33



「歓迎するよ。」

「そりゃ光栄だな。」
「・・本気で言ってるのかい?。」
「当然さ。」

斜視気味に顰められた視線の前で、俺は含み笑いをみせる程に余裕があった。
俺は、満足していた。
今や確固たる意志となった己の殺意に、俺は快感すら覚えていた。
抽象的な殺意、想像の上の殺人、
そういった日常の思惑からは一線を越えた目的意識が俺の内部には凝固していた。
おまけに対象はまさに目前だ。
取り逃がす確率は天文学的に低い。

「何なら証明するか?。」

俺は自分のシャツの襟首に手をかけた。
クソ野郎の疑惑の視線に己の視線を絡ませながら、一つ、二つとボタンを外す。
俺自身が動きやすくなる為だから、二つくらいでいいだろう。
俺の行為がクソ野郎にどう映るかは一応計算済みだ。

「・・今、ここでかい?。」

そういえば俺はジャケットのポケットにパレットナイフを忍ばせていた。
今考え直してみれば、バカバカしい発想だったと思わざるを得ない。
あんなもので人を殺せるはずがない。
上手くいっても浅い傷を負わせる程度だ。

・・もしかしてそれ自体が俺の目的だったのだろうか。
そんな拮抗する想いがふと脳裏を過ぎる。
浅い傷を負わせる程度に留める為に、俺はあれをポケットに忍ばせたのか・・どうか。

少し前の考えなど、もはや不明だった。
それでいい、と俺は思う。
俺の意図は今、心地良い程に明白だった。

俺は丸椅子から腰を上げ、クソの目の前で自身のベルトのバックルに手をかけた。
黒縁眼鏡奥の細い目が幾分見開かれたのは、驚きを表すんだろうか。
俺自身の手で外されたベルトの金具が、手狭な室内にカチリと小さな金属音を響かせた。
外れたバックルを片手で握り、多少の勢いをつけて身体の横へと引く。
皮製のベルトはひゅっと風を切り、生きたヘビのように跳ねた。
中年男の首を締め上げるのに最高の道具を携帯していたわけだ。

「言っただろう。俺は気が長くない。」
「それはまあ、この場合、喜ばしいけどね。」
「そういう事だ。喜んでおけ。俺はなかなかのテクニシャンだ。」
「・・正直そうは見えないんだが。」
「確かに経験は浅い。」
「・・。」
人を殺すのなんざ初めてだ。

「本気かい?。」
「ああ。イかせてやるよ。」
行き先は天国、否、地獄だろうな。

「・・部屋の鍵を閉めてもいいかな?。」
「閉めてやる。貴様は眼鏡を外せ。」
「何故。」
「邪魔だろう?。」

猜疑心に満ちた眼鏡奥の冷徹な瞳がひたすらに俺を見据えていた。
もしこれが計画したやりとりだったなら見抜かれたかもしれない。
しかし俺はほぼ素のままだった。
静かに、しかし確実に凝縮した殺意を開放できる予感の前で、
俺の心は暗い喜びに満ち溢れていた。
自然な感情の表れとして、俺は疑惑の視線の前で挑発的に微笑むことすらできた。

「最近の若い者はこれが普通なのか?。全く。」

老人めいた言い回しの愚痴はクソなりの照れ隠しなのかどうか。
結局クソ野郎は自分の眼鏡に手をかけた。
そして俺はきわどいタイミングを逃さなかった。
ヤツの手が眼鏡を外し、手に取ったそれを机上へと置く、
両手が顔から離れるその瞬間を。

「!!。」

俺はクソ野郎の背後から首にベルトを巻きつけた。
ヤツの叫びが声になるよりも俺がベルトを締め上げる方が早かった。
咄嗟に戻された手は、片手の指先だけがベルトと首の間に挟まれた。
両手の手のひらまで挟まれたら絞めるにも一苦労だが、片手の指先くらいなら、なんとかなる。
ベルトの両端を締め上げる俺の手がそれを実感していた。

「!!!。」

暴れた仁井の足先が丸椅子を蹴り飛ばし、蹴られた椅子は転ってドアにブチ当たった。
しかし俺は構わずにただヤツを締め上げる事に専念した。
暴れる仁井の勢いに衰えが見えた。
終焉は間もなくだ。
経験が無いにもかかわらず、そんな手ごたえを感じたその時だった。

俺は即頭部に酷く重い衝撃を感じた。
次に、腰。
その後に身体半身全て。直後に、全身。

一瞬、意識が飛んだ。

ブラックアウトした視界と頭で、
しくじったのかと、俺はその事だけを思った。
何かが俺を遮ったのだ。

頭の中に星が飛んでいた。
存在しない星と共に消え去りそうな己の意識を呼び戻すのに要した時間はおそらく十秒そこらだと思う。
痛む頭を押さえ、いつの間に床に転がった己の身体を引き起こしつつ、俺は現状を認識した。
俺は仁井を絞め殺している最中、突然の闖入者に頭を殴られ腰を蹴られ、
蹴られた勢いでブッ飛び、すぐ脇の本棚で再度頭を打ったのだった。
そしてクソ野郎はどうなったのか。

