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昼過ぎ夕方前のオフィス街は、昼食難民のスーツ姿も掻き消えて
人影も少なく、ただひたすらに閑散としていた。

本社から電算部の別ビルへと移動する途中、書店に寄って教育関係の書籍を2冊ほど調達した。
打ち合わせが長引いたことにして直帰しても問題ない時間だったが、
今日は定時後に講習を開催するという予定があった。
渋る女子社員を何とか引きづり出したのだから、呼び出した僕が帰るわけにもいかない。

最寄り駅へと人の少ない舗装路を歩きながら、部長の語った内容を脳裏で反芻する。
与えられた情報は少なくない。色々と考えるべきことがあるはずだった。
しかし全く考えがまとまらない。
美香さんの件も含めて、全てがどうでもいいとしか思えなかった。

駅前の交差点で信号を待つ短い間、殺伐とした僕の胸にある光景が甦る。
それはここではない別の交差点での一場面だった。
思い出すな、と心で自分に呟いて、僕は青になった途端に踏み出した。
そう、あれは象徴的な場面だった。

交差点の起点に悟一、向こう側に、岸。
僕は歩道を渡り、岸は僕から逃げ出すように駆け去った。

僕達はきっと、あの場面からやり直さなければならない。

交差点の起点に悟一、向こう側に、岸。
僕は悟一をその場に残して交差点を渡る。
岸は向こう側から交差点を渡り来る。
岸と僕は道の真ん中で出会い、形式的に微笑みあい、目礼なんかを交わして通り過ぎる。
そして岸は悟一に出会い、僕は振り返らずに歩き続ける。
僕は去り、永遠に二人に会うことはない。

それでも僕の胸の中には悟一が生き続ける。
少年の心を汚さぬまま大人になった悟一を死ぬまで胸に抱いて、
かつての悟一のような少年達が道を間違えないように、見守ることを生き甲斐にする。

「うわあ、満開。」

通りすがりの女性がそう歓声をあげた。
若い男女混合の7名ほどがシートやら缶ビールのケースやらを抱え、僕の傍らを通り過ぎた。
大学のサークルで今から花見に繰り出すところ、という感じだ。
ここの駅裏には日本有数の大きな公会堂がある。
そこまでの道程両端にはアーチのように桜が植え込まれていて、花見スポットとして有名だ。

言われて初めて気付いたが、遠目にも桜は今が盛りと咲き誇っていた。

そう言えば今日、梧譲は宗蔵を迎えに出向いたはずだった。
足がバイクなら雨天中止とならざるを得なかったわけで、運も彼に味方したらしい。
本日は風も弱く陽射のぬくもりを感じる事ができる、まさに春らしい日となった。
彼らはまあ、どうにかなるだろう。
まったく僕に感謝してほしいところだけど。絶対しないだろうなああの人達。
などと口の中でボソボソ呟きながら改札を抜ける。

駅のホームからも、少し遠くで満開の薄桃色は確認できた。
そう言えば今や大学生となった悟一も、仲間と桜の下に集ったりするんだろうか。

轟音と共に僕の目の前に長い鉄の箱が滑り込んだ。
しかし僕は乗らずにやり過ごした。
辞表は渡してきたとして、まだひとつ未着手の仕事が残っていた。

本社から自部署への移動中しかも電車に乗る直前といった
まったく落ち着かない場面で敢えて僕は携帯を取り出した。
着信履歴には記号で一つ、スペードのクイーン。
着信日時はおととい。土曜の夕方。
そろそろお誘いのある頃だとは思っていた。が、なんとなく、つい無視した。
彼女は多分、怒っているだろう。

着信番号にダイヤルする。
着信音が10回、そして機械的な留守電のメッセージが流れた。
忙しいのか移動中か、それとも前の電話を無視されたことへの報復だろうか。
なんとなく、僕は今美香さんがこの留守電を聞いているような気がしていた。

「あの。僕ですけど。土曜はすいませんでした。」

返事も応答も無い。だが別にそれは不都合でもない。
録音中の機械へと、僕は単調に話した。

「それでですが。貴女とお会いするのは、もうやめようと思います。
一方的ですみません。理由は」

理由は、と言いかけて、つい言葉が詰まった。
別に理由を問われてはいない。
なのに、どうしても言わなければならない気がした。
それは彼女へというよりも、僕自身への言葉だった。

「好きなひとができました。」

今までありがとうございました、と、
客先への挨拶のような文言を最後に僕は通話を切った。

間もなく僕の前には次の便が滑り込んだ。
今度こそ乗り込んで、扉の前に立ち、風景と共に流れ行く薄桃色を目で追う。
僕の心とは裏腹にあたかも世界は愛で満ち溢れているような風景だった。


◇◇◇


「さて。制限時間は20分程度。分かるところから始めて。」

それはそれは、覇気の薄い集いだった。

先週末の申し合わせの通り、1階の小会議室で時間外の講習は開催された。
参加者は岸、おまけに保護者気取りの新田。以上2名。
二人はそれぞれに僕の用意したプリントを睨んで固まっていた。

プリントには僕が用意した設問が10個ほど。難易度は岸に合わせてある。
初めの数問はペン慣らしの常識程度。
なのに取りかかる気配がないのは、ヤル気がないということだろうか。

