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横浜・大黒ふ頭。
パーキング2階の展望所で、俺は独り柵越しに路面を眺めていた。
湾岸辺りの道はヤンキーどもがレースまがいに爆走するから、
路面には焦げたタイヤ痕が幾つも焼け付いている。

もう少し先まで走れば、水際で湾岸線が立体的に交差する絶景の夜景ポイントがある。
だけどもう今の俺には、目に映る景色なんてどうでもよかった。
はあ・・と漏れた重い溜息と共に崩れ落ちたら、あとは溶けてこの世から消えてしまいたい。

ハニーはバイクを降りるなり青い顔で手洗い場に向かったままだ。
初乗りなのに振り回したせいで、酔ったのかもしれなく、
今頃は吐いてるのかもしれない。

(・・。)

今日は、少なくとも最低でも本日は、手を出さないと固く心に誓ったはずだった。
なのに。
手を出す以上に、俺はハニーを殴り、そして蹴り飛ばしていた。

(・・・。)

色々と成り行きがあり、その成り行きには俺の良く分からない展開もあったんだが、
結果として俺がやった事はそういうことだった。
殴り蹴り、ふらついているハニーの手を引きバイクの尻に乗せ、夜中まで走り続けた。
俺がまだハニーに殴り返されていないのは、
単に現在ハニーが弱っているというただそれだけの理由だ。
怒っているのはもう微塵も疑う余地が無い。
そりゃそうだ。
もし殴られ蹴られて拉致されたら、温厚な俺でも怒る。
体力が戻ったら半殺しだぞクソ野郎と思う。

「オイ。」

背後からの声と同時に、尻に膝蹴りが入った。
手で肩を叩く程度の軽い蹴りなのにもかかわらず、
俺は突然背中に火がついたかの如く背筋を伸ばしていた。

「火。」
「あ・・ハイ。」
「ハイライトはいらん。」
「そう。」

下の売り場でマルボロが調達できたらしい。

ハニーは俺に並んで柵に肘を乗せ、夜の高速を眺めつつ煙草に火をつけた。
障らぬ神になんとやら。俺は無言でハニーに戻されたハイライトに火をつけた。
春といっても陽が落ちればまだうっすらと肌寒い。
時折吹く寒風は並んだ俺達には向かい風だった。

不思議なもんだと、俺は自分自身のことを思う。
あわよくばもういちどハニーと・・なんて夢も完璧に潰えて、
ついさっきまでは世界が消滅してもいいような気がしていた俺だった。
なのに今隣にハニーがいるだけで、満たされた気分になっちまう。
先の事が考えられないバカってだけのことなのかもしれないけど。

「つまらん事を聞いてもいいか。」
「何?。」
「あの絵、どこにある。」

・・そうきたか。
先の無い虚ろな幸福感も掻き消えて、後頭部を殴られたように目が覚めた。
その話題は、鬼門だった。
もし今後、もしもハニーと何度も逢えるようなことになれば、
いつかは話さなければならないだろうとは思っていた。
しかし再会した初日とは思わなかった。
これもまた俺の普段の素行が引き寄せた運命なのだろーか。

俺は柵から一歩引き、コンクリートの足場に正座した。
もしもこの話をすることがあるのなら、こういう態度で話す以外ないと、
俺は以前からなんとなくそう思っていた。

「燃やしました。」
「はあ?。」
「俺が、燃やしました。」
「・・別にお前にやったもんだし、どうしようが勝手だが。」
「スイマセンでした!。」

土下座した俺の耳に、ピシュっと金属音に近い小音が届いた。
消音拳銃で撃たれたのかなと思いつつ恐る恐る顔を上げると、
ハニーが缶ビールのプルタブを引き上げたところだった。
売店で色々仕入れていたらしい。

「ウザイから立て。」

言うのと同時に正座する俺の顔の脇にビシっと蹴りが入った。
それを避けて横に転んだ俺を追って容赦無い蹴りは続き、転がり逃げつつ俺は立ち起きた。

「理由を聞いてもいいか。一応。」

吸いかけの煙草を靴先で揉み消したあと、ハニーはひとりで勝手に缶をあおった。
振り仰いで露出したハニー喉元の白い肌が、外灯でその陰影を深くしていた。

「話したくないなら、別にいーが。」
「イヤその。」
「言ったろ。お前にやったものだ。俺の物じゃない。」
「アレは、アンタじゃないから。」

・・激苦手なんですけど俺。自分の気持ちみたいなこと、言うの。
クソなんか、もう。

「アレは。あの絵は、俺の中でずっと、アンタみたいなもんで。」
「で、燃やした、と。」
「アンタと逢えてた頃は、それで良かったんだ。
宗蔵が側にいなくても宗蔵のエネルギーっていうか、
アンタの分身みたいなのが俺のところにあるっていうのが、良くって。
でも、逢えなくなって、思った。これはアイツじゃないって。」
「そりゃ俺は絵じゃねーが。」
「辛くなった。アンタはいないのに。アンタみたいなのがあるのが。」
「・・。」
「我慢できなくなった。だから燃やした。誰にも渡す気なかったし。」

