31



烏の居城は専門棟の6階。
前に訪れた時、烏自身が俺にそう告げた。

一般講堂へと向かう舗装路を横道に逸れて、図書館を素通りした向こう、
大学の研究棟というより駅前のビジネス街と変わらない近代的で味気の無いビル。
講堂前と比べたらあたりには学生の数もまばらで、出入りする人間は年長者が多い。
年寄りに見えるのは教授陣だろうし、比較的若そうなのは院生もしくは研究生だろうか。

入り口を入ってすぐの壁に館内の配置図があった。6階に烏の名を探す。
6階最奥『行動心理学ゼミ室』の一つ手前、『仁井研究室』。
いつまでも案内板を眺め続けて俺は部外者んなんだと周囲に知らしめるのは避けたいところだ。
さりげなく辺りを見回し、目についたエレベーターへと、俺は自然を装って踏み出した。
その俺の肩に誰かの手が触れた。
大振りな手が、俺の歩を止めるように背後から俺の肩を掴んでいた。
反射的に俺はその手を振り払った。

殴るのが早いのか蹴る方が近いのか、
相手の位置を確かめるためだけに俺は振り向いた。
それが誰かなどという考えはなかった。
ヤるかヤられるか、否、ヤる。
この建物に足を踏み入れた瞬間から、俺の頭にはそれ以外なかった。

「・・っと。」

俺の肩に触れた誰かは、俺の剣幕に驚いて、半歩下がって両手を上げた。
長身の長髪・・梧譲。
そうだった。
俺はヤツのバイクでここまでやって来た。
その後、俺は一方的に行動を開始した。
ヤツのことは、忘れていた。

「あのさ。あの。余計な事だとは思うんだけど。」
「・・スマン。忘れてた。」
「うん。そうみたいだけどそれはいいから。」
「悪いが、帰ってくれ。ここまでだ。」
「な。帰らない?。」

帰るわけがない。ここがそもそもの目的地だ。

「とかって俺が言ってアンタが帰るとも思えないんだけど。」
なら言うな。
「あのさ。俺もおかしいと思うけど。悪い予感がする・・ような。」
「・・。」
「帰ろうぜ。な。また、出直しても悪くない?。なくなくない?。」
「悪いが。お前だけ帰れ。」
どうしても貴様が帰らないというのなら、まずここで暴力沙汰だ。

言外に含んだ俺の思惑をヤツは汲み取ったんだろう。
赤い長髪の肩の辺りまで両手を上げたまま、ヤツは更に一歩後退した。

「分かった。帰る。」

分かったようん帰る、帰るよ、と自分に言い聞かせるように呟いて、
ヤツは歩を引き、上げた両手を下ろし、振り返り、俺に背を向けた。
もし俺が今振り返ったらその隙に後をつけられるような気がして、
俺はヤツが建物の外に出て歩き去り、後姿が見えなくなるまでを見送った。

もう少し何か、話すべきことがあったかもしれない。
だが今俺は、目前に大仕事を控えていた。
真実を聞き出し、烏を殺す。
俺にはそのことしか考えられなかった。


学び舎の風情も無いエレベーターで6階まで上がった奥、
俺は『仁井研究室』の扉を叩いた。
面会の予約を入れてあるわけではないから、講義その他で留守ということもあり得るわけだ。
ヤツがいるにしろいないにしろそれが運命だと、俺にはそんな気がしていた。

「どうぞ。」

扉の向こうから中年男の声がした。
つまりは、そういう運命らしい。
運命はそういうことだとして、それがお互いにとって幸か不幸かは考えないのが正解だろう。

俺は無言で扉を押し開け、中に踏み込む・・つもりがそうはいかなかった。
俺の足は半歩踏み出したところで止まった。
何故ならば、扉が開かなかったせいだ。
正確に言うなら全く開かないというわけでもない。
俺がドアノブを回して押した扉は開くには開いたが、
わずか5センチほど開いた時点で障害物にブチ当たっていた。

