36



「んの野郎!!。」
「ちょ、ちょっとキミ。話を」

話を聞きなさいと言っても聞きそうな雰囲気ではないわけで、僕も内心実力行使を決めていた。
転んだ僕を追って一緒に転ぶようにして僕に乗りかかった新田の腰位置は
僕の胸ではなく腹近辺だ。ホジションを逆転させる機会はありそうだった。

しかしどういうわけか突然、新田は白痴めいた顔で動きを止めた。
敵の攻撃が収まったので、僕もようやく周囲を認識する余裕ができた。
折り重なった僕達の背後で、どういうわけか岸が僕のカバンを両手で抱えて涙ぐんでいた。

新田は夢の中のような動きで自分の後頭部を押さえ、
僕の上から立ち上がると、ゆっくり岸へ振り向いた。
どうやら岸が僕の通勤カバンを武器として新田を殴ったらしい。
小柄な女性の力ではたいした攻撃ではなかっただろうが、
保護者気取りの新田には心理的なダメージが大きかったかもしれない。

「なんで・・なんで新田さんはいつも、女子に過保護なんですか!。」

半分涙声になりながら、岸が新田にそう叫んだ。
意外だった。
新田の過保護ぶりにストレスを感じていたのは、僕だけではなかったらしい。

「女子は弱くて飾り物で、どうせ役に立たないからですか!!。」
「オ、俺はただ」
「それに!。園部さんより私に余計に過保護なのは何でですか!!。」
「それは・・」
「わたしが園部さんよりも弱くて役に立たなくて、ダメだからですか!!。」

「ちょ、ちょっとキミ達。」

何をどう言ったらいいのか分からない。
分からないがそれでも何かを言わなくてはならない気がして、
僕は岸と新田の間に割って入った。
僕としては新田に助け舟を出したつもりだった。
しかし新田は岸を見つめたままブンと腕を振り、僕をふたりの間から押し出した。

「園部は・・ついでだ。」
「?。」
「オレが守りたいのは、お前だけだ!。」

オレは、と叫びながら新田は岸の腕を取った。
岸は悲鳴を上げて後退った。その岸を新田が追った。
さすがにこれは割って入らないわけにはいかないわけで。

「あの。ちょっとキミ。」

僕が二人の間に滑るように割り込むと、岸はすかさず僕の背後に隠れた。
新田は僕の右肩越し、左腰下、とポジションを替えながら岸へと接近を試みた。
僕は目の前の僕を無視し続ける新田の顔を両手で挟み、ぐい、と視線を合わせた。

「ちょっとキミ。落ち着きなさい。」
「オ・レ・は!。」

もう聞かなくても分かる。話の流れからすると『俺はキミが好きだ』。それ以外あり得ない。
告白は自由だが、立場上僕には言わなくてはならないことがあった。
僕は自分自身が不愉快なほど新田に近づけて、小声で囁いた。

「わきまえたまえキミ。キミ妻子持ちじゃないか。」
「ち、違う。」
「違わないだろう。元総務をナメるなよ。誰が家族手当もらってるかくらい把握してるぞ。」
「籍は・・抜けてないス。確かに。」
「どういう意味だ。」
「俺、19のときにガキできて、籍入れたけど、入れてすぐ女は出てって。だから。」
「なんだって・・。」

じゃあ、本気なのか、と聞こうとしてやめた。
聞くまでもなかった。
何につけ、新田なら本気以外にあり得ない。
(・・。)
ふたりして押し黙った僕達の動向を覗って、岸が僕の腰の脇辺りから顔を出した。

「だから、俺は!。」

しかし新田が叫ぶと岸はまた僕の背後に隠れた。
隠れた岸を新田の前に押し出すわけにはいかない。
僕は新田の動きに合わせて右へ左へとブロックを続けた。
我ながら間の抜けた動きだが、こんな場合に他にどうすればいいのか。
イイ解決策があるなら教えてほしい。

「俺は!。」

別に顔を突き合わせなくとも声は届いている。
どうしても言いたいのなら、好きだと今叫んでしまえばいい。
但し、胸に秘め続けた大切な想いは、見かけ上、メガネの上司に向かって叫ぶことになるが。
僕の背中向こうの岸を追うのを諦めた新田は、ひたと僕に視線を合わせた。
上目遣いに僕を睨んだ新田の唇が小さくわなないていた。

「くそお!!。」

負け犬の叫びを最後にくるりと背を向けると、新田は猛ダッシュで部屋を出た。
僕を目の前にしてはどうしても言えなかったらしい。
まあ僕としても、気分的に助かった。

取り残された僕と岸は、それぞれの席に戻ると崩れ落ちるように座り込み、
しばらくはどちらも口をきかなかった。

◇◇◇

「そろそろ、始めましょうか、講習。」
「あ、ああ。」
「わたしが問題を解いて、解けないところを井野さんが教えてくれるんですよね。」
「そう。そうです。」

謎の疲労感から立ち直ることができない僕とは対照的に、
岸は自らペンを取り、僕が渡したプリントに取り組み始めた。
しかしその心は一体どこを彷徨っているのか、
ペンはいつまでも紙に落とされることなく、岸の指先でただくるくると回り続けていた。