「上等だ。」

ビール缶を手に、ハニーは小さく肩を揺らしてクスクスと笑っていた。
悪酔いした酔っ払いにしか見えない。
悪酔いさせたのは、俺なんだろうかやはり。

「ホント、スイマセン!。」
「上等だと言ってるだろうが。」
「ホント、」
「うぜえ!!。」

スイマセンと態度で示す為、胸の前で手を合わせる途中が、
大音声の一喝で俺の身動きは止まった。
ウルトラマンが戦いを挑む前みたいなポーズで固まった俺を一瞥し、
ハニーは柵前の元の位置に戻り、俺に背を向けてしまった。
それで俺は足音を忍ばせてこっそりと、ハニーの隣に戻った。
隣に寄った気配に気付かないわけもないだろうが、特に攻撃は無かった。

「それで。」
「へ?。」

俺よりちょっとだけ背が低い細肩の美人の一挙手一動に、
俺はさっきからずっとビビリまくっている。

「貴様は何か俺に聞くことないのか。」
「い、いいの?。」
「ないならいーが。」
「ある。ありマス。」
「じゃ言え。」
「い。いいいいいいま。」
「あ?。」
「今付き合ってるひととかいますか。」

「バカか?!!。」

「だ、だって聞くことないのかってアンタが」
「それじゃないだろう?!。」
「え?!。」
「貴様がついさっき馬乗りになって腕を折ったのがどういう人間かとか、気にならんか?!」
「・・ああ。」
それは忘れてたんだけど。

「ええとじゃあ、あのオッサン誰。」
「もういい。」
「・・じゃ、いいけど。」
「いいのか??!!。」
「え!、じゃ聞く。聞くよ。超聞く。聞きたい。」
「・・お前一度死ね。」
何よそれ。

ハニーは俺にそっぽを向いて、ひとりで酒をあおり出した。
俺だって飲みたい気分だけど、ハニーを乗せて帰るからには安全重視だし。
仕方ないから俺もそっぽを向いて、新しい煙草に火をつけた。
冷えた春の夜風が俺達の間を吹き抜けて、ヒートした気持ちを落ち着けてくれた。
こんな沈黙も悪くないと俺は思う。
隣にハニーがいるのなら。

「気色の悪い話だが。」

俺に横顔を見せたまま、ハニーが切り出した。

「あのクソ中年は、俺の親父に惚れていたらしい。」
「へ、へえ。」

男に惚れた男が気色悪いというのはつまり、
ハニーに惚れている俺が気色悪いということなんだろうか・・なんて深読みしてみたり。
恋する者は誰しも、乙女だけじゃなく野郎だってナイーヴだ。

「しかし手に入らないと分かり、殺した。」
「ハイ?!。」
「それはさて置くとして。クソ中年はとある古い屋敷を手に入れようと決めた。」
「あの。今なんか俺スゴイこと聞いたかと。」
「それはまあ、気にすんな。忘れてもいい。」
そ、そうなん??。
「20年も前の話だ。今貴様が詳細を聞いてもどうにもならん。
どうにもならんという意味では、俺も同じだが。」
「・・。」
「クソ中年と親父はその古い屋敷で暮らした時期があった。
暮らしたといっても別に寝たわけでもないらしいが。」
「・・へ、へえ。」
「親父と過ごしたその時間は、クソ中年にとって悪くない想い出らしい。」

悪くない想い出となる時間を共有した人間を、殺したというのか。
しかしそれよりなによりも、親父が殺されたって、それって。
思いもよらない話の内容に俺の頭はショートして、質問をまとめることすらできなかった。

「今の今まで、俺は怒りで頭が朦朧としていたが。」
そりゃそうだろう。
「思い直してみれば、惨めな話だな。」
「・・ミジメ?。」
「野郎は高校の頃、偶然親父と出会った。
そして親父の勤務先である大学に進学したが、その頃親父は引っ越していた。
間違って入ったような大学を卒業後、親父を追って京都から上京し、探し当て、出会い、殺し、
そして今になって、ささやかな思い出の残る屋敷を手に入れようとしている。
親父の血脈であるという理由で、俺すら手に入れようとした。」
「へ?!。」
「捩くれた発想だ。」
「ちょ。ちょっと今何か気にかかる発言が」
「俺は親父じゃない。そうだろう?。」
・・そりゃ、多分。
「俺アンタの親父さん知らないけど、俺は俺の親父と違うし。」
「それに。あの屋敷も親父じゃない。」
それはまあ至極当然に、そうだ。

