32



「この身上書の通り、ボクの生家は京都でね。京都というと誰もが万葉の古都を思う。
しかし碁盤目の中央区とも離れた北山付近は普通の田舎町さ。ボクはバスで通学してた。
ああ、高校の時分の話だけどね。ボクにも高校生の時代があったわけだ。」

どう思う?と問うように、仁井はくわえ煙草で首を傾げてみせた。
どうもこうもない。そこまで大昔に遡るようでは一体どれだけ長い話なのか。
もはや俺にできることと言えば、長い話を更に長引かせないように無言で先を促すだけだ。

「なんてこともない、いつも通りの朝だった。
家を出る頃には晴れていたのに、バスに乗って少し経つと土砂降りになった。
ボクはいつも一番後ろの座席と決めていた。
その日隣に乗り込んできた男・・誰だと思う?。」
「親父か。」
「そう。その男は以前にも何度か見かけていた。
しかし口をきいたのはその時が初めてだった。彼はボクに傘を貸すと言ってね。」

『あなた高校生?、降りてから傘が無いと困るでしょう。これを使いなさい。』
『・・アンタのは。』
『私は今日、大学をサボりたい気分なんです。』
『気楽だね大学生は。にしてもアンタ、ちょっと大学生には見えないけど。』
『講師ですから一応。講師にしたら若いでしょうか。学生にしたら、老けてるとしても。』

「不愉快な男だと、ボクはそう感じたね。
じとじとと雨が降りしきる灰色の空、窮屈な上にガタガタと揺れるバス。
何ひとつマシな要素のないその場所で、何故か彼の周りだけは小春日和のように和んで見えた。」

『講師が大学サボるって。』
『息抜きですよ。私も、学生も。学生の側からは息抜きを提案できないシステムですから。』

「のほほんとした雰囲気に呑まれて、ボクは結局差し出された折り畳み傘を借りていた。
その後バスから降りて、受け取って使わないのも何だからとさしたわけだ。ところがどうなったと思う。」
「俺にフるな。さっさと話せ。」
「クマちゃんの絵柄付きだったんだ。」
「・・。」
「簡素化されたバカでかいクマの顔が3つ、傘全面を覆うようにプリントされていた。
結局ボクは10メートル後方まで『ここにバカがいます』と知らししめつつ歩く羽目になった。」
「そのつまんないオチが何か。」
「まあ聞きたまえ。
その後、ボクと彼はバスの中で言葉を交わすようになった。
彼はとらえどころのない人間だったが、じきにアウトラインは知れた。
佛教大の新任講師、新婚。子供ナシ。まだキミは産まれていなかった。」
「それで。」
「ボクは受験を控えていた。偏差値からすると京大あたりだろうと思われていたし、
ボク自身そう思っていた。しかしボクは進学先を変えた。この身上書の通りにね。」
「進学先を変えるほどの出会いとも思えんが。」
「全くだ。」

仁井は口の端で短くなった煙草を手に取り、アルミの灰皿で揉み消した。
即座に新しい一本を手に取ると、今度は火をつけずに指の間で弄ぶ。
その視線は俺ではなく、どこか遠い場所を見ていた。
追憶の場所に存在するのは、俺の知らない誰か。
俺が産まれる前の親父だろうか。

「どんな殺風景な場所にも光を呼び込むあのうっとおしい存在を、ボクは謎と感じた。
当時からボクは大抵の謎の結論を予感できた。解けない受験問題もなかったし。
まああるといえばあるが、それは出題者の意図がひねくれ過ぎている場合に限る。
少々のひねくれ具合は見通せた。受験勉強とは暗記とひねくれ度の看破に尽きる。
それはともかく、解ける手ごたえを感じない謎と言えば彼の存在、それだけだった。
進学先を決める理由としては、当時のボクには充分だった。若かったのかな。ボクも。」
「それで。次。」
「情感の薄い男だなキミは。」
「感動すべき箇所が全く無かった。」
「・・まあいいだろう。それで、だ。」