一歩下がってドアの隙間を見直してみる。
単に障害物というにはデカ過ぎるアルミ板が扉の向こうの上下縦横全面を覆っている。
本棚の背面のように見えるが一体。

さて。
どうぞと言われたが俺は入れないわけだ。

「ああ、そっちからは入れないんだ。隣から回ってくれ。ゼミ室奥に引き戸がある。」

先に言えクソが!!。

瞬発的な怒りで俺は眩暈さえ感じた。
頭に血が昇り過ぎた故の貧血だろうか、突然覚束なくなった足で俺は隣室のドアを蹴り開け、
ロの字に配置されたゼミ用の机に時折手を付き身体を支えながら、
なんとか部屋奥、隅の引き戸前まで辿り着いた。
ゼミ室とやらに学生がいないのは幸いだった。
意表を衝かれたとはいえ醜態にも程がある。
このまま研究室に転がり込むようでは戦う前から負けている。
俺は部屋奥の扉の前で一旦足を止め、独り呼吸を整えた。
それからおもむろに戸を引きあけた。

「やあ。玄奘クン。よく来たな。」

6畳程の狭い小部屋はスペースの殆どが書架で埋まり、
空いた窓際の狭いスペースに小振りの机が据え置かれていた。
白衣の中年男は机に伏せて何やら作業中だ。
男は机から顔を上げもせず、俺に無精髭の横顔を見せたまま俺の名を呼んだ。

「ゼミの生徒は皆この部屋の仕組みを知ってるからね。
向こうをノックするのはココの学生じゃない人間だけさ。キミとかね。」

フザけてやがる。
撃ち殺したい。今すぐ眉間をブチ抜きたい。
ここがアメリカなら俺は確実に拳銃持参でこの場に訪れただろうし、
その場合もはや過去の真実などどうでも良く、今この瞬間俺は撃った。間違いない。

「そう怒らないでくれ。まあ座りたまえ。」

一体何が可笑しいのか、無精髭の中年は声を出さずに咽喉元で息を殺すように笑う。
黒縁眼鏡奥の細い目を更に細めつつ、男は俺に安っぽい丸椅子を勧めた。
椅子を蹴り倒してついでに男をも蹴り倒したい。
しかし撃ち殺すタイミングで撃ち殺せなかった以上、
本来の目的を果たさなければ、わざわざ出向いて来た意味が無い。

俺は下卑た笑顔を睨み返しつつ、示された丸椅子に腰を下ろした。
ヤツが白衣を着込んでいるせいで、俺は病院で問診される患者まがいだ。
居心地の悪い事この上無い。

「ボクについて何か分かったかい?。」
「概要は知れた。」
「ふうん。」
「詳細はアンタが話せ。」

どうしようかなあ。
そんなフザけた台詞を呟きながら、仁井は煙草を咥えて火をつけた。
自分以外の誰もいないかのようにのんびりとした一服の様を目の当たりにして
またしても俺の殺意が俺という外枠から弾き出んばかりに膨張した。

「?。」

小さく首を傾げた仁井は俺の殺意に反応したのかと思えた。
しかしヤツは俺を通り越した向こうを凝視していた。
黒縁眼鏡奥の糸のような目が何かを見取れるのかは不明だが、
視線の方向として、ヤツは俺の背後を見据えていた。

狭い個室で俺の背後と言えば、今俺が入ってきた引き戸くらいしか無い。
そしてようやく俺もある種の違和感を察知した。
引き戸は開くわけでもなく、微かに動いている。
反対側から圧力があり、その圧力が微妙に変化する、そんな動きだ。
・・なんとなく、事態に想像がついた。

俺は物音を立てないようこっそりとドアの前脇へと寄り、
勢いをつけて扉を引き開けた。
途端、男が転がり込んできた。
上背のある長髪の野郎。
梧譲。
あまりにも想像通りなので俺には特に述べる感慨も無い。
梧譲はといえば急にドアが開いた反動で前のめりに転び、
前屈一回転を決めて直前まで俺が座っていた椅子に額を打ち付けた。
舞台演芸だとすれば動き的には完璧だ。

「わ!。わわわわわ!。悪い!。」
「・・。」
「イヤ俺帰る途中。ちょっと道に迷ったみたいな?!。
こっちじゃない。違う違う。帰る。悪イ。スイマセン。それじゃ!。じゃ!!。」