未だ定まらない目で確認した光景は、俺の想像外だった。

横たわる白衣の中年の上に、大柄で長身の男が乗りかかっていた。
トレードマークの赤い長髪は・・またしても、梧譲。
成程あのバカが余計な手出しをして俺を止めた。
しかしヤツは俺を止めるに留まらず、自分の親の仇の勢いでクソ野郎に乗りかかっている。
・・意味が分からない。

プロレスの寝技まがいに二人は床に寝転び、梧譲は仁井の肩口を押さえ込んだ。
なんだねキミは、などと、仁井はほざき続けている。
殺しかけたつもりだったが。
初回は完璧にしくじったようだ。
俺は仁井よりも先にあのバカを殺さなければならないのだろうか。

「離せ!。離しなさい!。誰だキミは!。」
「ちょっと黙って。」

梧譲は床に落ちた俺のベルトを拾い、仁井の顔面に巻き付けていた。
男物にしてはやや細身の皮紐が、開いた仁井の口に喰い込んだ。
梧譲は仁井に猿ぐつわを噛ませたわけだ。
まるで作業員が荷物を縛るかの如く、感情の薄い的確な動作だった。
しかしヤツは一体何をやっているのか。

「悪ィなオッサン。腕、折るぜ。」

梧譲の声音は冷静で、この場にそぐわない程の平常心を感じさせた。
だから仁井はおそらく、語られた言葉の意味をきちんと理解してはいなかった。
そしてそれは、俺も同様だった。

「?!。」

グシ、というのか、ミキ、というのか、
それはなんとも表現しがたい、聞き逃す程に微かな、くぐもった小さな音だった。
肉の間で骨が折れる音を耳にしたのは、そういえば生まれて初めてだ。
映画で聞く効果音とは比べ物にならないほど微かで、むしろ嘘くさい。
猿ぐつわの効能で、大袈裟な悲鳴も上がらない。

しかし床に伏せた中年男の咽喉元からは、くぐもった嗚咽が響いた。
その表情は苦悶に歪み、額には脂汗が浮き出ていた。
正直なところ、気分のイイ光景とは言い難い。

「話は聞いた、と言いたいところだけど。正直良く聞こえなかった。」

バカ野郎は言ってる台詞までもバカバカしかった。
しかしその声音は必要以上に冷徹で、普段のフザけたヤツとはどこか違っていた。

「なあ。アンタ、このオッサンを殺したいんだろ。
アンタじゃ頼りないからさ。俺がやってやるよ。
とりあえず腕折った。次は?。指でも折っとく?。命令しろよ。俺に。」

猿ぐつわの顔を上下に振って、仁井が何やら呻いていた。
やめろ、とそう言っているのだろう。

梧譲は床に伏せた仁井に乗りかかり、折れていない方の腕を引き上げた。
関節を入れた引き上げ方だから、仁井があがいたところで腕の自由は利かない。
軽く曲がった仁井の小指を自分の掌に包み込むようにして、梧譲は俺を見据えていた。
フザけたバカを演じるいつものヤツでもなく、虚勢で怒鳴り散らすヤツでもない。
俺を静かに凝視する瞳はただひたすらに沈んでいた。
そういうヤツの顔を、俺は今まで見たことがなかった。

そして俺は認識した。
今や俺の敵は仁井ではなく、ヤツだった。
梧譲は俺に挑んでいる。

「じゃ、小指。」

なんの抑揚も無い醒めた声音がそう宣言した。
梧譲は沈んだ瞳で俺を見据えたままで
曲げた仁井の指を包み込む己の手のひらを強く握った。
音は、聞こえなかった。
床に這った仁井が電流に撃たれたように仰け反り、小指が折れたんだと知れた。

「次。薬指にしとく?。」

俺は答えなかった。
声を出せなかった。
俺とヤツは冷たく見つめ合った。
沈んだ視線を俺に据えながら、ヤツは仁井の指を包み込んだ拳をきつく握りしめた。
仁井が再度呻き、仰け反った。

喩えでもなく、吐き気がした。

梧譲は決して愉しんでいるわけじゃない。
ヤツはクソバカだが、そういう種類のバカじゃないと俺は知っている。
しかし俺がやりかけていた事は、この吐き気をもよおす虐待劇を更に上回る惨事だった。
そのことをヤツは今俺に示し続けている。

「次。なんなら生爪でも剥ぐ?。」
「・・。」
「答えがないから普通に次の指折っとくわ。爪はあとからでも剥げるしね。」
「・・止めろ。」

声を出した途端、俺の胃の中が逆流した。
しかしメシを抜いていたおかげで実害は無かった。
俺は酸性の液体を口元で押さえ込み、まるで自分が何かされたかのように咳き込んだ。
負けだ。
俺の負けだ。

