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月曜の午後。
貴重な昼休みを移動時間に費やして、僕は本社ビルへと出向いていた。
光井銀行との合同会議で僕が使用するネームプレートが出来たから取りに来いと、
総務部長から午前中に連絡が入っていた。

もうひとりの会議参加予定者である常務は本社勤務なのだから、
常務に渡してもらって僕は現場で受け取れば済む話なのだけれど、
敢えて取りに来いということは何か別件があるのかもしれないし、
僕としても渡すタイミングを測りかねていた辞表を置いてくるのにいい機会だった。

そう言えば前に本社に出向いたのは、年末調整の手伝いに呼ばれたのが最後だった。
また野暮用かなあ、などと勘ぐりつつ数ヶ月振りに訪れたオフィスの現状は、
いつも通りというか、いつも以下だった。

常時8名程が詰めているはずの机の島に存在する社員は3名のみ。
うち末席の女子社員は今まさに爪を染めている最中だ。
隣の男性社員は熱心にモニタに向かい、一見業務にうち込んでいる風。
しかしモニタの画面を覗き見れば、ネットオークションに入札中だ。
彼らと向かい合う社員のモニタは視界の陰になり僕の目が届かないが、
モニタを眺めてにんまりしているところからしても業務に勤しんでいるとは思い難い。
そしてフロア最奥、窓際の席。
部長は名刺大のネームプレートを高く掲げて陽に透かし、裏表を入念に眺めている。
糖尿の持病持ちで推定体重100キロオーバーの部長が右へ左へと振り仰ぐ挙動は
僕に水族館のアシカショーを彷彿とさせた。

「やあ井野クン。どう?この出来。なかなかだと思わない俺のテプラ技術。」
「本音でいいですかね。」
「分かってるけどね。どうでもいいと思ってるんだろ。全く相変わらずだよキミは。」
「お蔭様で。」

フン、と一度鼻息を荒げて見せ、部長は名刺大のカードをぞんざいに僕に渡した。
本当は俺だってどうでもいいと思ってるんだけどね、と言わずもがなだ。
一応僕は部長の力作に目を通し、自分の仮の肩書きが『部長代理』と貼り変わったのを確認した。
テプラで上貼りされた肩書きには威厳も何もなく
バカバカしさに拍車がかかっただけだが、それを指摘するのも今更だった。

「それより。どうなってるんでしょうねココ。」

僕は多くを語らずに空席の多い机の島を見渡した。

「ちょっと外で話そうか。」

僕の返事を待たず部長はのそりと巨大な腰を上げ、僕の背を押した。
僕達はオークションに没入中の男と塗り終えた爪を乾かし中の女性の後ろを抜けて廊下へ出た。

「また取引先のご令嬢なんですかね。」
「あれは人事部長の姪御さん。」
「男性の方は。」
「あれは普通の社員。でも俺ご令嬢達をほぼ放置してるからさ。
男だけに仕事しろっていうのも、なんか、気がひけるんだよね。」

不思議な気の遣い方だ。

「取引先のご令嬢もあと2人いるんだけど。」
「席には見えませんでしたが。」
「ひとりに一階にファイル取りに行ってもらったら帰ってこなくってさ。
それでもうひとりに探してくるように頼んだら、ふたりとも帰ってこないんだよね。」
「なんですかそれ。」
「全く分からんよ。」
「業務はどうなってるんですか。」
「それはアレだ。『庶務課』が新設されたから。」
「全部『庶務課』任せですか。」
「うん。まあ。」
「姪御さんを入社させた手前、新部署の設置には人事部長も一役かったんでしょうね。」
「そういうこと。」

冴えない話題でとぼとぼと廊下を歩いて、僕達が辿り着いたのは廊下最奥の一角、喫煙所だった。
部長は酒豪でヘビースモーカーで大の牛丼好きだ。
会社の人間関係とは不思議なもので、興味があるなしに関わらず特定の個人の嗜好なんかを熟知してしまう。
逆に僕は煙草は吸わないが相手が吸うのも気にしないと部長は心得ている。
そんなわけで部長は形式的に「失礼」と呟く最中に一本くわえて火をつけた。

「だけどさあ。給与とか賞与とか有給計算とか昇格降格とか、庶務課に回せないこともあるわけよ。」
「あるでしょうね。」
「俺、正直、来年の年末調整乗り切る自信無いよ。」
「・・自信が無いと部長が断言するのもどうでしょう。」
「井野クン〜。」