仁井は無駄な咳払いで場をつなぎ、大昔の追憶を続けた。

「入学したその大学に、彼はいなかった。」
「?。」
「ボクが入学する直前に引っ越していた。」
「それで。」
「当然色々と調べたさ。身体の弱い奥方の出産をひかえて、奥方の実家へと越したらしい。
彼の出身大学が都内にあって、そこでの彼の恩師が学部長にまで出世していた。
彼は教授職として出身校に招かれたという話だった。」
「で。」
「ボクは無為な4年間を過ごした、とそういうことさ。」
「卒業後、アンタは上京してる。親父に会う為か。」
「まあね。謎を謎のままにしておくのはボクの性に合わない。」
「経緯を話せ。」
「元々ボクは理系だったんだ。なのに迂闊にも宗教の学び舎に席を置いてしまった。
怒涛の観念論にいたたまれなくなり、せめて専攻は宗教心理学ということにした。
本来の心理学とは別物なんだが、言葉のアヤの心理学つながりで行動心理学の大学院に潜り込んだ。
ようやく観念論から開放されて、実験と数値演算で世界を構築できる基盤を持った。」
「貴様の学歴変遷は省略しろ。」
「・・要は。卒業後、ボクは再び学問の徒として彼と同じ土俵に立ったわけだ。」
「ヨシ。今後も『要は』だけを話せ。」
「・・要は。僕達は再会したんだよ。」

煙草を弄ぶ仁井の指が動きを止めていた。

「大学という場所は知っての通り出入り自由になっている。一般講義の講堂なんかは特にね。
ボクは自分の入学した大学院とは別の、彼が講師を勤める大学で講義を拝聴したよ。
気の利いた質問を手土産に、講堂から帰りがけの彼をつかまえた。彼はボクを覚えていた。」
「続けろ。」
「研究室に呼ばれて、話なんかをしたな。
彼の専門は大乗仏教から上座部仏教へと体制が変遷していく史実周辺だが、
興味自体は宗教に限られてもいなかった。彼の目線は宗教が遷移する背景、
社会の思想基盤そのものに据えられていた。
その辺は、彼の著作を手にしたキミにも理解できていると思うがね。」

分厚い本を手に取り、開かずに書架に返した俺としては答えようが無い。

「興味が無いなりにもそのへんの専門大学を出たボクだ、基礎知識程度は身につけていた。
おまけに宗教に煽動される大衆の心理はボクの専門とも言えるものだった。
僕達には尽きない話題があったわけだ。
彼とボクとは殆どの点に於いて見解を違えていた。しかしお互いを興味深いと感じていた。」
「そりゃ貴様の一方的な感想だろ。」
「そういうことでもいいさ。その点についてはもはや確かめようもない。」
その通りだ。親父は死んだ。
・・貴様が殺した。

「何度か研究室で話し込んだよ。その後、帰りが遅くなるのもなんだから、
と、ボクは彼の自宅に招かれるようになった。」
「世田谷の屋敷か。」
「そう。今となってははうらびれた大邸宅だが、
当時は住み込みの家政婦が3人、おまけに庭師まで出入りしていた。
それはそれは綺麗な豪邸だったさ。あの頃のあの家をキミは知らないだろう?。」
「産まれてねーからな。」
「産まれてたんだよ。
ボクが初めてあの家に呼ばれた当初、キミは1歳、イヤ、0歳かな。」
「0歳が覚えてると思うか。」
「・・とにかくだ。キミというやかましくて邪魔なのが、先にあの場所入り込んでいたんだ。」
「・・。」
「3人の家政婦というのは住み込みの乳母。いわばキミの為の女どもさ。
奥方はキミを産んだ後は入院したきりという話だった。
赤子のキミはミルク缶の絵のような、まさに絵に描いたような可愛い顔をしていた。
今ほど目つきも悪くなかったしね。乳母3人はキミにぞっこんだった。
女どもは3交代でそれはそれは過保護にキミを育ててたよ。」
「一度来ただけの人間に過保護かどうか分かってたまるか。」
「一度じゃないさ。」

手にしたままの煙草を仁井はようやく口にして火をつけた。
ヤツが一服吸い込んで紫煙を吐き出すまでの冗長な間を、急かす気にはならなかった。
急かさずとも、俺が唯一聞くべき事柄は間もなく語られる。
何故かそんな気がしていた。

