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〜Everything gonna be alright.
〜Everything gonna be alright.
きっとうまくいく。

ハニーを無事自宅まで送り届け、店に出勤した頃にはもう日が変わっていた。
そして遅刻して顔を出した俺の店は、閉まっていた。

店内カウンター端には小さな黒板を据え置いている。
イタ飯屋なんかでは本日のおススメメニューなんかを書くが、
ウチではツケ未払いランキング上位の客が実名で記されている。
その黒板が雑に消され、殴り書きが残されていた。

『マスターのバカ』

李厘だろう。
終電前には店を閉めて帰ったらしい。
『バカ』の右下には、小さく端正な文字の補足がある。

『同感です』

戒而も来たらしい。
戒而が来たんならまあ、店はなんとかなったんだろう。

そんなわけで俺は誰もいない店でひとり飲み出していた。
部屋に帰っても今日は眠れそうにないし、
遅くに寝てもバイク便のバイトに遅刻するし。
寝るには中途半端な時間まで起きていた夜は、
今までもよくこんな風に店でひとりで時間を過ごしてきた。

薄暗い店内、ベースのきいた旧いアンプから流れる20年前のブルース。
前の店長が焚きつめた香は今でも漆喰の壁に染み付いていて、
煙草の匂いと絡み合い、ここにしかない不思議な空間を醸し出す。
この店の中で、時間は止まっている。
まるでシェルター、避難場所。逃避場所だ。

ロックグラスのバーボンをあおりつつ、俺は自分の携帯を確認する。
着信ナシ。

別れ際、ハニーに携帯の番号を聞いた。
持っていないと言われ、自分の番号を教えた。
今になって、自宅の番号を聞けば良かったと思い付く。
自宅の番号なら悟一に聞けば分かるけど、
本人に教えてもらうという手順が重要なわけで。

ハニーからの連絡は、永遠に来ないんじゃないかと、そんな気がする。
あのハニーが「最近どう」なんて電話してくるとは思えない。
だけど連絡してくれと番号を教えた手前、数日は待つのがスジだろう。

数日ってのは、何日か。
2日か、3日か、半年か。

俺は携帯をポケットにしまい直し、グラスに残った酒をイッキに空けた。
問題なのは、何日待つかということじゃない。

何をするかだ。

Everything gonna be alright、きっとうまくいく。
掠れた声で男が歌い続けている。
ビートはレゲエだが感性はブルース。
うまくいくと繰り返しながら、曲調は前向きな展望を否定する。

ここに座り込んでいても、結局何処へも行けない。
俺はそのことにようやく気付き始めていた。
俺は長い間自分の時間を止めて待ち続けた。
そして想い続けた誰かに再会したはいいが、
今の俺に惚れ直してくれとアピールできるものも無かった。
ハニーも言っていたように、俺もあの頃よりマシになってなければ
長い時を経過した意味がない。
しかし。『マシ』って一体何がどうなればマシなのか。

(・・。)

俺は重い腰を上げ、グラスを流し場に戻し、
それからデッキの音を止め、カセットを取り出した。
カセット下部に露出する細いテープをピューっと引き出し、
そしてくしゃくしゃっと丸め、カセットごとゴミ箱に放り投げた。
あれは前の店長がコダワリを詰め込んで編集したテープだから、
同じ音源を集めるのは至難の業、というか無理だろう。
だけど多分、それでいい。

俺は店を閉め、テナントビルの外へと昇る薄暗い階段を上がった。
時間的に行く場所も無いし、部屋に戻るしかないだろう。

一体どうなればマシなのかという要所は分からないままだった。

◇◇◇

テナントの階段を昇り切った先の地階に、小僧が座っていた。
抱えた膝に頭を乗せて動かないその姿勢からすると、寝ているらしい。
この界隈に、酔っ払いは多い。ウチ自体が飲み屋なわけだし。
ほっとくつもりが、ふと足が止まった。
なんとなく、知ってるヤツのような気がした。
確認する為に、小僧が抱えた膝の脇に軽く蹴りを入れてみる。

