27



翌朝。
布製のパーティションに仕切られたフロア最奥、
窓際の席で、僕は色褪せた単行本を広げていた。
本のタイトルは『シュタイナー教育』。
僕が学生の頃に買った古い本だ。

1919年、ルドルフ・シュタイナーによってドイツ南西部の町シュトゥットガルトに作られた学び舎は
『シュタイナー学校』もしくは『ヴァルドルフ学校』とも呼ばれた。
教科書がなく通信簿もない代わりに、12年制の一貫教育、担任持ち上がり制といった特徴も備えている。
教育学部の学生だった当時、僕はシュタイナーの教育思想に傾倒していた。
しかし、たった一人の教え子を置き捨てて逃げ出した時、僕は自らの道をも捨てた。

それは間違いだったと、最近旧い友が僕に教えた。
その後(実際ほんの昨日だが)、置き捨てた少年に再会し、僕自身過ちを実感した。

脱線した僕自身の道を、取り戻さなくてはならない。

悟一が悟一のままでいてくれたことに僕が救われたように、
僕は僕であることで、彼の想いに報いたい。
逆に言えば、僕が出来る事はそれくらいしか無いということだ。

(「戒ちゃんがしあわせっていうか、イイ感じなのが、オレも、いいから。」)

悟一の言葉が僕の胸深くに染み付いていた。
たとえ彼が遠くに離れても、僕の手が届かなくても、
あの言葉で彼が与えてくれた僕への祝福を裏切るような存在にはなりたくない。


「課長補佐・・じゃなくて井野サン。岸ちゃんから連絡ありましたあ?。」

始業直後から独り勝手な想いに耽る僕を呼んで、
パーティションの向こうから園部が間延びした声を上げた。
現在午前10時、岸が出社しない事に当然僕は気付いていた。
気にかけていることは言うまでもないが、社員にそんな素振りを見せるわけにはいかない。

「イヤ。何も。」
「おっかしいなあ。岸ちゃん遅刻したこと無いのに。」

「課長補佐じゃなくて井野サン、岸に何か言いました?。」

堅い声音で僕を糾弾したのは新田。
現場のチーフ的立場の彼は、人一倍面倒見のいい性格で、
女子社員の保護者を自負しているようなところがある。
そんなわけで、女性に優しくもない僕と彼とは事ある毎に衝突している。

「何かとは何だ。何も言うわけないだろう、僕が。」
「そうスか。」

パーティション越しの会話はフロアに寒々しい沈黙を呼び込んだ。
仕切りの向こうから押し寄せる無言の圧力を肌で感じながら、
僕はこのまま岸が永遠に出社しない可能性を思ってみる。
あり得ない。
と言う以上に、あったら困る。
この場から身を引くのは、僕なのだから。

あったら困る方の可能性を脳裏から振り払い、僕はデスクの引き出しを開ける。
そこには今朝タイプしたばかりの2種類の文書がある。
一つは『補習受講者名簿』、もう一つは『退社届』。

逃げるのではない。踏み違えた道を元に戻す為だ。

僕は僕自身の軌道修正の為に会社を辞める。
自動的に僕は岸の視界から消える。
その後、僕が悟一が会うことはない。
そして、じきに岸と悟一は元の関係に戻る。

しかし合併を控えたこの時期に僕がこの場を去れば、
岸をはじめとした社員の身の振られ方に大きな不安が残る。
当行大株主のご令嬢に手を回してもらうという保険をかけていた僕だが、
できれば裏技は使わずに対処したいと、今では考えを改めていた。
悟一の真っ直ぐな瞳に恥じない存在でありたい。
僕がどんな裏技を使ったところで、悟一に知られる事はないだろうけれど。
要は気持ちの問題だ。

死ぬまで悟一に会えないとしても、心の中の彼に恥じないように生きる。

それが昨日の夜、駅構内に座り込んだ挙句の結論だった。


「・・おはようございます。」

パーティション越しに、か細い女性の声が僕の耳に届いた。
布製のつい立てに隠れて僕はこっそり安堵の吐息を漏らした。
岸が出社したらしい。

「おはよう、どうしたの岸ちゃん。風邪?」
「・・いえ、ちょっと。」
「やだあ、目が腫れてる?!。」

園部が騒ぎ出していた。
厄介な展開になる前に止めた方が良さそうだ。
僕は自分で枠線を引いた『補習受講者名簿』を手に、いそいそと席を立った。

「さて!。皆さんが揃ったところでお話があります。注目。
来週月曜の就業後、初歩的な技術講習を開催したいと思います。講師は僕。
自主的な勉強会のようなものですから、残業代は付きません。」
「え〜。」

