまり、
怒っているのだと、頭では分かっても感情的に僕は理解しかねていた。

「それに、言われたくないよ、戒ちゃんには!。」
「あの。何について、でしょう。」
「彼女のこと!!。」

ああ。
そうか。

岸との件で僕に呼び出されたのだと、悟一はそう理解していたらしい。
「あんないい子と別れるなんて」と、僕が説教するつもりだと踏んだのだ。
なるほどかつての僕なら、自分の本心を押し殺しても言いかねない。

「ああ。そんなことで怒ってたんですか。」
「そ!、そんなこと、って!!」

怒って僕に突っかかる悟一というのは、非常に新鮮だった。
牙を剥こうかやっぱりやめようかという内面の葛藤が、寄った眉根に滲んで見える。
感想を言わせてもらうなら、抱きしめたい程に愛らしい。

ひとり別モードに突入しかけた具合の悪さに、僕は空の咳で自身を誤魔化した。

「貴方のお話は分かりました。」
「分かってないよ!!。」
「イエ。分かりました。」
「分かってないよ!。まだオレ全部言ってないし!。」
「そうなんですか。じゃ続きをお願いします。
一応先に言っておくけど、僕今日、彼女、つまり岸サンの話をする予定は無いので。」
「え。」

寄り気味の眉根も一瞬で元に戻り、今度は「え」と言ったままの口の形で固まった。
丸裸に感情を開け広げるその有り様は、僕のようにガードの固い人間とっては
嫉妬すら感じる程に魅惑的なのだと、悟一は生涯気付く事もないのだろう。

「そうなん?。」
「そうです。」
「・・えっと。」
「じゃ、僕の用件を話してもいいですか。」
「・・うん。」
「何点かあるんですけど。大きくは二つ。」

さて。
ようやく本題に近くなってきた。

「あの。僕、今の会社辞めようと思ってます。」
「!。何で!。ホラやっぱし!」
「ちなみに貴方も岸クンもこの件には関係ありません。」
「嘘だ!。彼女が」
「わざわざ嘘を付くために貴方を呼び出してどうします。
もう少し先まで聞いて下さい。お願いだから。」
「・・ん。」
「小さい子の先生になろうかと。今更ですけど。
それで、どう思います?。」
「どうって?。」
「貴方の意見を聞きたいと思って。」

少しだけ潜めた瞳がやや不審気に「それだけ?」と尋ねていた。
僕は無言で頷いた。

「・・オレ、戒ちゃんは先生になってると思ってた。
前もオレの先生だったし。なあ、何で先生になんなかったの?。」
「一番やりたい事をやるには、自信が無さ過ぎたんでしょう。要するに逃げたわけです。
でもやりたい事をやってなければ、自信がつく機会もないわけで。
当たり前の事ですよね。敢えて口にすると我ながら情けない。」
「じゃあ戒ちゃんはこれから一番やりたいことやるんだ。」
「ええ。そのつもりです。」
「じゃあ、すげーいいじゃん!。」
「そう?。」
「すっげえイイ!!。それに、戒ちゃんに合ってると思う!。」
「ありがとう。」

微笑んだ僕に笑い返した悟一だが、次の瞬間には思い出したように口を結んだ。
まだ警戒は完全には解かれていないらしい。

「貴方ならそう言ってくれる気がしてました。
自分で決めたことだけど、誰かに背を押してもらいたかったのかもしれない。」

悟一は固く口を結んだまま、斜め上空に視線を逃がした。
大人になりかけの青年は、どうやら少々厄介だ。
しかし別モードに入りかけの僕は、困難をむしろ楽しんでもいる。

「あともうひとつ。これが最後の件。」
「何。」

ここからが要所かつ一世一代の正念場だ。
僕自身の緊張が伝染したのかそれとも生来の勘か、毛を逆立てる猫のように
悟一は僅かに前屈みの姿勢で僕を上目遣いに睨んだ。

「ええと。つまり。」

言うべき言葉は一つ。しかも非常に短くて済む。
なのにいざ当人を目の前にして、言葉は喉元で凝固した。

ええとそれはつまりその、などと呟きながら、僕は無意識に歩き出していた。
しかも何故かかなりの早足だ。
前置きを呟きながら僕はこのまま帰ってしまうんじゃないだろうか。
自身の挙動の不安さで唐突に足を止めると、
僕の背後で駆け出したばかりの悟一が
僕の肩甲骨付近に鼻をブチ当てた。