「人は変わるもんだと、俺は思う。」
「そう?。」
「でなければ生き続ける意味が無い。」
「まあ、確かにね。」
「あのクソは過去に親父の時間を止めて、今は追憶とかいう淀んだ時間の澱、
まさにクソを求めてる。だがもうそこに親父はいない。」
「・・ああ。」
「悲惨な人生だ。」
「・・かもね。」

「あの絵を燃やした貴様は正解だ。」
「へ。」
「あれは当時の俺が精魂込めたクソだ。だから確かに俺自身と言えたかもしれん。
だが、今の俺じゃない。」
「・・うん。」

そうだ。確かにそうかもしれない。
陰影の深いハニーの横顔を見つめて、俺はそう確信していた。
無造作に伸び過ぎた髪、少々やつれ気味の頬。
だけど昔と違うのはそういう外見じゃなくて。

かつての無垢な怒れる若者は、いつの間に、しなやかに強い大人へと変貌していた。
俺の知らない間に。
俺の時間が過去の一点に立ち止まり続けていた間に。

「そんで。」

突然口調を変えて、宗蔵はその場で大きく伸びをした。

「貴様も多少、変わったのか?。」
「俺?」
「昔は年中サカリのついた犬みたいだったがな。」

ふと俺に振り向いた瞳が、覗うように俺をのぞき込んだ。
・・勘弁してよ。
そんな風に見られるとヤバいんだよ俺。

「多少は落ち着いたってか。」
「イヤ・・その。イヤ。イヤじゃなく。そう。今日は。イヤ今日に限らず俺は」

ハニーは俺を見据えて鼻先でフン、と笑った。
まるで俺の動揺を楽しむみたいに。
そして空になった缶をゴミ箱目がけて放り投げ、
命中したかを確かめる前に、同じ腕が俺に軽いジャブをかました。

「それとも何か、見せかけだけか。」

そうだよそうに決まってんじゃん。
悪いけど俺変わる余裕なんか無かったし。
成長もしてねーし。
俺は犬みたいにずっと、遮断機の向こうのアンタを待ってたんだ。
アンタがアンタ自身の問題に対峙して、乗り越えて、成長してるなんて知らずに、
俺は遮断機のこっち側でずっと、あの頃のハニーを待ってたんだ。

「勘弁してよ。アンタ酔ってる?。」
「さあな。」

右へ左へビシビシとジャブを決めて、宗蔵は俺へと詰め寄った。
鋭いけど当てる気の薄い拳は、避けようと思えば避けられる程度に調節されている。
顔に当てて止めるのも痛そうだし、やり返したらもっと大事になりそうだし。
俺は小さく両手を上げて宗蔵が踏み込んだ分だけ足を引いた。
そして間もなく、俺の片方の踵がコンクリートの壁に当たった。

俺にもう後ろが無い事を知ってるくせに、宗蔵はペースを変えずに踏み込んだ。
だからもう、それは反射だった。
俺は突き出された腕の手首を取り、引き、身を回し、仮想敵を壁際に追い詰めた。
仮想敵が反射的に出したもう一方の腕と、それ以前に確保した腕、
その両方を仮想敵の頭上でまとめて壁に押し付けた。

俺の息が、あがっていた。

別に激しい運動だったわけじゃない。
動作とは別のアレで、動悸がした。
まるで上等の獲物のように、ハニーが俺のすぐ前にいる。

酔っ払いは俺であるかのように、眩暈がした。
頭を振ったが、酔いはむしろ深まった。
鼻息も荒い俺を間近で見上げて、俺の天使は悪魔みたいに微笑んだ。

「・・誘ったのは、アンタだぜ?。」
「だったら何だ。」
「イヤ嘘ゴメン俺」
「黙っとけバカ。」
「ハイ。」

これは夢だ。
夢に違いない。
でもしかしもし夢なら夢で、も・もらっとかない手はないのでは。

たとえ夢の中でもハニーならその瞬間に攻撃に転じるかもしれない。
念の為、壁に押し付けた腕は放さないままで、俺はハニーに唇を寄せた。
嗚呼神様、夢なら覚めないであとほんのもうちょっとだけ。

「オイ。」

俺の長髪が2人の横顔を覆いつくすまさにその直前、
ハニーが醒めた声音を上げた。

そうだよ。
そうだよな。
はは。
そんなにうまいこといくなんて俺も思ってないしさどうせ

「舌入れんなよ。」
「!。」
「聞こえたのか。」


「了解。」




- 続 -
     .


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