園部は露骨に不満の声を上げ、新田は怪訝そうに目を細めた。
岸は、机に顔を伏せたまま僕の視線を避けている。

「参加は任意とします。希望者はこの紙に名前を書いて。
ちなみに僕としては、技術経験の浅い女性陣の参加を促したい。」
「ええ〜。」
「どうします、園部。」
「あたし〜。アフターファイブは用事があるから。」
「そう。岸クン、キミは?。」

「オレ、出ますよ。」

新田がバシッと机を両手で叩き、椅子から腰を上げて僕を睨み付けた。
どうやら彼はこの『補習』を、僕から岸への個人攻撃と受け止めたらしい。
まあ、彼がそう考えるだろうというのは僕の想定内だ。

「立たなくてもいいよ、新田クン。じゃあココに名前を書いて。」
他に希望者がいたら、今日の帰りまでに名前を書くように。」

軽く鼻息を荒げつつ、新田は『補習受講者名簿』に自分の氏名を書き殴った。
岸が参加してくれないとこの会を開く意味がないのだが、強制するわけにもいかない。
僕は新田から受け取った紙面を岸の机の端に置き、自席へと戻った。
あとはまあ、成行き任せだ。

凶と出るか吉と出るか、とにかくサイは振って一仕事終えた気分だが、
実のところもう一つ本日の大仕事が残っていた。
具体的には一本電話をかけるだけなのだけれど。
気の重い大仕事を後に回しても始まらない。
僕は机上の受話器ではなく内ポケットの携帯を取り出した。

相手の番号は聞いていない。
聞いてはいないが、着信履歴にかけなおせば多分つながるだろう。
安易な僕の予想を裏切らず、コール20回ののちに「んあ〜」と間延びした応対の声が出た。

「僕ですが。今仕事中ですか?。」
「あ〜。エンジンあっためてるとこ。」
「運転中?。」
「まさか。これから。」
「2分程いいですか。僕も仕事中なんで長くは話せない。」
「何?。」

「4日後、イヤ、昨日の4日後だから3日後、月曜。身体空けておいて下さい。」
「はあ?。」
「仕事があります。」
「ハイ?。」
「貴方に大きな荷物を運んでもらおうかと。まあ、人なんですけど。
貴方、車の免許持ってます?。」
「無い。って待てよ一体」
「そうですか。じゃバイクでも仕方ないでしょう。
荷物の引き取り先住所を言います。一度しか言いませんから良く聞くように。」

僕は黒皮の手帳を開き、とある郊外の住所を読み上げた。
それはついこないだ、悟一の住所として梧譲自身が僕の手帳に書き込んだものだ。

「場所は分かりましたね。以上です。」
「オイ!!。」
「ちなみに顧客に配達担当者は連絡してません。
行くも行かないも貴方次第です。それじゃ。」

「オイ」と「コラ」を一緒に言おうとしたのだろうか、
梧譲がふごふごと口ごもった妙な音を最後に僕は通話を切った。
ついでに携帯の電源も切った。
何だかんだと苦情を述べ立てられる前に先手を打ったわけだ。

(・・さて。)

色々と想う所はあり過ぎる程にあるが、僕は無理矢理意識をこの場に戻した。
次に考えるべきは、退社届を本社の総務部長の元へと持参する時期か。
常識的には引継ぎに3ヶ月だが、とそこまで考えたところで
フロア隅に取り付けられたブザーが「ブブー」と気の抜けた警告音を発した。
この部署のミスでホストのジョブがエラーになると、
3階のJCL担当部署が手動でベル鳴らすという仕組みになっている。
携帯の時代に糸電話で会話するような前時代的システムだ。

とにかく、この部署の誰かがしくじったわけだ。
具体的に誰かという見当はついている。確かめるまでもない。
そしてこのベルが鳴ると、フロアの責任者である僕が
ジョブを止めに3階に出向き、一筆反省文を書くというシステムになっている。