「すごく好きな人がいたって、わたし、悟一君に聞いてました。その人が男のひとだってことも。」

岸は伏せた視線でプリントの設問を追いながら、
読めない漢字を問うように何気なく話し出した。

「その人が井野さんだったって分かって、正直、驚きました。
だってわたし、見た目には普通の女のひとより女っぽくて綺麗に見えるような、
そういう人を勝手に想像してたから。」
「別に、僕達は」
「交差点の向こう側で話してたでしょう。わたし、分かっちゃいました。
ああ、このひとなんだな、って。
悟一君、わたしといるときいつもぼーっとしてて。口癖は『悪ィ、なんだっけ』。
元々そういうひとなのかもって思うようにしてたけど。ホントは違うってわたしも気付いてた。
あんなに真剣に誰かを見て、必死に話してる悟一君を見て、わたし、分かっちゃった。」

違うそれは、と取り繕う僕の言葉が聞こえないみたいに、岸はただ、変わらぬ調子で話し続けた。
まるでこの場に僕など存在しないかのように。

「あの日、わたしが駅に駆け戻って、井野さんがわたしを追いかけたあの日。
悟一君、夜、うちに来てくれた。
わたしあの日はボロボロに泣いて帰ったのを親に見つかって問いただされて。
わたし何も言わなかったけど、そのあと悟一くんがウチに来たでしょう、お父さんが怒ってもう大変。
わたし悟一君が殺されるんじゃないかって心配になって、
悟一君の手を引いて、ウチを飛び出したの。なんか、気持ちよかった。」

それで、と問うこともできずに、僕はただ岸の告白に聞き入っていた。

「公園で、悟一君なんて言ったと思う?、笑っちゃう。『結婚しよう』だって。
『別れよう』じゃないの、ってわたし聞いたの。そしたら悟一君、
嘘がつけないもんだからすご〜く困った顔になって。
『本当はそう言おうと思ってたけど、泣かせるなんて思わなかった』って。
『もう絶対泣かせたりしないって約束する』って。ホント、笑っちゃう。
だから、わたしから言ったの。『もういいわ。別れましょう。』って。」
「どうして。」
「理由は、もう言ったでしょう!。」

くるくると回し続けていたペンをデスクに叩きつけて、岸が声を荒げた。
普段のおっとりした彼女らしからぬ挙動が、痛々しかった。

「イヤ。聞いてない。」
「悟一君は、アナタを待っていたの!。わたしじゃなくて、井野さんを!。」
「悟一はキミにプロポーズしたんだ。」
「それがなんなの!。」
「彼はきっと、約束を守る。」

挑むように僕を睨んだ岸の目が潤んでいた。
真っ直ぐで純真で、悟一に良く似た大きな瞳。

「きっと悟一は生涯をかけてキミを守る。もうキミが泣くことなんてないように、全力で。」
「井野さんも新田さんと同じ。わたしが守られるだけだと思ってる。」
「違うよ。男は単純だから、原始的な方法でしか好意を示せないんだ。」
「わたしだって悟一君がしあわせになってほしいと思ってる!。
わたしだけが泣かないでいても意味がないの!。」
「なら、キミはまだ悟一が好きなんだ。」
「そんなこと、自分で分かってる!。」
「甘えればいいよ。」

岸は大きな瞳を潤ませたままで、それでも果敢に僕をにらんだ。
思いの他に芯の強い彼女は、いい奥さんになりそうだ。

「キミが弱い女性だから甘えればいいって言ってるわけじゃない。
女の人は、幸せになるべきだっていう宇宙の法則があるんだ。多分ね。
子供を産める性の特権なんじゃないかな。だから、差別じゃなくて役割分担だと思う。きっと。」

僕の言葉をどう捉えたのか、岸は肩を落として俯いた。
そして再度プリントに向かい、僕の存在を忘れたかのようにペンを回し、
回し飽きた頃に、ふと思い出したかのように顔を上げた。

「井野さん、自分の為に会社を辞めるって言ったけど。それ、本当ですか。」

ひたむきな視線に捉えられて、僕は少々たじろいだ。
岸はさっき、僕に本心の全てを吐き出したのだ。
だから僕も嘘をつけなかった。

「本音を言えば。それがキミ達の為になると思った。」
「やっぱり。」
「でもそれはただのきっかけで、辞めるのはやっぱり、本当に僕自身の為だ。
夢があったんだ。学生の頃。
でもそのころちょうどいろいろとあって。結局僕は逃げ出した。
逃げたついでに夢も捨てた。だけど、それは間違いだったとようやく気付いた。」
「・・ふうん。」
「本当だよ。だからキミと悟一がどうなるかに関わらず僕は自分の夢を取り戻す。
その為に、ココは辞めることになる。」
「・・わたしも、そういうことなのかもしれない。」