「わ!。」

「なんでサルが俺の店の前で寝てんだよ。」
「・・ワリ。梧譲んち行ったらいないからさ。」
「んじゃ店の中入れよ。」
「でもオレ酒とか苦手だし。」
「飲まなきゃいーだろ。」
「そうなんだけどさ。」
「つーか大体が夜だぞ?、てゆうかもうすぐ朝だぞ?」
「ん。」

俺の前に突然降って湧いた小猿は思い切り歯切れが悪い。
それで悟一が何を言いに来たのか、もう見当が付くような気がした。

「で、どうだった?今日。」
「べ、べっつに。俺は宗蔵の運転手だっただけで。」
「・・ふ〜ん。」
「俺今さっきオマエんち行ったぞ?、宗蔵送って。」
「知ってる。オレそのあとに出てきたから。」
「なんで。」
「宗蔵寝たしさ。オレ眠れなくて。」

「で、何。」
「・・あんまたいしたことじゃないけど。一応。梧譲には話とか聞いてもらってたし。」
「サルが前置きとかすんな。」
「オレ戒ちゃんにフられた。」

それはまあ、そうだろう。
それ以外あり得ないとは思っていた。
なのに俺自身が鳩尾に一撃喰らったように感じた。

「あと、彼女にもフられた。」
「はあ?。」

小猿はバツの悪い顔で俺を見上げ、それから視線を逸らせた。
成程、そういうことか。

「そーか、そういうことか。
お前、グダグダして、結局彼女に言わせたわけだ。」
「・・そう。」
「最低だなお前。男として。」
「そう。オレ、最低だ。」

別に同意して欲しいわけでもないんだけど。
小猿ちゃんは俯いて何も話さなくなった。
俺は膝で小猿の尻に蹴りを入れ、とにかく歩け、と無言で指示した。
人間じっと座ってるばかりじゃどうにもならない。
ついさっき俺が得たばかりの教訓だ。

俺達は並んで、白みかけた早朝前の街をあてもなく歩いた。
落ち込んだ小猿に気を取り直させるような気の利いた言葉も思いつない俺は、
ひとり煙草をくわえて火をつけた。
振り仰いで吐き出した紫煙は、白い息みたいに朝の薄明かりに溶けていく。

「さっき。夜に、戒ちゃんから電話あってさ。」
「へえ。」
「なんか話あるから会えないか、って。
多分、彼女と別れるな、とか、そういう話だと思うんだけど。」
「彼女と別れたとか言ったのかよバカ。」
「言ってないよオレ。でも、彼女が言ったかも。」
「戒而がお前の彼女知ってるかよ。お前が言ったんなら別だけど。」
「彼女と戒ちゃん、おんなじ会社なんだよ。」
「はあ?!。」
「オレもこないだまで知らなかったけど。」
「・・なんだそりゃ。」

「戒ちゃんてさ、優しいじゃん。」
「そーか?。」
「優しくって、お人好しで、そんで、お節介じゃん。」
「・・まーな。」
「彼女と別れるな、とか、戒ちゃんには言われたくないじゃん?。」
「そりゃまあ、お前の立場的にはな。」
「余計なお世話だよ。」
「・・。」
「分かってる。そう言えば良かったんだよオレ。戒ちゃんから電話きたときに。
なのにさ。オレ、『分かった。何時?』とかって。」

俺はただ、自分の吐き出した煙が散り消えていくのを眺めていた。

「すげー逢いたいんだオレ。戒ちゃんに。」

そりゃまあ、そうだろう。
フられてすぐに嫌いになれれば楽なのにな。
なんでそうならないんだろうな。

「すげー、逢いたいんだ。」
「逢うんだろ。」
「オレ、フられたんだぜ?!。」
「うん。」
「まいったよもう、オレ」

それ以上言われても俺も困る。
何故なら、俺にしてやれることが何もない。
だから俺は小猿の栗色の髪を鷲掴みにした。
撫でるかわりに頭ごと軽く振ってみたりして。
そして放すタイミングを失い、やや大振りに振り回し、引き押したついでに、
無防備な腹にガツンと膝を入れてみたり。

