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転がるように歩道まで駆け出てタクシーを拾った。

「とにかく急いでくれ。その気が無いなら降りろ。僕が運転する。」
「・・勘弁して下さいよお客さん。」

実際降りられたら困るのだった。病院までの道が分からない。
それにいくら急ぐ気でも前の車を突き抜けるわけにもいかない。
タクシーは夜の街を至極普通に走り抜け、
一時間後にようやく目的地に着いた。

電話で指示された救急用の搬送口はすぐに分かった。
緑に輝くライトの下にちょうど救急車が一台横付けされたところだった。
救急車の後部から担架で運び出される誰かを、白衣のナースが出迎えていた。
「おじいちゃん!。しっかり!。」
息子夫婦と孫娘だろうか、担架の両脇には家族と思われる面々が付き添った。
ドサクサに紛れるように、僕も彼らの後を追って施設内に入った。

「スイマセン!。相良梧譲の身内の者です。今電話でご連絡を。」
「誰ですって?。」
「昨日の朝救急でこちらに、と。」
「後にしてもらえますか。」

白衣のナースは僕の懇願を一蹴し、担架と一緒に『処置室』に消えた。
僕の目の前で閉じた扉の向こう側からは、せわしない大勢の足音と、
ドクターが処置の詳細をナースに怒鳴る声音が途切れがちに聞こえる。
僕と同様に入室を拒まれた家族3人は、扉に向かって据えられた長椅子に並び、
息をひそめるようにして肩を抱き合っていた。
為す術もなく、僕も長椅子の端に腰を下ろした。

それから5分後なのか1時間後なのか、時間の感覚は失われていた。
3人の家族が処置室の中に呼ばれた。そして間もなく、
扉の向こうからは子供の泣き叫ぶ声と、大人の抑えた嗚咽が漏れ聞こえてきた。
『おじいちゃん』は多分、亡くなったのだろう。
吐き気がした。
梧譲は、どうなったのか。

「アナタ、相良梧譲さんのご親族?。」
白いナース服の上にカーディガンを羽織った小柄な中年女性が
カルテだろうか、ノート大の紙束を手に僕の前に立った。
「ご兄弟?。」
「イエ。友人です。ただの。スイマセン。」
「・・まあいいでしょう。案内します。こちらよ。視聴覚センター。」

僕は看護婦さんの背を追うようにして夜の病棟を歩いた。
つまり彼はどうなったのか。その短い問いを言葉にできなかった。
受け入れ難い答えが返ることを、僕は恐れていた。
本来なら居場所で彼の状態は推測できるはずだ。
安置所なら、死。病室なら、生。ICUなら、かろうじて生。しかし。

「あの。視聴覚センターとは、一体。」
「大勢に向けてドクターがお話になる時に使用する部屋よ。会見とか。」
「はあ。」
「外科病棟は満室なのよ。お年寄りのベッド占有率が高くて。
間もなく一台空く予定があるから、それまで仮にそちらにお願いしてます。
申し訳ないんだけど。外傷が主だからナースコールも必要ありませんし。」
「彼は・・無事なんですか。」
「ええ。電話でお聞きしてなかった?。
右上腕部と右大腿部複雑骨折、入院2ヶ月、全治4〜5ヶ月ってとこね。
ああ、ここよ。視聴覚センター。あら?。」

安堵で僕は気が遠くなっていた。
ここよ、と看護婦さんが振り向いたその時、僕は彼女の遥か後方で
通路片方の壁に寄り、廊下に立てかけたモップまがいに壁に頭の脇と片肩を付け、
かろうじて体勢を維持しているところだった。

「アナタ!。大丈夫なの?。」

「ええ。間もなく。間もなく大丈夫です。
すいませんがあと10秒ほど待って頂けますか。」
「せっかくだから点滴して帰りなさい。」
「・・御遠慮します。」

視聴覚センターとは、ただの広い空き部屋だった。

部屋の片側に何台もの安い長椅子とスチール椅子が寄せられて、
空いた片側の奥に一台のベッドが据え置かれている。
ベッドの傍らまで寄り、そこに横たわる人物を覗き込むと、
腰が砕けるように気も抜けた。

間違いなく梧譲だった。
確かに足は吊られている。
上掛けから覗く腕に見える白いものは包帯だろうか、
厚みがあるところからしてギプスかもしれない。
確かに重症そうだ。
しかし、口が半開きの寝顔、鼾と寝息の中間の異音、
どれをとっても僕が見慣れた、かねてからの彼の寝姿そのまんまだった。