「止めろ。もういい。」
「ヤっとけば?。後悔するんじゃねーの。」
「止めろっつってんだよ!!。」

「・・じゃ止めるけど。そしたら・・帰る?。」

しかし。
じゃあ帰りましょうと帰るわけにはいかないらしい。
何気ない気配に引かれて俺が目を向けた戸口には、人影があった。
梧譲のバカはこの部屋に飛び込んだ際、引き戸を開け放していたのだ。

ハタチそこそこに見える短髪の男はゼミの学生だろうか。
男は俺達と目が合うなり、片手に下げたバッグをドサリとその場に取り落とした。
ゼミの教授が猿ぐつわで組み敷かれているのだから、まあ驚くのは当然だ。
しかし驚いたのは見られた俺達も同様だったわけで、
俺達と学生は瞬間どちらも身動きできずに硬直した。
その短い間に、クソ野郎は果敢にもまだ折られていない指で自ら猿ぐつわを緩めていた。

「警察だ!。警察を呼べ!。」

ハイ、と返事をしたのかヒッ、と上擦った声を漏らしただけなのか
判別しがたい音を残し、学生は俺達の前から駆け去った。

「ヤベ。出んぞ、宗蔵。」

当然この場に長居するつもりはない。
俺と梧譲は駆け出した。
しかしついさっき吐きかけた俺は足元がおぼすかず、梧譲に背を押されるようにして部屋を出た。
不本意の連続だ。
いろんな意味で。
というより、何もかもが。


警察を呼べと仁井に命じられた学生は廊下でエレベーターを待っていた。
しかし俺達の姿を目にした途端、階段へ向かって駆け出した。
幸いなことに研究棟の廊下に人影は無かった。
梧譲は階段を2段抜きで駆け下り、学生を踊り場に追い詰めた。

「待てよ小僧。」

梧譲に詰め寄られると、学生は小刻みに肩を震わして目を剥いた。
ドスの効いた声音を出しただけでスジ者にしか見えなくなる譲の外見と立ち回りが
妙なところで役に立っている。

「警察を呼ぶのは構わねえ。
だがな、警察沙汰になって困るのはあのオッサンだぜ。嘘だと思うか?。」
「イ、イエ。」
「嘘だと思うんならな!」

相手は嘘だと思っていないと言っているわけだが。

「本当に警察呼んでいいか、あのオッサンにもう一度確認してみろ!。」
「ハ、ハイ。」
「行って聞いて来いって言ってんだよコラ!!。」
「ハイっ!!。」

脱兎の如く。
まさにそんな表現がふさわしい勢いで、学生は今駆け下りた階段を駆け上っていく。

「んじゃ、この隙に。」

梧譲が囁き、俺の背を押した。
・・妙な状況に場慣れした男だ。

◇◇◇

数分後にはもう、俺達は街路へと走り出していた。
来たときと同様一台のバイクで、俺が後ろ。ヤツが前。
本来の俺なら繰り返して不本意さを噛みしめるところだが、今となってはもう、どうでもよかった。
正直俺はもう、何も考えられなかった。

大学に来たのは夕時だったが、もう夜と呼べるほどに陽が落ちている。
俺はバイクの振動に全身をゆだねて、街が形を無くしていく様を見続けていた。
陽の光が薄れて、建造物の輪郭が街路の薄明かりに溶けてゆく。
走るバイクから眺める風景は加速で視界が狭まった上に流れ去るせいで
より一層本来の立体感を無くしていた。

もしかすると立体感を無くしたのは俺の脳かもしれないが。
しかし、それならそれでいい。
何もかもが今はどうでも良かった。

薄く夕暮れの赤を残した空も、間もなく漆黒の闇に落ちた。
しばらく走るうち全ての建造物が形を無くし、
ヘッドライトと舗装路の夜間照明が照らす原色の光だけが浮き立ちはじめた。

「なあ!。」

ハンドルを握る梧譲が半分振り返り、そう叫んだ。
前と後ろに二人しかいないバイクの上だ、俺が呼ばれたんだろう。
しかしそれすらも、俺にはどうでも良かった。

「怒ってる・・よな。」

俺は答えなかった。
怒っているのかどうかも、正直分からなかった。

「・・もう、最後なんだろ。俺達。」

俺の周りには光の帯が極彩色の熱帯魚の群れの如く浮遊している。

「最後ならさ。最後くらい、俺の行きたいとこ行かせてよ。」

行かせていいのか悪いのか。
それより何より行きたいところとはどこだ。
聞くのも面倒だし、俺には全てがどうでもいいという以外に何もなかった。

俺は答えず、梧譲は聞き返さなかった。 

少し先の交差点で、バイクは大きく左に迂回した。
曲がる際に倒れる二輪の習性に身を委ねた結果、見上げた電光掲示板。
そこにこのバイクの行く先が示されていた。

『横浜 80km』



- 続 -
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