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うっすらと、鳩尾のあたりが痛む。

最後にメシを食ったのはいつだったか、そういう腹が空な状態で
朝からうまくもないコーヒーが4杯目だから、胃が痛むのは当然だ。
原因が分かっているのでヨシとする。

「なあ、朝メシ食った?。」

二階から降りてきた悟一が寝ぼけた声を出した。

「お前は。」
「まだ。これから。」
「さっさと上で済ませてこい。」
「うん。」

今朝早く、観世から電話があった。
あの件はどうなったと、そういう問いだった。
まさに前日俺がクソ野郎を訪ねた翌日の朝にそれを聞いてくるとは、
少々上手過ぎるタイミングだ。
もしかすると俺自身に探偵でも貼り付けられているのかもしれない。

クソ野郎が俺に話した詳細は省略し、俺は表面的な事実だけを端的に話した。
ヤツは昔あの家に住んだ経緯があり、それであの屋敷に固執してるんだろう。
そういう俺の説明に、観世は納得したようだった。
それで、この件は終わりのはずだった。
なのに俺は余計な問いを口にした。
俺の母親が俺を産んだ後、長く入退院を繰り返していた理由。

「なあ、食パン切れてたっけ?」
「知らん。無いんならそうだろ。」
「買ってくる?。」
「好きにしろ。」
「ん。」

確か、産後の肥立ちが悪かったとか、そんなふうに聞いていた。
産後の肥立ちとは具体的にどういうことなのかは知らないが。
同じ説明が繰り返されると俺は思っていた。
だが、観世は一瞬言い淀んだ。

諸悪の根源はあの細い目のクソ中年だということで事は解決しかけていた。
だがそんな俺の確信は、観世が言葉を呑んだその短い間に揺るぎ始めていた。

「そうだ。墓参りにでも行こうかな。うん。そうしよう。」
観世は唐突に声のトーンを上げた。何かあると明言したようなものだ。
「お前もたまには拝んどけ。俺はこれから出るぞ。じゃ。」
そして電話は一方的に切られた。

電話では話せない事があるから聞きに来いと、そう取るべきか。

但し、聞かないという選択肢もあるわけだ。

「牛乳も無いから買ってくる?」
「だから好きにしろ。」
「うん。」

言っている言葉とは裏腹に、悟一は俺の対面に座り込んだ。
一体何だと俺が問う前に悟一は長椅子の上に寝転んだ。
置き絵も無くバカ広いだけのギャラリーの隅、応接スペースには俺と悟一。
路面に向けて一面ガラス貼りの壁はどうにも居心地が悪く、
今はブラインドを降ろしてある。
そのブラインドの隙間から入り込む陽光が、
細く伸びてはフローリングの床を輝かせている。
外は晴れ上がっているらしい。

「学校は。」
「・・ん。」
「バイトは。」
「今日休むって電話した。」

どこか悪いのだろうか。

悟一は長椅子の上に寝転んだまま靴を脱いだ。
脱いだ足も長椅子の上に乗せ、その足でグイと椅子を押す。
当然身体が頭側に滑り、頭だけ長椅子の端から落ちた状態になった。
悟一は下から逆さまにブラインドを見上げるようにして、
目を細め、射し込む陽射しを眺めていた。

頭が悪いだけか。

「天気、いいよね。」

悩み事でもあるんだろうか。
あるとすればまあ、彼女の事だろうが。

数日前に彼女の件で悟一を殴って以来、その話はしていない。
あれはどうなったなどと問うのも、無粋な気がする。
それに俺が聞くことでもないだろう。多分。

「買出しは?。」
「うん・・。」
「ウン、何だ。」
「めんどくさいような。なんか。」

彼女と別れるつもりが、別れられなくなったのかなどと邪推してみる。
別れたいのに別れられない理由としたら、一般的に考えるなら・・妊娠か?。
それは一大事だ。

「オイ。」
「何?。」
「・・イヤ。」

俺は聞きかねて、うまくないと分かっているコーヒーをまた口にした。
コーヒーを飲み下した途端胃に痛みが走る。
最近は極度に吸い過ぎたせいか、煙草を口にすると眩暈がする。
それでコーヒーにしたわけだが、こうなるとどっちもどっちだ。

「なあ、もし・・さ。」
「もし、何だ。」
「・・やっぱいい。」

もし、妊娠だとして。

・・だとしてもさほど悪くもないのかもしれない。
あの気立てのいいのがココに嫁に来て、
俺に健康的な日本茶を淹れてくれたりするんだろうか。
・・むしろ好ましい。
俺的には歓迎だ。

悟一は働きに出て、俺はただ作業部屋にこもって絵を描く。
ギャラリーの客対応なんかも、愛想の悪い俺よりも女性の方が好ましい。
作業中の俺の後ろで乳飲み子を抱えた嫁が近所付き合いの困難さなんかを愚痴るのかもしれないが、
俺は30分に一回程度相づちを打てばいい。そういう承諾が彼女と俺の間では暗黙に成立している。
何の問題も無い。

「なあ宗蔵、どっか、行かない?。」
「どっか、って。」
「どっか。・・行かないよね。」

彼女がココに嫁に来るとして。
それはともかくだ。

昨日。クソ野郎に会う直前、俺は事件当時の担当刑事に面会していた。
引退して現在年金生活の男の記憶が曖昧なことは想像していた。
だから彼が当時のメモを引き合いに、
俺の母親が精神科に入退していたと語った時も、何かの間違いだろうと思った。
老人は過去の別件と俺の件を混同したに違いない。そう思った。

「イヴの夜にいらっしゃい。」
女に誘われたとオヤジを刺した男は言った。
ボケ始めているかもしれない老人の話に拠ればだが。
強盗の前科が数犯の男の言い訳は、突飛過ぎて信憑性にも欠けていた。
供述調書にも載せなかったと、隠居老人はそう語った。
だが後日の裁判で、弁護人は被害者の嫁は精神科に通院中だったと付き止めた。
しかしもし本当に訪問を許されたとしても、殺人を酌量する要素としては弱い。
安請負いの国選弁護人は控訴も主張せず、結局一審の実刑で決まり。

「被告の弁を供述書に取り上げておけば判決も違ったのかと、
良心に苛まれた日もあった。しかし君のような遺族の心境を思えば、
おそらく判決は相応だった。君が訪ねてくれたおかげでそう確信できた。」
ありがとうと、老人は俺の手を取った。
余生もさほど長くないと思える男の手を俺はただ握り返した。
実際のところ、判決なんざに意味は無い。
安寧なこの国で死刑囚が殺されることは稀だ。
かの犯罪者は刑が執行される以前に刑務所内で風邪をこじらせて死んでいる。
とんだお笑い種だ。

「オイ、行くぞ。どっか。」
「マジで?、どこ?!。」
「花見。」
「うっそ!。」

「どうする。俺は出るが。」
「行く!。超行く!。」

青山霊園は今時桜が見頃だろう。



- 続 -
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