梧譲は片手で俺を拝み、誰だかも知らないくせに仁井をも拝み、
拝み倒して俺達に何も言う隙を与えず尻から部屋を出て、そのまま駆け出した。

バカバカしさに呆然としながらも、俺は引き戸を閉めた。
閉めたがしかし、何となくイヤな予感がしてもう一度開けてみた。
さすがに誰もいなかった。

「・・何だねアレは。」
「帰ったらしい。気にすんな。」
「もう少し友達は選ぶべきじゃないか?。」
「そうかもしれん。」

クソ野郎に説教されてしまった。しかもその言には一理ある。
しかし間抜けな寸劇にうんざりしたおかげで殺意が紛れ、正常な血圧が戻った感もある。

俺は持参したブリーフバッグから2つの冊子を取り出し、仁井の机上に放り投げた。
ようやく本題だ。

「俺は気が長くない。駆け引きは抜きにしてもらう。」
「ボクは過程も楽しみたいタイプなんだけど。」
「俺の手の内はそれで全部だ。」
「へえ。」
「貴様は3人殺してる。内2人分は時効。」

仁井は放り出された調査書を手に取ると、
学生のレポートを流し読むようにパラパラとページを繰った。
時折首を傾げるそのポーズは、レポートの出来が今ひとつだと示唆しているようでもある。

「探偵社を使った、と。手抜きといえるがキミは素人だ、仕方ないか。
その一の依頼者は伯母上、その二がキミ、と。その一は身上書か。
しかしまあ、なんだな。キミはとある仮定を元に依頼する調査項目を決めたようだ。」
「貴様が俺の親を殺した。違わないだろう。」
「何故そう思う?。」
「勘だ。だが裏も取れた。」
「あり得ないな。一方は事故、もう一方は犯人も検挙されて有罪確定済みだ。」
「当時の担当刑事に会った。古い事件の方だ。今は退職して年金生活中だった。」

ふと振り向けられた眼鏡越しの細い目に一瞬光が宿ったのを俺は見逃さなかった。

「金品目的の押込み強盗、確かそういう事だった。
実行犯は似たような前科があり、成人してからはショバで暮らすより
刑務所で暮らした時期が長い。そんな人間の再犯だ、誰も疑わない。
だが当時の担当刑事はとある違和感を覚えた。何故あの家なのか。
世田谷の豪邸を出て親父が住み替えた家は、高級住宅地の中では地味な外見だった。
何故実行犯は土地勘も薄い場所で、その家を選んだのか。」
「・・何故?。」
「『特に意味は無い。なんとなく』それが当初の供述だ。
しかし刑事は執拗に追及した。何かきっかけがあったはずだ。
そして実行犯は思い出した。『センセイに聞いたかもしれない』。」

仁井が吐いた薄い紫煙は生き物のようにうねり
彼のオールバックの短髪に纏わりついては余韻を残して消えていく。

「実行犯は犯行当時、前科を償って出所した数ヵ月後であり、公園の浮浪者として生活していた。
そんな彼に酒や食料を提供する者がいた。
実行犯は彼を『大学の偉い人』と認識し『センセイ』と呼んでいた。
『センセイ』は男に何らかの錠剤を与え、服用後の気分を尋ねる事もあった。
人体実験の可能性も免れないが、その点は差し置く。
実行犯は『センセイ』にとある話を聞いていた。
近くの住宅街に非常に裕福な知人がいる。
その男は産まれたときから何不自由ない恵まれた環境で育ち、現在も妻子と幸福に暮らしている。
その男がどれほど恵まれた生い立ちか、嘘かホントかはともかく『センセイ』は執拗に話した。
『キミのような人間もいれば、あの男のような人間もいる。
世間とは全く不平等だな、そう思わないか。ボクはキミに心から同情するよ。』」

「それで。続きがあるのかい?。」

「冬の寒い日。食料も調達できなかったある夜、男は世界を呪う気分になった。
己の不幸を世間の人間も共有すべきだと考えた。そしてとある家に押し入った。
それが、俺の家だったわけだ。」