「呼ばれるがままにボクはあの邸宅を訪れた。初めは週に一回程度。
それが週2回になり3回になり、2年目にはほぼ泊り込んでいた。
キミも知っての通り、乳飲み子と男一人が住まうには広過ぎる邸宅だ。空き部屋はいくらでもあった。」
「それで。」
「乳母達はいつでも競って赤子の面倒を見たがっていたが、時折そこに彼が参戦してね。
育児室からこっそりキミを自分のベッドに連れ出すんだ。
『可愛いだろう』とボクに自慢するんだが。
ボクは犬や猫の子の方がよっぽど可愛いと思っていた。」

『まあ先生!。また坊やを連れ出して!。私達にお任せくださいと言ってありますでしょう!。』
『ああ。すみませんね。でも、ちょっとだけですから。』
『ちょっとも何もありません!。返して頂けますか。
その子が泣いてもおなかが空いたのかおしめなのか、先生にはお分かりにならないでしょう!。』
『分かりますよ。なんとなく。』
『なんとなくではお分かりになっていません!。』

「そしたらキミが『ぎゃー』と泣いてね。
乳母の女は勝ち誇った顔で言ったさ。」

『ホラ先生。ミルクかおしめか。お分かりになりますか。』
『あなたがそんな大きな声を出すから。』
『なんですって?!。』
『僕たちが喧嘩をしてると思ったんですよ。喧嘩は、いやですもんねえ。』

「女が黙るとキミも泣き止んだ。女はふくれっ面でキミを連れて帰ったが、
間もなくキミを抱いて戻ってきた。おしめは濡れておらずミルクも欲しがらなかったそうだ。」
『先生がお休みになる前には、育児室に連れて来て下さいね。』
「そして彼は、自分のベッドに赤子のキミを連れ込む権利を得たわけだ。
しかしボクにしてみれば、貴重な語り合いの時間に邪魔が増えたことになる。」
「・・。」
「ある日。彼が席を離れた隙に、ボクはキミの首を絞めてみたことがあるんだ。」
「・・貴様。」
「勿論その場で殺す気はなかったけどね。なんとなく気分さ。
その時キミは泣きもせず、じっとボクを睨みつけていたな。そう、そんな目だ。」
「俺の話はいい。親父の話に限って話せ。」
「話はまあ、終わりだ。」
「なんだと?!!。」
「ご不満ならボクと彼が交わした学術的な論議の数々を披露するかい?、
ボクとしては是非拝聴してほしい話題ばかりだが、キミが要点を急かすから割愛したんだが。」
「その要点が全く分からん!。」
「鈍過ぎるなキミは。」
「フザけやがって!。」

俺は丸椅子から尻を浮かせたが、仁井は動じず、片手で俺を制した。

「続きをもう少しだけ話してやろう。大サービスだ。
僕達の穏健な時間が何故終焉したか。
キミの母親の容態が悪いなりにも落ち着いたということで、彼は豪邸を出る決意をした。
手狭な普通の家で家族水入らずで過ごすことを、彼は望んだんだ。」

長い無駄話はここにきてようやく本当の要所なのか。

「そこで、ボクは彼に提案した。『この際妻も子も捨てたらどうだ』と。」

仁井の細い目が俺を見据えていた。
開いているのか閉じているのかも曖昧な細い目だが、眼鏡奥の確かな眼光は俺に問いかけていた。
分かるかい?、と。

分からなかった。
無駄に長い話で提示された数々の点がある。
点が結びついて線になるキーワードがあるはずだった。
だが、俺には分からなかった。

「そう。キミには分からない。彼も、そうだった。」
「『妻と子を捨てるだって?』
つまらない冗談を聞いたつもりでのんびりと繰り返していたな。」
「それで。」
「まだ分からないのかい。それきりだよ。」

中途半端に燃えた煙草を消すと、仁井は机に両肘を付き手を組んだ。
言葉遊びを愉しむつもりでもないらしい。
少々丸まった白衣の背は年相応に疲れた男の風采だ。
出来の悪い生徒を前にした教授らしく、仁井は俺に流し目をくれた。
しかしその視線には、バカな生徒への哀れみ以上の哀愁が含まれていた。
喪失感とでも呼ぶべきかもしれない。