「あの、オレが。」
「そう。お願いするよ。」

新田と僕の間でかわされた短い会話の内実はつまり、
僕の代わりに新田がエラー対応をやってくれるという意味だ。

管理者の反省文には認印が必要とされている。
僕が胸ポケットから取り出したシャチハタを
新田はひったくるように奪い取り、フロアを駆け出した。
新田は少々岸に対して過保護過ぎるという気がしないでもない。

「あの。課長代理補佐にお電話です。」

一難去ったばかりの僕を園部が僕を呼んでいた。

「誰。」
「さあ。ヤクザのような人です。」
「誰だって?。」
「『戒而の野郎を出しやがれ』と言うので『当行の者でしょうか』と尋ねたら
『ホセとかホサとか言うスペイン人みたいなメガネ野郎だよクソったれ』、と。
これって、課長代理補佐のことじゃありません?。」

園部の声を漏れ聞いた続きフロアの協力会社社員5名中4名が、ブッ、と噴き出した。

「ホセとかホサとか言うスペイン人みたいな肩書きのクソメガネは今会議中で留守だ。
そう言って切れ。」
「・・ええと。」
「いいから早く切りなさい。」
「はあ。」

・・最悪だ。

そういえば数日前僕は梧譲の自宅に会社の名刺を残していた。
続き間の派遣社員が忍び笑いを続ける中、事後処理を終えた新田が室内に戻った。
そして戻ったばかりの新田が自席に座り付く以前に、再度「ブブー」とあのブザーが鳴った。
・・最悪以下の状況を一体何と表現するべきか。

「新田、認印を貸してくれ。僕が行く。」
「あ〜。いいス。また行って来ますオレ。」

新田は座る前にまたフロアを駆け出した。
そして、再度園部が僕を呼んだ。

「あの。」

園部は通話の内容を告げず、ただ僕へと受話器を付き付けた。
受話器から流れる大音声は、パーティション越しの僕まで問題なく届いた。

『戒而!!。出やがれコノ野郎!!。』

最悪以上の状況は表現などしようもないのだと実感しつつ、僕は自分のこめかみを揉んだ。

「・・回してくれ。内線で取る。」


机上の受話器を上げた途端、罵声というよりもノイズでしかない大音声が湧いた。
とても直接耳で聞く気になれず、僕は受話器を持つ腕を伸ばし切った状態で腕時計を見た。
2分30秒経過した時点で、恐る恐る受話器を耳に付けてみる。
今この時点で静かなのは、彼の勢いが萎えたおかげかそれとも単なる息継ぎの間か。

「と。言いたい事はそれだけですか。」
「野郎!!!。」
「それじゃ。切ります。」
「未練があるとか、俺が一言でも言ったかよ?!!。」

困った人だ。
言わなければ分からないとでも思ったのだろうか。

「貴方確か、あの絵を燃やしたそうですね。」
「だ、だったら何だ!!。」
「どうやって燃やしたんですか。キャンバスはライター程度じゃ燃えなかったでしょう?。
白布を木枠から引き剥がして燃やしたんですか?、枠はどうしました、部屋には見当たらなかったけど。」

電話向こうの梧譲が突然黙り込んでいた。
その話は止めてくれと、彼の心の声が僕には聞こえるようだった。
だけど、言わせたのは彼だ。

「公園にでも持ち込んで燃やしましたか、枠木は太さもあるし燃えにくかったでしょうね。
燃えきるまでその場で見ていたんですか?。危険だし炎を残して帰るわけにはいかないでしょうし。」
「・・だったら、なんだっつーんだよ。」
「貴方はいらなくなったものを全部部屋の隅に投げ捨てておくんです。
昔使ったギター、読みかけの雑誌、女の子からもらった手紙。
なのに何故、あの絵だけは投げ捨てておけなかったんですか。
貴方、貧乏なんだから安く人に譲っても良かったはずだ。」
「・・貧乏は、ほっとけ。」

確かにそれはほっておくしかない。
電話越しの僕達の間に束の間の沈黙が訪れた。

「いいですか、僕は依頼人・・はっきり言いましょう、宗蔵に
貴方がやって来るのだとは告げていない。貴方が嫌なら、行かなければそれで済むんです。
車を手配すると請け負った僕が非難されて信頼を失う。貴方にはそれだけの事なんです。」