「痛。てか悪ィ。」
「悟一。僕と交際してもらえませんか。」
「は?。」

「国語や算数を教えるのには自信がある。だけど人として僕はまだ未熟だ。
今まで短くもない間生きてきて分かったことがある。
テストで点を取るよりも大事なところで僕を導けるのは、悟一、貴方だけだ。」
「へ?。」
「今日岸の名を出すつもりはなかったけれど。貴方が先に触れたから言及しましょう。
確かに彼女の方が断然貴方にふさわしい。
建設的な将来の選択という意味でなら、僕も彼女を推薦せざるを得ない。
だけど今日僕は、僕自身の気持ちを伝えるためだけに貴方を呼んだ。」
「・・ほ。」
「昔。僕、貴方に告白されましたよね。その時僕は貴方に他の誰かが好きだと言った。
これ以上無い位貴方を傷付けて、そして貴方の前から何年も姿を消した。
今更告白できる筋合いじゃないのは承知の上です。
僕は貴方に甘えて、許してもらえるんじゃないかと期待してる。」

僕は社名の入った紙袋の中から先ほど手に入れたブーケを取り出した。

「交際してもらえませんか。イヤ本音を言えば生涯僕の傍らにいると誓って欲しい。
だけどそんなのは、若いひとには流行らないんでしょう?、
僕としても貴方の輝かしい将来までを今拘束したいと言うのは気が引ける。
だから取り合えず、今この時点から始めたい。悟一、僕に答えをもらえませんか。」
「・・へ。」
「貴方はさっきからハ行の一文字しか言ってない。」
「は。」

僕は少々話し過ぎただろうか。

「要点だけまとめて言い直しますね。
悟一、貴方が好きだ。僕と交際してもらえませんか。」

悟一は大きな瞳を更に見開いて、僕と僕の手の花束を交互に見た。
そして遂には僕に視線を止めて、何かを言うべく口を開いた。
しかし彼の口を衝いて出たのは言葉というよりは異音であり、
ゲフッと咳き込んだのを最後に悟一はその場に蹲った。

唾が気管支にでも入ったのかそれとも何か別の理由なのかは分からない。
悟一は地面に片手をついて咳き込み続け、僕は訳が分からないままにただ彼の背をさすった。

「だ、大丈夫?。」

悟一は話すのももままならないようで、ただ片手を挙げて一応の無事を伝えてくれた。
しかし悟一の背をさすり続ける僕の胸には釈然としない想いがわだかまったままだ。
僕の全存在を賭けた生涯最後の告白に、回答が返されていない。

「あの〜。返事もらえませんかね。」

どうにも情けない展開だが、背に腹は変えられない。
ちなみに何が背で何が腹かも不明だ。
悟一の背をさすりつつも、僕は空いた方の手で木の枝を拾い、
しゃがみ込んだ悟一の鼻の先の地面に、『A』『B』の2文字を書いた。

「じゃあもう2択にしましょう。シンプルに。『A』:OK。『B』:断る。
貴方がてきとうにマークしても2分の1の確率で僕に都合がいい。」

従来の一夜漬け方式だ。
さすり続ける悟一の背が突発的に揺れた。
咳するのと一緒に笑ったらしい。

悟一は咳と笑いで滲んだ涙を左手で拭いながら、
右手の人差し指で地面の『A』を丸く何度も囲んだ。
力強く、何度も。

・・助かった。

咳と笑いの発作が収束したその後も、
悟一はクスクスと笑いながら地面の『A』をなぞり続けていた。

「正解です。僕にとってはね。」
「おかしいよ戒ちゃん。まるでオレに『B』の可能性があるみたいに。」
「余裕はあったつもりですけどね。イザとなると、どうも。」
「そうなん?。」
「イザとなったのは今日初ですから。事前には分からない。」
「おっかしいよ。マジで。
オレずっと、戒ちゃんのこと待ってたんだぜ?。」

僕へと振り仰いだ悟一の顔から警戒の固さは払拭されていた。
少し潤んだままの瞳が彼を幾分幼く見せた。
だから僕はかつての少年と対峙しているような気になった。
そういえば砂利道からも外れた土の上にしゃがみ込む僕達は、まるで子供のようだ。