部長の巨体がすり寄ってきたので僕は反射で一歩引いた。
その時期が来たらまた手伝えということだろう。

「キミ、今朝常務に電話しただろう。」
「現行システムの設計書に相反する記述があったもので質問しましたが何か。」
「あの切れる男は本当に総務出なのかって常務が俺んところに確認に来たよ。」

ふう、と部長はため息混じりにうつむいた。
総務出の男が切れると部長にどんな不具合があるのかが僕には分からない。

「昨日の日曜、徳田氏とコンペでさ。」
「誰ですか。」
「オイ。全日本ホテル組合会長の徳田さんだよ。美香さんの祖父じゃないか。」

僕は話の展開に追いついていなかった。
その上美香さんと僕が知り合っていることを承知の上のような部長の口振りに不意を衝かれていた。

「徳田氏は前のシステム部部長とコネクション強かったんだ。
電算部が外注に飲み込まれそうな現状を変えたい、と言っててさ。
勘定系の外注の資本母体を上まで辿ると経団連なわけ。
さすがの大株主のホテル王も経団連が参入してきたら多少影が薄れるだろうし。」
「何の話か僕にはまるで。」
「誰か電算部を再興させる人間を立てろって俺プレッシャーかけられたんだけど。キミしかいないんだよね。」
「はあ?。」
「キミが今あの閑散部署のトップなわけで。」
「何を言ってるんですか。一体全体。」

権力の力関係の都合でどの部署が盛り上がるのがいいなどと部外者が勝手に決めたところで、
実務が付いて来なければ全く意味がない。元総務部の僕を今度は一体何に祭り上げるつもりか。

「俺が言わなくても徳田氏の腹が決まったら美香さんからそれとなく話があるだろうけどさ。」

特に嫌味な口振りでもなく、部長はさらりと言ってのけた。
つまり。
部長は僕と美香さんの関係を承知しているのだ。
何故?。そして、いつからか。

「今朝の常務の口振りからすると、常務はキミを電算部から引き抜こうと思ってる。
なのに外圧はキミに旧体制システム再興の旗揚げ役を担わせるかもしれない。
どうする。どっちに転んでも大出世だぞ井野クン!。」
「あの、部長。」
「しかし!。しかーし!。俺にはキミの出世を喜べない理由がある。」
「あの部長。ひとつ質問」
「キミがいないと年末を乗り越えられないんだよ俺は!。」

何故部長が僕と美香さんの関係を知り得たのか、
僕の唯一の問いは部長の熱弁の前で遮られ続けた。
僕の左遷を阻止しなかったのは短期間社会勉強をさせる為だったとか、
僕が総務部に返り咲いた暁には可能な限りの処遇を約束する云々と、部長は熱く語り続けた。

「課長として総務に戻って一年後に部長補佐でどうだ井野クン。」
「一つ質問させてもらっていいですか部長。」
「いっそのこと部長でもかまわないんだけど、それだと俺が路頭に迷う。」
「何故美香さんのことを。」

ふと口を噤んだ部長は眉根を寄せ、更に両眼まで寄せて、寄り目の妙な顔で僕を凝視していた。

「何故って。付き合ってるんだろ、キミ達。」
「で・ですから。部長は何故そう思うのかと、そこのところを。」
「何故も何も。会わせたのは俺じゃないか。」

違う。彼女は『真紀に紹介された』と言っていた。

「何だ気付いてなかったのかキミ。驚いたな。
俺がキミを本社に呼んで、それでキミは美香さんに出会ったんだろ。」

僕と美香さんとの出会い。
それを考えるとハタと思い当たることがあった。

僕が別ビルに左遷されたのちの或る日。もう数年前だ。僕は部長に呼び出された。
着くなり、ゴミを捨てて来いと言う。
毎日午後5時にやってくる収集に出しそびれた分を直接回収場に置いて来いという。
わざわざ呼び出された仕事がこれかという憤りを胸に、
それでも僕はダンボール一杯の廃棄書類を抱えて回収場へと向かった。
その帰りに経由する社員用駐車場で、僕は初めて美香さんに出会っていた。