回線の向こうで、梧譲は独り言のように「仕返しかよ」と呟いた。

悟一に会うのか会わないのか自分で決めろと僕に判断を付き付けた、
その仕返しがこれか、と、そういう意味だろう。
仕返しかもしれないと、僕自身思う。
梧譲が僕を気遣ったように、これはいわば思いやりの仕返しだ。
彼がそう受け取るかどうかは甚だ怪しいけれど。

「もう切ります。仕事中ですから。」
「お前、一度ウチ来い。」
「分かりました。」

素直な返事とは裏腹に、僕は今彼に会わないほうがいいだろうと感じていた。
少なくとも3日後のその時までは。

「最後に一つだけ聞いとく。」
「何でしょう。」
「お前は悟一に会ったのか。」
「ええ。」

確かに僕は悟一に会った。
本当は会うつもりはなかったのだけれど。
そして会ってどうしたのか。回線越しの沈黙が僕にそう問いかけていた。
だけど僕は気付かない振りをした。

「昨日です。僕は悟一に会いました。」
「・・分かった。」

さよならの挨拶もなく、通話は静かに途切れた。

梧譲は宗蔵に会うだろう。
彼と話す以前から、僕には根拠のない確信があった。

幾ら時間をかけて遠回りしたところで、人は結局その人本来の道に還る。
僕達は遠回りし過ぎて道がこんがらがってしまったから、
そもそもの場所に戻るのにやたらと気力や体力を要するんだろう。
宗蔵に会うのが、彼のそもそもの道ではないか。僕は、そう思う。

(さてと。)

僕も僕の道に還る為、まだまだやり残したことがある。

窓際の席から腰を上げ、僕は自席とその他の机を分け隔てているパーティションの片隅を手にかけた。
フロアには3階でのエラー処理を終えた新田が戻っている。

「再三済まないが新田クン、手伝って。」
「何ス?。」
「そっち、持って。」
「どうするんスか。」
「壁に寄せる。」

新田に手伝わせて、僕は布製の間仕切りを取り払った。
僕以外の社員の机6つは、それぞれが寄り固まっている。
僕は自分の机を社員の机群に寄せるよう押した。

「僕の机が50センチ中央に出たから、キミ達の机を同じくらいこちらに寄せて。」
「くっつけるんスか?。」
「そう。」

怪訝な顔で首を捻りながらも、社員のそれぞれが机を少々移動した。
結果、机の固まりは6個から7個になった。
これで僕という上司と部下の風通しが多少は良くなったわけだ。
単に物理的かつ表面的な話だが、まずはそこから始めるべきだろう。

「・・どういう、アレなんスかね、これは。」
「さあ。去り際の贖罪かな。」
「ハイ?。」
「まあ独り言だ。」

「そう言えば、今日はアレ無いスね。」
「何。」
「イヤ、別に。」

午前中に2度もシステムエラーを引き起こした岸への嫌味が無いと、
新田は暗にそう言っている。
僕に言わせれば決して嫌味ではなく、気をつけて欲しいという警告なのだが。
まあ、いいだろう。

部下と上司が今更顔を突き合わせて仕事をするというのも
お互いがやりにくいものだった。
しかし1時間も経つとそれぞれが日常を取り戻した。


そして昼休み。
弁当派で買出しの必要は無いはずの岸が席を立ち、僕を呼んだ。

「井野さん、わたし、出席します。」

岸が直接僕に手渡した薄い紙は、今朝僕が枠線を引いた『補習受講者名簿』。

「それは良かった。ありがとう。」

無意識に微笑んだ僕に、岸は硬い表情で目礼のみを返して立ち去った。
だけど、それで充分だ。

『補習受講者名簿』に殴り書きされた新田の氏名の下には、
岸のフルネームが几帳面な文字で記されていた。


本来の道ならばきっと行く先は開ける。
丁寧に記された筆致が僕にそう伝えていた。


- 続 -
     .

そんでもって98が本来の道です(^^;。
初心貫徹の予定なので一応。


□□ ここまでのお付き合いありがとうございました □□
Return to Local Top
Return to Top