しかしこの中年男が一体何を失ったというのか。

その時、ようやく俺にも何かが閃めいた。
鈍いと言われたのは確かにその通りだったかもしれない。

仁井は高校の時分に親父に会い、何かを感じ、追い続けて上京した。
その後作為的に再会し、どんな形であれ、傍らに存在し続けた。
そういう執着は、世間一般の表現でならどう言うか。
恋とか愛とか、そういう美化されたクソ甘ったるい言い回しをするのではないだろうか。

「・・ようやく気付いたわけか。その辺のタイミングはさすがに親子だな。
彼も最後には気付いたさ。あの豪邸を出る直前にね。」
「・・それで。」
「言っただろう。それきりさ。その後彼には会っていない。」
「嘘だ。」
「嘘なもんか。ボクがそう望んだんだ。」
「・・つまり。」
「どうしても手に入らないというのなら、存在しない方がいい。」
「はっきり言え。」
殺した、と。

「存在すべきでない、とでも言うべきか。」

ある種の冷徹な感情が塊となって、俺の背筋を静かに這い上がっていた。

「話のついでにもう一つの件についても教えてあげよう。
酔っ払いが駅のホームから転落した『事故』について。」
「・・ああ。」
「キミの家族が亡き者になった数年後、ボクは気まぐれであの豪邸を訪れた。
するとどうしたことだ、かの想い出の地が荒れた公共アパートのような事になっていた。
ボクは即座にあの場所を取り戻す事を決意した。
しかし僕自身の過去の経緯は伏せたいところだ。
色々と調べた結果、豪邸に住み込んだ人間はあの伯母上と関係のある男と
その男と関係のある女、その女と関係のある男・・とまあ見事にふしだらなつながりの連中だった。
つまりボクも現在の住人の誰かのパートナーになって潜り込むのが自然だと分かった。
住人の中ではインテリでボクとも話が合いそうな黄恵をまず落とした。その辺の手管は省略するよ。
そうすると黄恵の男が邪魔になった。ボクは黄恵の男の身の回りを洗った。
もっとマシな女を紹介してやるのがいいかな、なんて考えていたんだ。
しかし彼は毎晩酔い潰れ、尾行者がいるとも知らずホームでフラフラしてる。
ボクにしてみれば、ぶつかってくれと頼まれたような気分だったよ。」
「・・成程な。」
「まあ勿論ボクがぶつかったとは言っていない。
あの『事故』はまだ時効前だ。そうだろう?。」

そんな事は俺にはもうどうでも良かった。

「さて。これで最後だ。
何故キミに全ての種を明かしたと思う?。
ただの暇つぶしにしてはボクにリスクが高すぎる。そう思わないか。」
「何が言いたい。」
「ボクは全ての謎を手に入れる。その為に努力し、手を尽くす。」
「つまり?。」
「手に入らない謎なら、消えてもらうことになる。」
「脅迫か。」
「その辺を理解してもらうために、長い話を聞かせてあげたわけだ。」
「俺を脅すまでもなく、貴様はあの家を観世から買い取ればそれで済んだはずだ。」
「まだ分かってないな。言っただろう。ボクは新しい謎に巡り合った。」

ああそうか、と、その時ようやく俺の中で全ての点が連結し、線となった。

下世話な言い回しをするなら、俺は口説かれていたわけだ。
このクソ野郎に。
あり得るだろうか。
冗談にしても史上最悪だ。

「覚えているかい、
キミの父上を自分の大学の教授に引き抜いた学部長が死んで、
その葬儀の式場で僕達は出会っている。
あの時、ボクは理解した。
解けずじまいの過去の謎は、キミに引き継がれたとね。」

スズメのフリをしてさえずり続けた烏が、
ようやく漆黒の翼をばさりと広げて俺を威嚇していた。

「で?。」
「伯母上に提言した通り、あの屋敷はボクが買い取ろう。
確かキミは一軒屋を購入して遺産を散在したところだったか。
ちょうどいいじゃないか。その家をキミのところの野猿にでも譲り渡して
キミはあの家に戻ればいい。そもそもはキミの家だったあの場所へ、ね。」
「それが貴様の言いたいことの全てか。」

「歓迎するよ。」



- 続 -
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