社用車ではあり得ず、役員の自家用車にしても不似合いな真っ赤なセリカは嫌がおうにも目に付いた。
おまけに中からは露出度の高い女性が降りてくるところだった。
バブルがはじけて以降お目にかからないマイクロミニのボディコンシャスな衣装の女性が一名、
ボンネットに片手を付き長い髪を掻き上げる仕草で、ごみ置き場帰りの僕を睨むように見据えていた。

「乗らない?。」

ボンドガールみたいだなあ、などと子供めいた感想を胸に僕はその場を通り過ぎた。
あまりに僕には似つかわしくないシチュエーションだった為、
話しかけられたのが僕だとは全く思わなかった。

「ちょっと!。待ちなさい。そこのメガネ!。」
「?。」
「乗らない、って聞いてるでしょう!。」
「・・僕ですか?。」
「他に誰もいないじゃない。」


「オイオイ。追憶に浸られても。」

野太い中年の声が僕をこの場に引き戻した。

「俺としてはキミは全部聞いてるっていう前提だったんだけど。」

その後部長が語った詳細は、言い訳めいて冗長だったが要約するとこういうことだ。

数年前のコンペで、会長が部長に「孫娘に誰かイイ男はいないだろうか」と打診した。
当時、部長直属の部下で男性は僕だけだったが、その僕は電算部への移動が内定したばかりだった。
「俺の部下は役員の領収書に不認可の判を押して左遷されるような気の利かんヤツばかりでして」
そのコンペにはゴルフをたしなむ美香さんも参加していた。
冗談半分の部長の受け答えを美香さんも耳にしたらしいが、彼女はこれといった反応を見せなかった。

数日後、美香さんから直接会社の部長の元に連絡が入った。
噂の『左遷された気の利かない男』を紹介しろと言う。
しかし御令嬢に妙な男を紹介して会長に睨まれたらコトだ。勿論部長は断った。
彼女が愛想を尽かすようにと、部長は僕が上司の女性社員と交際していた経歴を美香さんに漏らした。
これもまた僕が始めて知った事実だが、部長は僕が受けたセクハラの内情を把握していた。
しかし部長の見解では僕は被害者どころではなく
「もし若くて糖尿じゃなかったら俺だって」という認識だったらしい。
それはともかく、美香さんの件だ。
部長なりに手を尽くして説得したが美香さんは譲らず、妥協案として、
部長は『偶然に』僕達が出会うきっかけを段取ることになった。
あくまで紹介はしていないという、会長側への配慮が行き届いた大人の手回しだ。

そして僕は定時後に呼び出され、ゴミを捨ててくるという大儀を仰せ付かり、美香さんに出会う。

僕以外の誰しもが僕の思惑のひとつ後ろで動いていた。
だけど釈然としない僕の胸の想いは、わいてすぐに消えた。
この場を去ろうとしている僕にしてみれば、全てがどうでもいい事だった。

「いろいろと勉強になりましたよ。お蔭様で。」

意図せずしてうっすら嫌味を含んだような挨拶で、僕は胸ポケットの辞表を取り出した。
ドラマなんかで見る辞表は封筒の前面に大きく辞表と記されているものだけど、
僕が取り出した封筒は未記入の白いものだから、僕は口頭で封書の中身を告げた。

「辞表です。」
「?」
「辞めることに決めました。今日はそのご挨拶に上がったんですが。言い出すのが遅れてすいません。」
「キ・キミ!。」
「辞職の意思を告げてから引継ぎに3ヶ月ほどかけるのが社会人の常識らしいですけど。
僕の部署は今後なくなる見通しが強いわけで、僕としては一ヶ月後くらいを正式な退社日として考えています。
部長のご都合も勿論考慮します。来年の年末調整までは残れませんけど。バイトで来てもいいですよ。
部長にはお世話になったし。なんならその時期だけ派遣に登録してもいいと思ってます。
僕も次の仕事がありますから休日とか時間外でお願いできれば僕も助かるんですが。」
「ちょ。ちょちょちょちょっと。」
「それじゃ今日のところは。失礼します。」

真白い封書を手に口をパクパクさせた部長をその場に残して、僕は一方的に踵を返した。
背後から部長が何か叫んでいたが、聞かない事にした。

人気の少ない午後の廊下を闊歩する僕の胸には、充足感も無いが未練も心残りも何も無い。
初めからこの場所には大事なものが何も無かったのだから、失うものも無かった。



- 続 -
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