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半日ほど時間が戻ってます



終業時間経過後15分。
山田と後藤が席を立った。
隣の島の協力会社の面々は就業時間きっかりに退社している。
残るは新田、園部、岸。

「ああもうこんな時間か。」

大仰な素振りで時計を見上げ、僕は皆に聞こえるように呟いた。
昨日の夜、僕は悟一に電話で約束を取り付けた。
だから今日に限っては部下の残務に付き合うゆとりは無い。

「じゃ僕は今日のところは。皆さんもあまり遅くならないように。」
「1階の小会議室スかね。講習。」
「今日は無い。昼に言ったよね、岸クン。」
「はい。」
「なんで。」
「何でも何も、そもそもキミは出席するに及ばないよ、新田クン。」
「じゃあ今日は俺が講師やりマスから。」

何故にそう展開を面倒な方に持っていくのか。
口には出せない苛立ちを秘めて、僕は新田ににじり寄り、
彼の耳元で怒鳴るように囁いた。

「キミと岸を二人っきりになんかできるか!。セクハラを容認するようなもんだ。」
「へえ。アンタは良くって俺はダメなんスか。」
「僕がいつ誰にセクハラを仕掛けた。」
「こないだ。」

斜視気味に僕を睨んだ新田が手を伸ばした。
僕のシャツの襟首でも掴むつもりだったのだろうが、
肉厚の手がシャツに届く前に僕はその手を軽くいなして流した。
今日のスーツとシャツは皺一つ無い下ろし立ての新品だ。
新田の汗の滲んだ手で握られてはたまらない。

ところでそう言えば、こないだの講習では
岸がつい涙ぐんだところに新田が登場したのだった。
そうだった。新田の誤解を解くのを忘れていた。
しかし気の短いこの男に一体何を話せというのか。

一度いなされて諦めればいいものを、新田は二度三度と手を出した。
自分の目の前で新田の手を払い続ける僕の我慢も限界が近い。
軽く頬を叩くつもりで手を出した。
社会人として一応、寸止めするくらいの自戒はあった。
しかし数少ないギャラリーはそうは取らなかったらしい。

「やめて!!。」

また岸に叫ばせてしまった。
そんな後悔の念で振り向けば、傍らに園部が仁王立ちしていた。
幾分目を剥いたその形相のせいだろうか、
派手にレイヤーの入った茶髪が逆立っているように見える。
今叫んだのも彼女らしい。
腰に手を当ててふんぞり返った体勢はモデル立ちとも言えるが、
スタイルの良さとは裏腹に今は恐ろしい程の威圧感だけを漂わせている。

「私!。井野サンに話があるんですけど!。」
「僕?。」
「ええ。ちょっと外出てもらえますか。」
「悪いけど僕これから」
「ちょっと外出ても・ら・え・ま・す・か!!。」
「・・はあ。」

どうやら僕は怒られているようだ。何故だろう。
身に覚えが無いから逆に反論の余地もないわけで。
勢いを削がれた新田はと言えば、少々瞳孔を開いて僕を凝視した。

(何かしたんスか。)
(イヤ全く覚えが無い。)

僕と新田は視線だけで短い会話を交わした。

「早く!!。」
「あ、ああ。僕そのまま帰るからカバン持っていっていいかな。」
「好きにしなさいよ!。」

床を蹴るようにガツガツとオフィスを後にした園部を横目に眺めつつ、
僕は手早く荷物をまとめて彼女の背を追った。
上司と部下という立場が何故か完全に逆転している。

「じゃ俺と岸は小会議室。」
「・・ハイ。」

僕は園部の背を追いながらも室内に振り返り、
岸に向けて声を大きくした。

「岸!、もし身の危険を感じたら声を上げなさい、各階に守衛さんがいるから!。
間に合わなかったら非常ベル押しなさい。僕が許す!。」

そんな僕に向けて、早く帰れとばかりに新田が手を振った。

「新田!、わきまえよろよ!。
いいか!何かやらかしたら免職だけで済むと思うな!!。」

・・何だろうこの去り際は。
まるで僕が悪役だ。

◇◇◇

「さて。手短に済ませて下さいね。」

戸外に出てすぐ、僕から園部に切り出した。
場所は正門前の植え込み脇。
喫茶店にでも入って腰を落ち着けるべきなのかもしれないが、
この後に重要な案件を二つも控えている僕にそんな余裕は無い。

