42



悟一との食事を済ませ、自宅に戻り着いたのは夕刻だった。

「オレ約束があるから」とかなんとか、
家の前まで戻ったあとに悟一は再び駅へと向かった。
どうにも不穏な挙動だ。
家族が増えることを真剣に考慮しておくべきだろうか。

そんなあれこれを想いつつ、俺は再び朝いた場所に戻っている。
胃にモノが入ったおかげで鳩尾付近の痛みは消えた。
マズいコーヒーを飲んでも差し支えない。
なので朝に淹れて冷えたコーヒーを再び口にしてみる。

思った以上にマズイ。

ところで俺は余程暇なのかと言うと、決してそんな事はない。
半年で30枚という契約の絵は月割りで受け取り人が来る。
初回の納期はそろそろのハズだ。
しかしどうしてもその気になれない。

作業部屋でキャンバスの前に腰を下ろせば、俺はあのサルに対峙する羽目になる。
スカした異国のオープンカフェでカフェオレなんざをたしなむオランウータン。
(・・。)

今となってはアレを見る気にもなれない。
塗り潰す作業を考えただけでうんざりする。
しかし描き直すのは更に気が重い。
一枚5分で描けると分かっているにもかかわらず、あり得ない程に気が重い。

しばらくは止めるつもりの煙草に手が伸びた。
眩暈がするのは胃が空だったせいで、今はそうでもないのかもしれない。
そして実際どうなのか、確かめる前に机上の電話が鳴った。

「ああ僕ですどうも。宗蔵ですか、今暇ですか。暇ですよね。」

・・戒而。

「今僕そこから最寄駅前の喫茶店にいます。西口出てすぐのところです。
すいませんがご足労願えませんか。悟一はいませんよね、もしいても内緒で。
僕会社帰りでこのあとも約束があるんで時間は無いんですけど。
短い話ですからお願いします。すいません。
別に梧譲の件じゃないです。詳細は後ほど。じゃ。」

一方的に話すだけ話して通話は切れた。
唖然とする程に失礼な男だ。
いきなり連絡してきて「暇ですよね」とは何事か。
事実暇そうにしていただけにヤツの言葉は俺の逆鱗に触れた。

行かないと決めた。

決めたがしかし、することがなかった。

イヤ、ある。
あのサルが作業部屋で俺を待ちかまえている。

(・・クソが!。)

結局俺は重い腰を上げた。
かつて俺自身が描いたクソ絵に取り組み直すよりも、
あの税理士みたいな眼鏡野郎に対峙する方が楽だった。

◇◇◇

「お呼び立てしてすいません。それで。」

対面で背筋を伸ばした戒而を上目遣いに睨みつつ、
俺は喫茶店のコーヒーに口をつけた。
家のコーヒーが不味過ぎるせいで、やたらと美味いように感じる。
どう美味いかと言えば、冷めていないところがいい。

前に見たときと比べて、戒而の身なりはマシになっていた。
ヨレの無いスーツはおろし立てだろうか、細身で胸元の立体感が印象的だ。
薄目のリネン地仕立てはベルベストあたりかもしれない。
畳んで隣の椅子に置いた春向き通勤コートにも上質の素材感がある。
しかし。
眼鏡を押し上げたりネクタイを締め直したりという落ち着かない挙動のせいか、
それとも着る人間が醸し出す矯正しようの無い雰囲気のせいだろうか、
戒爾はあたかも客先へ謝罪に出向いてきた大手企業の苦情担当課長に見える。