小猿はげふ、と喉元で呻き、そして野生の本性を目覚めさせた。
俺に押さえつけられた頭もそのままに、サルは蹴り上げた俺の膝を取り、
俺を路上に押し倒し、寝技に持ち込んだ。

気がついた時俺は、足4の字固めを決められていた。
本来なら入る途中に切り替えすべき技だが、俺は油断し切っていた。
俺は寝転んだ状態で路上のアスファルトを夢中で叩き、
猿小僧にギブアップの意思を伝えた。

「止めろ!。お前わざわざこんなことしに来たんじゃねーだろ!。」
「・・うん。そうだな。」

小猿は納得し、技を解いてあっさりと立ち上がった。
関節のみならず足全体を痛めた俺は、小猿に肩を借りてヨロヨロと起きた。
クソ。筋力魔人め。

「オレ、帰る。」
「電車動いてねーぞ。」
「電車動くまでは、歩く。」
「バカ。何で都内を延々と歩く必要があるんだよ。こっち来い。」
「こっちって?。」
「駐車場。送ってくわ。俺もまあ暇だし。」
「いーよ別に。」

「覚悟しろよ。バカみたいにブッ飛ばすぞ。死ぬ気で俺につかまりやがれ。」
「なんだよ!時間ないんならいーよ!。いいって言ってんじゃん!。」
「振り回されてビビッて冷や汗かいたら頭もすっきりすんぜ。多分。」
「・・。」
「泣いちゃうかもな。はは。ざまーみろ。覚悟しろよ。」

脚に痛みを残しつつ吾一の隣を歩く俺は、幾分ヨロヨロとしている。
言ってる事と裏腹でどうにも格好がつかないが、まあ仕方ない。

「覚えてる?、お前昔俺に言ったよな。『オマエよりマシになる』って。」

吾一は答えなかった。
古い話だし、多分忘れているだろう。
俺自身がつい今しがた思い出したところだ。

「お前はさ、実はあの頃から俺よりマシだったし、今だってマシだ。多分。
彼女に対しては、なんだその、ややイタダケなかったけどさ。
まあ、お前みたいのを『優しい』とか言うヤツもいるだろーぜきっと。
お前が俺に相談することなんて、ホントは何も無い。
愚痴聞いてやんのがイヤだって言ってんじゃないぜ。
俺は、フられたとか、認めらんなかった。」

何か一言入れてもらわないと間がもたないんだけど。
俺と同じくらい気の利かない小猿は黙ったままだし、
俺は所在無くポケットをあさり、煙草を探してみたりした。

「ま、俺サマはなんとか敗者復活戦まで辿り着いたと思ってる。
その点お前はサルで色気が無いから到底無理だと思うけど」
「なんだよそれ。」
「『戒而のことはあきらめろ。』多分それが一番マシなアドバイスなんだろ。
だけどそんなこと、お前も分かってるよな。
俺に言われてああそうか、なんて思うなら、もう何年も前にあきらめてるわけで。」
「・・うん。」

分かっても動けないときはある。
俺はハニーと逢えなくなってから何人も女抱いた。
だけど気持ちは同じ場所から動けなかった。

「せいぜい傷付いて無駄にあがきやがれ。」
「・・。」
「俺も、そうする。」

店の裏の駐車場まで、俺達は今歩いた道を歩き戻っていた。
朝から野郎2人が並んで歩いていることから始まり、
俺達はやっていること全てがうっすらとバカバカしい。

俺の頭の中を読んだみたいに、隣の小猿がクスリと笑った。

「つまりオレたちって、フられの負けチームなんだな。」
「お前と一緒にすんな。」

ちぇ、とふてくされた吾一の横顔には、幾分脳天気さが舞い戻っていた。
未だ無人の繁華街の間を縫って射し込んだ朝日が
小猿の栗色の髪を軽く透かしたから
そんな風に見えただけなのかもしれないけれど。


- 続 -
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