「急いでるワケ?。」
「いけませんか。」

ふ〜ん、と鼻息を荒げつつ、園部は僕を値踏みするように
僕の上から下までを舐めて見た。

「キメてるじゃない。珍しく。」
「キまってますか。」
「何喜んでんのよ!。」

キメるつもりはあった。一応。
今日は僕にとって特別な日だ。
誰かに自分の想いを告白するなどというのは、おそらく生涯で最後になる。
相手に対する配慮かつ僕自身の心構えという意味で、今日だけはキメたかった。
しかしキメるつもりはあってもキマっているかどうかは分からない。
だが今まさに聞きたかった言葉が聞けた。
喜ばないはずが無い。しかしもし顔に出たなら迂闊ではあった。

「用件を手短に言うけど。」
「助かりますね。」
「岸ちゃんにまで手出すの止めれば?。」
「ハイ?。」
「美香さんとの結婚バラすわよ?!。」

一転、冷水を浴びた気分になった。
今日のこの厳粛な記念すべき日に一番思い出したくない固有名詞を耳にするとは。
しかも何故園部が彼女の名前を知っているのか。
そして極め付けに『結婚』とは。

「私がどこでこの情報入手したか、知りたい?。」
「・・ええ。是非。」
「私もようやく『美鷹会』に入れたのよね。」
「なんですかそれ。」
「知らないの?!。」
「知らない。」
「総務部長の奥さんが仕切ってる会!。女だけの集まりだけど。
社内の出世筋の女性や取引先のお嬢さんとか、とにかくセレブが大集合してるのよ?!、
井野さん元総務でしょう?総務の女性は歴代加入よ、何で知らないの?!。」

目が覚める思いがした。
総務部長の人脈のパイプは奥方の尽力に支えられていたのか。
言われてみれば総務時代の女性上司と『彼女』が知り合いだったり、
僕と『彼女』との関係を総務部長が当然のように知っていたりと、
以前から総務部近辺には怪訝な風通しの良さがあった。
全てはその空恐ろしい秘密結社の所以だろうか。

「女性ばかりが集まって何をするんだ。」
「何って別に。食事したり、みんなでエステに行ったり。
ゴルフにも行くわね。私今までやったことなかったから大変。
あと独身なら相手紹介してもらえたりね。合コンとかもするし〜。」
「僕の話は誰に聞いた。」
「だから『美鷹会』で」
「会は分かった。誰に聞いた?!!。」
「誰かなんて忘れたわよ!みんなで話してたんだから!!。」

弁解した園部の言葉は悲鳴のようで、それで僕は我に返った。
無意識に園部を詰問した僕は、無様だった。

「・・済まない。大きな声を出した。」
「別にいいけど。」
「弁解するわけじゃないが、言っておく。僕と・・」

『彼女』の名前を口にするのに僕は瞬間躊躇した。
その固有名詞は僕が今日会うはずの彼を汚すような気がした。
投げやりだった過去の自分のありようを今ほど後悔した瞬間は無い。

「僕と美香さんとは別れた。結婚はあり得ない。」
「え。」
「おしゃべりな女性の会のどこでどう話が違ったのかは知らないが。
ついでに念のため。岸に手を出す気は微塵も無い。
もし僕が口説くつもりなら講習なんて回りくどい手は使わない。
退社後に追いかけて道端で直接告白するよ。」
「・・ふうん。」

納得したのかしてないのか、園部はふてくされたような顔で僕を見上げた。

「ひとつ質問していい?。」
「どうぞ。」
「光井銀行とウチが合併するとして、
システム再構築の主導権取るのはどっち?。
もしまだ決まってないなら、どの程度まで決まってるワケ?。」

不意を衝かれた気分で僕はつい言葉に詰まっていた。
園部の懸案は恋愛にまつわるあれこれに限らないということだろうか。

「何も決まってないよ。光井さんとの顔合わせはこれからだ。」
「ふうん。」
「電算部の有り様からしても光井さん主導が妥当だろう。
だけどおそらくウチ主導になるよ。僕の想像だけど。」
「なんで。」
「常務が辣腕だからさ。常務が電算部時代に勘定系DBの乗せ換えた頃、
僕はまだ総務で騒動を傍目に見てたけどね。キミは入社前かな。
反対派は悉く切り捨てられて、最終的に反対派筆頭の電算部部長が辞表を出した。
そこまでする必要があるのかと当時は感じた。だが今現場の人間になって分かる。
旧体制のままじゃIT化すら不可能だった。
相手先にもそれなりの強者はいるにしても、ウチの常務を超えるとは思い難い。
会議を制するのは所詮人間力だ。電算部の内情は可能な限り隠蔽するだろうし。」
「そっか。」
「資本金、預金額もウチが僅かに上だ。常務が腰を折る理由も無い。」

園部は少々首を傾げて、僕を素通りしたどこか遠いところを眺めていた。
先ほどまでの気迫はどこへやら。
あの怒りには合併後の身の振られ方も含まれていたのだろうか。
その辺は全く分からない。
僕にとって女性とは須く謎の生命体だ。