「実はこのあと、悟一と会う約束をしています。」

苦情担当課長が切り出した言葉は、俺の意表を突いていた。

朝から落ち着かない挙動を繰り返し、
夜の約束に昼からバイトを休んで挑むその相手。
それはあの彼女ではなく、俺の対面のこの男だった。

なんとなく、用件が読めてしまった。

「その前に貴方に話しておく必要があると、僕はそう判断しました。」

「・・貴様か。」
「?。」
「そういうことか。」
「ハイ?。」
「帰る。」

「僕はこのあと、悟一に交際を申し込むつもりです。」

・・バカが。
口に出して言いやがった。

「ああそうか。じゃ。俺は帰る。」

俺は伝票を鷲掴みにして席を立った。
だが思い直して、手の中の伝票をテーブルに叩き付けた。

「呼んだのは貴様だったな。俺のも払っとけ。」
「ちょ、ちょっと!。」

荷物やらコートやらをバタバタとまとめる音を背に聞きながら
俺は足早に店を出た。
せいぜい清算で手間取りやがれ。


「待って!。」

ささやかな俺の呪いも虚しく、戒而は歩道で俺に追い付いた。
悟一との件で俺に一体何を語れというのか。
待ってと背後から肩に手をかけられた瞬間、俺の怒りが炸裂した。
振り向きざまに、俺は戒而のネクタイの結び目付近を握っていた。

「貴様は俺に何の用がある?」
「ですから」
「俺の意見を聞くのか?、ああ反対だ。大反対だ。
アイツは長いこと貴様を待っていた。だが待ちきれずに彼女ができた。
そこに貴様が今更ふらりと戻りやがった。謝るだけならまだ許す。
だが『交際』だと?、そりゃ筋違いだ。そうだろう。違うか。
おまけに考えてもみろ、貴様は男だ。可愛気も無いし、世間体からしても最悪だ。
だからって俺は漫画のバカ親父みたいにちゃぶ台ひっくり返して
『貴様なんぞに娘はやれん』とか叫べはいいのか?!!。」
「・・もし、叫びたいのであれば。」
「ふざけんな!!。」

俺は反射的にネクタイを握るその手を引き寄せ、空いた方の拳を握っていた。
瞬間、戒而が目を閉じた。
・・そういうことだった。
戒而は俺に殴られる為に出向いて来たのだ。
そういうことだ。

バカバカしくて力が抜けた。
バカの茶番に付き合うほど俺は間抜けでもない。

「勘違いすんな。悟一は俺の持ち物でもない。」
「・・ええ。」
「お前らのことは、お前らが決めればいい。
悟一のことは悟一が決めるだろう。俺は知らん。」

戒而は答えず、ただ神妙な面持ちで俺を見つめていた。
眼鏡というシールドの奥に潜むのは、穏やかで哀しげな瞳だった。

おそらくヤツは今日までに不必要な程自分を責めて、
ありとあらゆる非難を受け入れる覚悟で俺の前に出向いて来た。
なら、敢えて言うべき事は何も無かった。
俺は余計なあれこれを無駄に叫び立てたのだ。

俺は煙草をくわえて火をつけた。
戒而を殴るつもりで瞬間血圧が上がったせいか、軽く眩暈がしていた。
毒を喰らってしまった以上、皿を我慢する必要も無い。

しかし慣れ親しんでいたハズの煙を肺の奥まで吸い込んだ途端、足にキた。
フラついた俺へと差し出された戒爾の手を振り払い、
火をつけたばかりの煙草を路上へと放り投げ、己のこめかみを揉んで、
俺はかろうじて体勢を立て直した。

「悟一はお前を待っていた。知ってるだろうが。」
「ハイ。」
「要は、そういうことだ。話は以上。もうついて来んな。」

道端でブッ倒れて戒而に介抱されるのだけはご免だ。
そんな情けない矜持だけを頼りに、俺はフラつく足元に力をこめた。
俺と逆向きに歩き来る道路向かいの通行人が、俺と俺の背後を交互に見つめていた。

俺の背に向けて深く頭を下げた戒而の姿が、
まるで見たようにはっきりと俺の脳裏に浮かんでいた。

◇◇◇

自宅に戻りついた俺は、ギャラリーをスルーして真っ直ぐ奥の作業部屋へと向かった。
今現在煙草は吸えないことが判明した以上、応接場に陣取ったところでする事が無い。
それにこれ以上作業を後回しにしても、俺自身の首を絞めるだけだ。