「起こしても大丈夫よ。外傷だけの患者さんですから。」

昔彼の部屋でよくやったように、鼻をつまんで起こしてやろうかと思う。
しかし、止めた。
彼が目覚めて出会いたいのは、僕ではなくかの麗人に違いない。

「イエ。今日はもう帰ります。」
「そう。」
「安心しました。来て良かった。」
「ところで入院の手続きなんですけど。」

親族に連絡が付かなかったせいで事務的なあれこれが全て滞っているらしい。
必要な書類や持参すべきあれこれを看護婦さんに尋ねながら、
僕は視聴覚センターを後にした。

今まで誰にも連絡がついていないとすると、
彼のバイト先や店はどうなっているのか。
悟一と宗蔵にはこの事実をどう伝えるべきか。
それに2ヶ月も入院となれば、色々準備も必要だろう。

どうやら僕は忙しくなりそうだ。

◇◇◇

翌日。
社員はリズミカルにキーボードを叩き、時折電話に応対する。
社内は平穏な喧騒に包まれていた。

昼には園部を呼び出して前日の講習の首尾を聞き出した。
新田の講義は全く脈絡を得なかったので逆に質問攻めにして、
結果、それなりに得るところは大きかったという。
新田が岸へとセクハラ的挙動に出る隙もなかったようだ。
首尾は上々と言える。

前日、病院の帰りに僕は梧譲の店に寄っていた。
店は開いており、何も知らない李厘ちゃんが店長の不在を嘆いていた。
店は毎晩早めに閉めることにして、僕も可能な限り手伝いに寄ると
彼女に約束したところだった。

終業後講師の大任は新田に譲るのがいいのかもしれない。
岸も僕より新田に質問する方が気が楽なのではないだろうか。
万が一セクハラ的な動きがあれば園部が牽制してくれるだろう。

協力会社の進捗書に目を通している振りで
全く違う懸案に没頭中の僕を呼んで、カバン内の携帯が鳴った。
就業中に鳴るとは想定していないせいで、マナーモードにするのを忘れていた。
・・病院で何か突発的な事があったのだろうか。

「済まない。ちょっと。」

部下達の冷ややかな視線を感じつつも、
僕は携帯を握りしめ、廊下へと駆け出した。

「ハイ。井野ですが。」
「俺だ。暇か。」
・・宗蔵。

「平均的なサラリーマンが午後のこの時間に暇だと思いますか?!、
暇なわけないでしょう?!、就業中ですよ!。会社で!!。」
「そうか。終わったらギャラリーに来い。以上。」
・・切れた。

何だろうこれは。
『暇か』は多分、前日の僕の電話への仕返しだ。
自分の時間が押していたせいで、
宗蔵が暇なのを前提にして話してしまった記憶がある。
しかし、果たし状のように端的な出頭命令は一体。

昨日。悟一に告白するのみならず
軽く手を出してしまった僕としては
痛い腹を探られる気分になるのを否めない。

「井野さーん。本社からお電話。」
「誰?。」
「常務です。」

腹を探られて痛がっている間もない
どうやらトラブルが目白押しだ。

◇◇◇

退社後。
時間外講師の役を新田に一任し、僕はギャラリーへと赴いた。
梧譲の現状を悟一と宗蔵に話さなくてはならないし、
呼び出されたのは良いタイミングでもあった。
しかし宗蔵の用件が分からず、不安は募っていた。
悟一に答えをもらった以上、今更保護者殿がどう出てきたところで
一歩も引かない心構えはある。しかし可能な限り穏便には済ませたい。

「こんばんわ。」

扉の上の鈴がカランと涼やかに鳴って僕を迎えてくれた。
しかしフロア奥の応接場から僕を見据える麗人の視線は
涼やかというよりも寒々とした脅威を感じさせる。

「戒ちゃん!。」

姿より先に声が届いた。二階の辺りでバタバタと物音がする。
僕の訪問に気付いた悟一が出てくれるらしい。

「悟一、お前は上に居ろ。」
「何で!。」
「うるせえよ。上に居ろ。」
「ちえ。」

顔を出した途端に悟一は追い返された。しかし去り際に
僕と悟一は瞬間視線を合わせ、お互いが微笑み合った。
嗚呼なんて幸福な瞬間だろう。

「戒而。」
「ハ。」
「入れ。」

宗蔵はフロア奥の作業部屋を顎で示し、先に室内に消えた。
僕は職員室に呼び出された出来損ないの気分で、宗蔵の背を追った。


「うわあ。」

無意識に感嘆の声が漏れた。
作業部屋に入るなり、僕の意識的な視界から宗蔵は消えていた。
僕はただ、壁に魅入っていた。
壁には、一面の夜が広がっていた。

ライトアップされた建造物が水面に反射し、映り込む。
水面は海だろうか、反射光の揺らぎで水のさざめきまでも感じられる。
僕は触れる程近く壁に寄ってみた。
硬いものを叩き付けたのか、壁の漆喰はところどころ細かく砕けている。
その上に絵の具が荒々しく、筆のタッチもそのままに乗っている。
近くで見ると、絵画というより大工仕事のようだ。
今度は数歩離れてみる。
デタラメのように思えた絵筆のタッチはもう目に入らない。
全ての線と面がその位置にそう描く以外に有り得ないのだというように、
ホログラムのような夜の街が浮かんでいる。
人工的な光によって陰影を深めた街並は、
建造物の静と水面の動の両方を携えて佇んでいた。