「合併話のついでに、僕からひとつ質問してもいいかな。」
「何。」
「キミはどちらかというと、総務希望?。」
「どういう意味。」
「合併で人事も動くだろうから。」

合併までに本社の外注が子会社になるのかそれとも吸収合併されるのかは不明だが、
いずれ僕達電算部はそこに統合される。
本社の本音としては、統合以前に切り捨てたいところだろう。
僕自身は退職するとして、
残る人員のクビをつなぐことが最後の仕事だろうと僕は自認していた。
その際、現時点で存在しないシステム部の椅子を確保するより、
僕自身馴染み深い総務に園部を推薦するのはさほど難しくない。
彼女に年末調整の詳細でも仕込んでおけば、総務部長が泣いて喜ぶだろう。

「・・一本いいかしら。」

僕の返事を待つこともなく、園部は細巻きの煙草をくわえて火をつけた。

「会の合コンで男できたのよね私。」

僕の提案は彼女の耳を素通りしたのだろうか。
己の身の振り方に直接関わる大事な話題を何故素通せるのだろう。
女性とは、謎だ。
わけがわからない。

「彼がさ、合併後のシステムの主導を私にしつこく聞くわけ。」
「キミ!、それは」
「言わないわよ。」

なら何故僕に聞いたのか。

「あんまし聞かれるから気になっただけ。
彼、IT企業の社長で会社上場してんの。付き合うことになって私舞い上がってたんだけど。
彼の会社って何してんのか分かんないのよね。株だけで儲けてるみたい。
私と付き合ってんのも、なんか、情報欲しいからだけなのかも。」

斜め上方に細く紫煙を吐いた後、園部は「別れようかな」と呟いた。

「私、入社してからずっと『美鷹会』入るのが目標だったのよね。」

そんな目標か、とはこの場合言わないでおくのが正解だろう。

「だけど、ちょっとつまんなくなっちゃった。」

園部は幾らも吸わない煙草をアスファルトに落とし、
ヒールの底で踏みつけたあとに拾い上げた。
携帯灰皿は持参しているようだ。

「私、キャリアウーマン目指そっかな。」

なんてね、と、つけ加えて、園部が僕に笑った。
目を吊り上げて怒鳴り散らした先刻までとはまるで別人に見える。
やはり女性は謎だ。

「なあんて。も少し頭のデキが良ければね。」
「筋は悪くないと思うけど。」
「またまた〜。」
「僕はお世辞とか冗談が苦手なんだ。」
「そうね。」
・・お互い様らしい。

「ヤル気はある?。」
「そりゃあ、まあ。」
「ならキミも講習、どう。今なら新田が講師中だ。」
「それってお得なの?。」
「さあ。多分。」
「それに出たら私のクビもつながるってワケ?。」
「正直なところ出席は関係無い。実力をつけてくれ。
総務じゃないとなるとキミの売り込み先は常務だ。
新田になら僕により質問もしやすいだろう?。」
「かもね。」

お世辞抜きの回答の感触を確かめるように、
園部は僕を覗き込み、悪戯っぽく笑った。

「そうね。おかげでやることができたわ。新しい目標って言うか。」

僕を見上げる切れ長の瞳には確かな力が宿っていた。
目標を前にして輝けるタイプの人間は、確実にキャリア向きだ。
園部は今ようやく本来の目標を見出したのかもしれない。

「決意も新たなキミにひとつ秘密を暴露するよ。
岸にご執心なのは僕じゃない。新田だ。」
「?!。」
「僕は彼の人間性を認めてる。だがアイツは何につけ先走る。
正直、岸の身が心配なんだ。目を光らせといてくれ。頼む。」
「・・。」

状況を飲み込むのに時間がかかるのか、呆然とした園部を前に
僕は自分の携帯の番号を書いて彼女の手の内に押し込んだ。

「もし何か問題が起こったら電話してくれ。すぐ戻るから。
じゃあと、頼んだよ!。」

◇◇◇

僕は駅までの道を小走りに駆け、
帰宅ラッシュの人混みに揉まれつつ電車に飛び乗った。
そして目的地につくなり某人を呼び出すべく携帯のメモリを繰った。
僕の脳裏では、芸術肌の麗人が卓袱台の前で腕を組み、
殺人的な視線で僕を睨み据えていた。

時間も押しているし、成人同士だし、
事後承諾でもいいのかもと、ふとそんな弱気な風が吹いた。
しかしもし事後に僕と某人が対立する羽目になれば、傷付くのは悟一だ。
心を決めて、履歴のとある番号にダイアルした。


「ああ僕ですどうも。宗蔵ですか、今暇ですか。暇ですよね。」



- 続 -
     .


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