「全てはキミの思い込みが全面に立った辻褄合わせとも取れそうだ。」

「当時の担当刑事は殺人教唆を思った。しかし実行犯自身が教唆に気づいていない。
立件できないだろうという確信めいた勘が先に立った。
結局単独犯ということで送検して事件は解決。アンタも知ってる通りなわけだ。」
「妥当な判断だろう。」

「もう一つ、比較的最近の『事故』の方。
これは俺には直接関係ないが。もののついでに現場を見て来た。」
「ご苦労な事だな。」
「当時現場には監視カメラも無く、被害者がホームから落ちた原因は正確には知られていない。」
「それで。」
「それだけだ。」
「・・それはキミ、何も分からないのと同義だ。」
「俺は別に事件を立件したいわけじゃない。」
「そう思ったところで無理だろうしね。」

「何故だ。」
「何故って?。」
言うまでもない。問いの意味は承知しているはずだ。
何故親父を、母親を殺したのか。

「俺が知りたいのはそれだけだ。」

教授だか助教授だかの中年は『出来の悪いレポート』を無言で繰り続けた。
最後まで流し見た後、パサリと閉じられた紙束の上で、仁井の視線が止まった。
『身上調査書 観世琴音殿』
そう、そもそも仁井の身辺調査を始めたのは観世だった。

「キミになら教えると、あの妖怪めいた伯母上にボクは告げた。」
「ああ。そう聞いた。」
「ボクがあの屋敷を手に入れたいその訳をね。」
俺が聞いてるのはそんな事じゃない。
「それで良ければ、教えよう。」

それじゃないと言わずもがなの俺を、白衣の中年は斜視気味に覗き込んだ。
皮肉と道化で繕った眼鏡越しの視線が、いつになく真摯に何かを探ろうとしていた。
しかしその何かは探せずじまいだったらしい。
「違う」と、仁井は俺が言うはずの台詞を呟いて、小さく首を振った。

「キミは全く『彼』に似ていない。むしろ正反対のように見える。
なのにキミは紛れも無い『彼』の落とし胤だとボクには直感できる。何故だ?。」

バカバカしい質問に俺はただ黙り込んだ。
無精髭の中年が哀愁を込めて親父を『彼』と呼んだことに、俺はただ不快感を感じていた。

「キミ、ひとつ教えよう。行動心理学はね、イカサマな学問なんだ。
学者は実験をしてデータを取る。例えば赤ん坊を台に乗せ、右に母親、左にぬいぐるみを待機させる。
赤ん坊は母親の方に這って行く。結果として学者は子供はぬいぐるみより母親が好きだと結果付ける。
しかし何故そういい切れる?、赤ん坊は右側に行きたかっただけかもしれん。
母親は手を叩いて子を呼んだかもしれない。なら黙った母親と機械仕掛けでしゃべるぬいぐるみならどうだ?。」
「・・何の話だ。」
「行動科学の人間は実験以前に結論を予見している。無意識に結論を先に決め、
それを証明できそうな実験をでっち上げる。でっち上げとも気づかずにね。
そのくせ実証主義を気取っているとはとんだお笑い種さ。」
「それがアンタの専門だろう。」
「そういうことだ。ボクはその予定調和な生ぬるさ加減が気に入っている。
だがしかし、短くない人生のうちでは稀に、直感では解けない謎に巡り合う。
年の功かな、ようやく分かるようになったよ。
『直感で分からないことは、追求したところで分からないかもしれない』。」
「その話には何か意味があんのか。」
「キミという謎に出会う、それ自体がボクには既視感なんだ。キミには分からないだろうけどね。」
「ああ。」
「いいだろう。」

俺達のやりとりは会話として成立しているのかどうか。

「話してあげよう。少々長くなるが。」
「要点にしろ。前にも言ったが俺は気が長くない。」
「若いなキミは。この手の話に要点なんてないんだよ。」
「俺が聞きたいのは」
「分かってるさ。聞き終えた時、キミは知りたいことの全てを知るだろう。」

無精髭の中年は俺を見つめて鷹揚に頷いた。
まるで含蓄のあるイイ話を終えた後のような風情だが、
話はようやくこれからだ。



- 続 -
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