こんな風に貴方が時折子供に帰ってくれるなら、
僕は僕が傷付けて逃げ出したあの時期を貴方ともう一度やり直すことができる。
僕にその機会をくれた貴方に心から感謝する。
貴方を幸せにしたい。

言葉でそう告げるのももどかしくて、僕は悟一を抱き寄せた。
砂地に膝をつくのなら、下ろし立てのスーツも意味がなかったようだ。
彼に顔を寄せる短い間、ふと教師時代の牽制が脳裏に過ぎる。
結果、悟一の頬とも口の端ともつかない妙な位置に唇が触れた。

「スイマセン。先走ったかな僕。」

照れ隠しに意味の薄い言葉を呟きながら膝の砂を払う。
告白したその日に手を出すつもりはなかったのに。なんと言うのか。これは。

「なあ、言ったよね。オレもうガキじゃない、って。」
「え。」

腰を屈めて僕を下から覗き込んだ悟一の目が、獲物を狙った猫のように輝いた気がした。
と、思った次の瞬間には視界がボヤけた。しかも全方位。
悟一に眼鏡を取られたのだと理解した時には、抱き寄せられていた。
自分より上背のある僕の頭を抱えるように腕全体を回し、
悟一自身は僕を仰ぎ見るようにして唇を重ねた。
咄嗟の出来事に反応が遅れた僕へと悟一は押し入り、舌をさえ合わせた。
意表を衝かれ過ぎた僕は、反射的にそれ以上の侵入を拒んでいた。
その微妙なニュアンスを感知して、悟一は僕を解放した。
・・完璧だ。
ただひたすらに眩暈がした。

「ハイ。眼鏡。」

そうか。この眩暈は眼鏡が無いせいか。
渡されるまで気付かないということは、眼鏡のせいではない気もするが。

「分かったよ。心底認める。貴方はもう子供じゃないらしい。」
「へへ。」

眼鏡をかけなおし、元々大したセットもしていない髪形を直し、
乱れてもいないネクタイまで直し、僕はかろうじて自分を立て直した。

「だけど。ホンモノのオトナを見くびらないよーに。」
「・・怖。」
「そう。その緊張感が大切。」
「何に。」

何ってそれは僕の趣味にも関わるので話すと長くなるのだけれど。
良からぬ方向に流れそうな話題に待ったをかけるがの如く、制止のベルが鳴った。
足元に投げ捨てられた僕の通勤カバンの中で、携帯が鳴り響いていた。
本日この時間に僕を呼ぶ可能性のある誰かと言えば、・・園部。

「・・会社でトラブルだ。今から戻らなくちゃ。」
「ちぇ。」
「僕も残念だ。」
「また会える?。」
「勿論。」
「また電話してくれる?。」
「ええ。約束します。」
「じゃ、これもらって帰るよ。」

僕自身が忘れかけていた花束を拾い上げ、悟一が駆け出した。
数歩走った後に振り返り、悟一は花束を大きく振って見せた。

「またな!。」

敏捷で瑞々しい身のこなしに見惚れながら手を振り返しつつも、
もう一方の手で携帯を握り耳に押し当てる。
会社で起こったに違いないトラブルの概要を想像しただけで
胃の辺りがチクチクと痛んだ。

しかし僕の耳に飛び込んだ声の主は園部ではなかった。
覚えの無い中年女性の声音は、想像の域を遥かに超えた状況を伝えていた。


「そちら純友銀行の井野戒而さんで間違いありません?、
こちら国立第二病院夜間担当の和久井と申します、相良梧譲さんという方をご存知、ああ良かった。
昨日から身寄りの方に誰も連絡がつかなくて。アナタの名刺がポケットに。
ええ患者さんは現在安置所、あらまだICU?、泉さーん、昨日の3番ベッドの方今どちら?、
多分視聴覚センター?あらまたなんでそんなところに。そのカルテ記入ミスよきっと。
ええと現状は、とにかく昨日朝に救急で搬送されてからどこにも連絡がつかなかったようで。
ええ。わたくし夜間窓口担当なもので詳細はちょっと。ああこれからこちらにいらっしゃる、
そうしましたら夜間は救急用の搬送口が空いてますから。ええ。お気をつけてどうぞ。」



- 続 -
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