「新田クン、茶でも買ってきていいぞ。」
「え。マジすか。」

岸にレベルを合わせた設問はおそらく、新田にはバカバカしいものばかりだろう。
彼は元暴走族という噂だが、何浪かして理数系の大学を出ている。
教育学部出身でついこないだまで総務部だった僕が彼の講師をするのもおかしな話だった。

「僕と岸のも頼む。キミが気に入ったのがなかったらコンビニまで出てもいいぞ。」
「じゃ行ってきマス。」

僕が財布から取り出した千円札は受け取らず、戻ったら貰うと言って新田は部屋を出た。
僕より若いが律儀な男だった。
人払いされたと気付かないシンプルさにも今は感謝すべきだろう。

「さて。」

ふたりきりになったところで、僕は姿勢を正して手を組んだ。
ちょっと話があると前置きしたつもりだが、
僕の対面の岸は気付かぬふりで、ただプリントの用紙に視線を落としている。

「岸クン。僕達には共通の知人がいたようだけれども。」

無難な言葉を選びに選んだ僕の語り出しを、岸は完全に無視した。

「僕は『彼』の同居人に用事があった。
『彼』とは偶然出会っただけだし、今後一切会うことは無い。
おまけに。今の段階では他言無用だけど、今日、本社に辞表を出してきた。」

ようやく岸が顔を上げて僕を見た。
しかしその表情には大きく一言『怪訝』と書かれている。

「実際の退職までは一ヶ月程度かかるだろう。
それまでキミには協力会社に匹敵する実力をつけてもらうつもりだ。」

合併でこの部署が潰されたあとの人員の処遇について、もはやスペードのクィーンには依存できない。
実は本日、年末調整の手伝いと引き換えにその旨を総務部長に一任してくる下心があった。
しかし内情を見る限り、総務部への振り替えを依頼しても回されるのは庶務課になる気配が大だ。
ならいっそのこと、僕を評価したという常務にこの部署の人員を推薦してみようかと、
僕は方向転換を決めていた。
同じ技術職なら業務にも馴染みやすいはずだ。
しかしその場合、対応できる技術力がないとかえって辛いことになる。
僕はその辺の詳細をかいつまんで岸に説明した。

「分かってもらえたかな。僕は間もなくこの場から姿を消す。
だからキミも今後のことを考えて、僕への誤解も解いて、この場に集中してもらいたい。
キミが望んでくれれば、僕の退職まで講習は毎日でも開催するつもりでいるから。」

「それって、わたしのためですか。それとも、悟一くんのため?。」
「どっちの為でもない。僕自身の為だ。」
「そう。」

僕は自分の言葉を肯定するように細かく頷いた。
しかし岸は何もかもが信用できないといった顔で、ただ僕から視線を流した。

「わたしも、一応井野さんに言っておくことがあります。」
「何?。」
「わたしと悟一くん、別れましたから。」

「なんだって?!。」

僕はすっとんきょうに裏返った声で叫んでいた。
しかし岸は我関せずといった素振りで、今更プリントに手をつけた。
だが何を考えているのか、紙の端に書きつけているのは花柄模様の落書きだ。

「井野さんが自分のために会社を辞めるなら関係ないと思うけど。一応言っただけです。」
「何故?!。」
「理由は、教える必要ないと思います。」
「悟一が別れようなんて言ったのか?!。」
「わたしが言いました。」

「何故?!。」

一体何のために僕が会社を辞めると思ってるんだ、と、あやうく僕は叫ぶところだった。
自分の為に決めた道だと、岸にそう告げたのは嘘のつもりじゃなかった。
深層心理では違うと言うことなのか、しかもそれを岸の言動で暴露されるとは。
しかしそんな僕の不手際以上に、状況は最悪だった。
悟一がしあわせにならないのなら、僕の選ぶ道には何の意味もない。

「何故だ?、話を聞かせてくれ。キミはまだ僕達を誤解している、そうだろう?!。」

僕の目の前で無視を決め込む岸にしびれをきらし、
僕は岸の手首の辺りを捕らえて揺さぶりをかけた。
僕自身としても反射のような動きだったから、
岸の腕を取った手には必要以上の力がかかったかもしれない。
やめてください、と岸が金切り声を上げたその時。

「や〜。コンビニまで行ったはいいけど財布忘れて。」

キミは愉快なサザエさんかと、普段の僕なら誰も笑わないギャグを言ったかもしれない。
けれどちょうどその時、僕は机を挟んで岸と揉み合っていた。

「!!。」

何やってるんですか、とか、どうしたんですか、とか、
本来ならあって然るべき問いかけを省略して、目を吊り上げた新田は僕に猛進した。

真正面からの正拳をかわしたまでは良かったが、かわした勢いで僕は椅子から転がり落ちた。
そして僕が体勢を取り戻す以前、新田は僕に乗りかかっていた。
さすが元暴走族、場慣れした動きの良さだ。などと感動している余裕はあまりない。

「やめてくださいっ!!。」

さっきとは違う相手に対して、岸が同じ言葉を叫んでいた。



- 続 -
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