小さく呟いた岸の言葉の意味が、僕には理解できなかった。
しかし僕が問い返す間もなく、岸はプリントの設問へと視線を戻していた。
岸の指先のペンは2回ほど空中で回転したあと、机上の紙へと落とされた。
ようやく真剣に取り組む気になったらしい。
しかし今や、僕の方が上の空だった。

設問に対する回答を一つ書き終えて次に移るまでの短い間、
岸は僕にではなくて自分に言い聞かせるように、呟いていた。

「わたしも、逃げたんだわきっと。
決して悟一君にしあわせになってほしいからじゃなくて、
わたしのそばで楽しそうじゃない悟一君を見続けるのがつらくて、逃げたんだ。」

◇◇◇

結局その日は僕自身が集中し切れないまま時間が過ぎた。
返り際、引き続いて次回の講習を岸に要請された。勿論大歓迎だ。
彼女がヤル気を出してくれたことは非常に喜ばしい。
だけど僕としては諸手を挙げて喜んでばかりもいられない、そんな心境だった。

自分の中で一体何が問題なのかも判然としないまま、
気がつくと僕は梧譲の店へと足を向けていた。
しかし、辿り着いた場所に彼はいなかった。

「聞いてよおにいちゃん!。チーフってば、今日お店来れないって。
夜に突然電話でそんなこと言うって、アリだと思う?!。」

店では李厘ちゃんがひとりで接客に追われていた。
客は6人だが、この店の店員には酒を出す以外に出前を取りに行くという力仕事がある。
そんなわけで李厘ちゃんが外回りをこなす間、僕はセットの氷を取り替えたり、
ややてきとうなカクテルを作ったり、洗い物をしたりと店の手伝いに従事した。

作業の合間、何故梧譲は急に店に出れなくなったのだろうかと考えてみる。
宗蔵の用事とやらが長引いたのか、それとも帰りに独りヤケ酒を喰らってバイクに乗れなくなったのか。
はたまたふたりは突然意気投合して、泊り込む事になったり。・・それはまあ、ないだろう。
既に一杯の懸案がまた一つ増えたたところで、
元々既に何も考えられない状態の頭にはたいした考えも浮かばなかった。

出前を取りに出て戻った李厘ちゃんは間もなく終電で帰らなければならないということで、
客がラーメンを食べ終えて落ち着いた頃を見計らい、僕達は客を追い出しにかかった。
酔っ払いをなだめすかし、多少威嚇もして腰を上げさせ、店から出し、
店の鍵を持っていないという李厘ちゃんに売り上げを持たせ、軽く店内を整理して僕達は店を出た。
李厘ちゃんを駅まで送り、僕自身はタクシーで帰るつもりが、
なんとなく落ち着かない気分で、僕はそのまま夜の住宅街を徘徊していた。

歓楽街めいた照明と嬌声に呼ばれるようにして僕が辿り着いたのは、夜桜の元。
小さな公園の一角に人々が集い、夜だというのに花見騒ぎの最中だった。
僕は集団から少し離れてガードレールに腰を下ろし、
下からの照明で幻想的に白く輝く花びらの群れを見上げた。
晴れてはいてもさすがに冷たい夜の風で、オーバーヒートした頭を冷やしたい気分だった。

僕を筆頭に、誰も彼もが遠回りし過ぎている。
そう思えた。

企業的な謀略にしても社内的な人事にしても、思いやりにしても好意にしても、
こうすればそうなるかもと、下手に考え過ぎる事で状況が錯綜していく。
守られるだけが幸福じゃないと、岸はそう結論を出した。
何が幸で何が不幸かは、本人にしか分からない。

悟一にとって何が幸福か。悟一は誰を守るべきか。
それは悟一自身が決めることで、僕が考えるべきことではなかった。
自分が誰かを守れるとか幸福にできるとか考える事自体、ある意味不遜なのかもしれない。
多分僕は、今の今まで、悟一を小さな教え子のように思っていた。
だけどもはや彼は岸や新田と同等に、自分の意思で道を決めるべき成人だった。
彼自身の意思を尊重しなければ、彼を信用していないのと同義だ。

僕はただ想いを投げる、そんな方法も、あったのかもしれない。

キミが好きだと、再会して確信したと告げる。
何が幸福か、誰を守るべきか。
それは悟一が決めればいい。

僕はボケットの手帳を広げ、少し前に梧譲が書き付けたあのナンバーを探した。
開くことはないと確信していた頁だが、破り捨ててもいないのは未練なのかなんなのか。
僕は思い切りの悪い僕自身に独り苦笑した。

腕時計で時間を確認する。午後11時。
突然電話するには少々遅過ぎる時間だ。
しかし時間がどうのと言っていると、弱気な僕は結局動かずじまいになりそうだ。

多少の動悸を感じつつ、携帯を取り出してダイアルする。
彼はまだ、起きているだろうか。
夜桜の下、僕はひとり携帯を耳に押し付ける。
今どうしても彼の声が聞きたかった。

そう。僕は恋をしていた。


今や想いはとどめようもなく、隠しようもなく、
まるで学生の頃のようにときめいて
僕は恋をはじめようとしていた。




- 続 -
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