「しくじった。」

僕の背後で誰かが何か言っていた。
ああ、宗蔵だろう。

「ココに描こうと決めて描いたわけじゃない。
なんとなく、そうなった。
しかし上がってみればどうだ、全くこの部屋に入る気がしない。」
「何故。」
「朝でも夜。昼でも夜。夜もまあ、夜。
全く落ち着かん。落ち着かない以上に気が変になる。」
「・・。」
「描けないような気がした。それで、発作的に描いた。
で。どうやら描けないということでもないらしい。
それが分かったから、もういいんだ。
そこで戒而、相談だ。どうすればこれを消せるだろう。」

・・相談。
思いも寄らないフレーズが宗蔵の口から飛び出した。
僕はようやく視線を壁から麗人へと切り替えた。

「消えないにしても見えなくなればヨシとする。」
「・・あの。僕を呼んだ理由がもしかして、それ?。」
「悪いか。」

僕は穴が開くほどに宗蔵を凝視した。

「何だ。」

成程。
なんとなく、理解できてきた。
昨日には「娘を貴様なんぞにやれるか」と卓袱台を引っくり返した頑固親父だが、
可愛い娘の為には気に入らない婿ともなんとかやっていこうと決意した。
しかし笑って会食、などというのも気に食わないから、
せいぜい仕事でも任せてやるか、と、そんなところなのに違いない。

なんというのかまあ。
彼もまた可愛い人に思えて、僕はつい浮かんだ笑みを噛み殺した。

「何だ!。」
「イエ何も。全然。全く。」

僕はおもむろに壁に寄り、筆の跡の顕著な部分を指でなぞったりして
与えられた課題に取り組む振りをした。
ところで僕には僕なりの懸案があるのだった。
梧譲の件だ。
「入院してます」「そうか見舞いにでも行くか」などと展開するとは微塵も思えない。
大体つい最近彼らは再会したはずなのだがその後どうなっているのか。
凡そどうにもなっていないのだろうとは推測できる。
しかし直接尋ねれば、義父殿の機嫌を損ねること間違いない。

(・・だけどなあ。)

どうしても僕が彼らの仲をとりもたなければならないという事もないハズだ。
僕はようやく悟一との関係を始めようとしているところなのだ。
今はその点を何より第一に考えて、
宗蔵とはひたすら穏便に平穏に当たり障りなく付き合うという選択もある。

(・・・・だけどなあ。)

夕べ。正直僕は梧譲が事故で死んだかと思った。。
あの気の良い男の為になら、何でもできたのにと思った。
何故そうしなかったのかと後悔した。
全然死んでなかったわけだけだが。

(・・仕方ないか。)

どう仕方ないのかも分からない。
おそらくは、なるようになるのだろう。

「あ。スイマセン。電話鳴ってませんか僕。」

鳴ってなどいないのだけど。

作業部屋の入り口に投げ捨ててあった通勤カバンを拾い、携帯を取り出し、
僕は相手も無い電話機と会話した。想像上の相手は、昨夜の夜間受付サンだ。

「えっ!。まさか!。ハイ。ええ今すぐ。」

我ながら寒々しい猿芝居の会話を終えた後、
僕は殊更に神妙な面持ちで宗蔵に振り向いた。

「驚かずに聞いて下さい。・・実は。」

設定としては梧譲が救急車で運ばれて、現在生死も分からないと、そういうことだ。
前日僕も同じ状況に置かれたわけで、まんざら全てが嘘でもないから臨場感も充分だ。
宗蔵には質問の間も与えず、病院名と救急搬送口の所在を伝えて背中を押した。
何故僕が救急搬送口の所在を知っているのかと尋ねられないことだけを祈る。

「外でタクシーでもつかまえて下さい!。
僕は悟一を動揺させないように詳細を話して、後から連れて行きます!。」

反論の隙も与えず、宗蔵をギャラリーから押し出した。
扉の内側で立ち尽くすこと数分。
宗蔵が戻る気配は無い。
作戦成功だ。
・・正直、後が怖い。
しかしまあ、それはその時考える。

「ごいち〜。」

僕は二階に向けて愛しの君を呼んだ。

「何!。」

まるで待ち構えていたかのように悟一は階段を一段抜きで降りてきた。
打てば響くこの反射は嗚呼、愛と信頼関係に裏打ちされているのだ。多分。

「ちょっとこれからデートなんていかがです。」
「行く!!。」

「ちなみに行き先は決まってまして。病院ですけど。
ああ、宗蔵は出てます。
遠回りして行きましょうね僕達。色々事情もあるんで。
詳細は道すがら話しますけど、・・あまり驚かないで下さいね。」



- 続 -
 


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