しかし。
キャンバスのサルを見た途端、発作的な苛立ちが再燃した。

「クソが!!。」

俺は無意識に声を上げて叫び、俺自身の絵を蹴り付けていた。
キャンバスは破れて床に落ち、それを支えていたイーゼルの足までもが折れてブッ飛んだ。
俺は丸椅子に腰を下ろし、ただ頭を抱えた。

俺はもう、描けないような気がしていた。

今まで。
ガキの時分からつい最近まで、俺は怒り続けていた。
幼い日、唐突に愛するものを奪われた俺の中には
尽きる事のない怒りが無機質の炎となって燃え続けていた。
持て余した感情を解放する手段として、俺は多分描き続けてきた。
だが、商談の末にオーダーされた絵はその手段とは為り得なかった。

そうして出口を失い蓄積された感情を機動力に、
俺はこの歳になってようやく過去の真実を暴こうと決めた。
そしてあれこれあったわけだ。
本日に至り、全ての謎は俺の前に真実を晒し尽くした。

ようやく分かった事がある。
事実自体のありようほどには俺は不幸ではないと、そういう事だ。
俺はとあるひとりの存在に命懸けで愛されていた。
気付いていたはずだった。
ただ俺は奪われた哀しみにばかりに目を向けていた。
単にそれだけの事だ。

永遠に尽きないと思われた怒りの炎は、
今や俺の内部から消え去っていた。

そして俺の裡に残ったのは、果てしない闇だ。
どこまでも深く際限も無い漆黒の暗闇が、俺の内部で大口を広げていた。

何故人はやみくもに電話をかけまくるのか。
ようやく理解できるような気がした。
呑み込まれそうな漆黒から逃れる為だ。
だが今俺の手には番号を記したメモも無い。
煩雑だと感じていた同居人も、いずれ戒而の元へと去るのかもしれない。

ようやく怒りを無くした俺には、何も残っていなかった。


またしても俺は発作的に思い立ち、手近なパレットにブラック15mlの全てを絞り出した。
だが、それだけでは足りない。
作業部屋奥の棚を掻き出して、買い置きの画材全てを取り出した。
黒は10本程度あった。
その全てをバケツの底に絞り出し、上から溶油を流し込む。
気分は合宿所の料理人だ。
適当な濃度になったそれを、俺は白塗りの壁へと直接ブチまけた。

壁面を伝って落ちる黒い雫が床に付く前に、清掃用の軍手で壁一面へと引き伸ばす。
漆黒の闇は俺の中で昨夜の夜景とオーバーラップしていた。
人は何故わざわざ夜景を眺めに出向くのか。今なら分かる。
闇の中の光、虚無の裡に輝く人為を確認する為だ。

軍手を通す感覚からして、漆喰の壁はキャンバスとも違い表面の凹凸が顕著に鋭い。
繊細な表現は困難だ。さてどうするべきか。

半乾きの黒い壁の前、軍手を外した俺はその手に絵筆を取り直し、
薄溶きのカドミウムイエローで大雑把な構図を走らせる。
上は空。下斜め半分は海。間には建造物。
東京並みに汚染気味の横浜の空は、夜でも漆黒というよりは薄色が見えた。
何系の色か。漆黒はむしろ海面側がそれに近い。
上から絵の具をブチまけたのは、やや失敗だったかもしれない。
しかしあとの祭りだ。
もう少し乾きが増したら、空には別の色を乗せると決めた。
漆黒の上に一体どんな手法なら重ね塗りが映えるのか、それはその時考える。

適当に建造物の配置を終えた後は、ナイフで外灯と水面の反射光を入れる。
普段は料理用のパレットナイフを使うデタラメな俺だが、
今回の素材の凹凸対応として、柄に角度のついたペンチングナイフを選択した。
外灯はナイフ先で具材を置くように。反射光はナイフ側面で伸ばし込むように。
筆が乗り難い壁も、ナイフの使い方次第では対応できそうだ。


売れるあても無い絵に、俺はのめり込んでいた。



そしてその時、俺は俺を喰らう闇を喰らい返すように、
確かに自身の中心に在った。



- 続 -
 


Return to Local Top
Return to Top