26



「宗蔵の新しい作品、見ました?。」
「サルがコーヒー飲んでるやつ?。」
「どう思います?。」
「どうって・・。」
「おかしくないですか。」

宗蔵と悟一が暮らすギャラリーから駅までの裏通りには、
雑貨屋やブティックや隠れ家的な飲み屋が軒を連ねている。
都心からはやや離れているが、学生や独身者が多いこの街は
洒落た穴場スポットとしてよく雑誌の特集が組まれている。
新店舗が先を争って開業する駅裏の通りで、
看板もない店は当然宗蔵のギャラリーのみだ。

「あまり顔色も芳しくない気がしたんですけど。
まあ、昔から血色のいい人じゃなかったかな。」

僕と悟一は肩を並べて、ネオンが輝き出す通りを歩いた。
こんな時、昔なら僕達は自然に手をつなぐか、
それとも悟一が僕の腕を取ったものだった。
かつては僕の肩下だった彼の目線も、
今や「肩を並べる」という表現そのままに僕とあまり変わらない高さで、
僕はその差異に動じないように、殊更に平静を装っていた。

僕達二人じゃない誰かの話題を取り上げたのも
そんな逃げの思惑があったからだろうか。

「元気無いんだ。宗蔵。引っ越してから。」
「そうなんですか?。」
「元気無いっていうか・・。描くのがつまんなそうだ。」
「職業画家としての仕事が大変だからでしょうか?。」
「分かんない。」
「失礼な質問かもしれないけど。貴方達、生活に困窮してたりします?。」
「それも、分かんない。
もしそうだったら、って思って『オレがどうにかする』みたいな事言うと、
宗蔵、怒るし。」

涙ぐましいまでの心遣いだが、確かに宗蔵なら怒るだろう。
怒りまくった宗蔵の有様が、見たように僕の脳裏に浮かぶ。

「わざと貧乏になろーとしてるよーな気がする。」
「わざと?。」
「家買ったのだってそうだし。
それに今度世田谷の家を売るからすげー金が入るらしいんだけど、
それもオレにもらえ、って。」
「わざと貧乏になって、それでどうしようっていうんです?。」
「分かんないけど。」

悟一の語る話で知り得た事実は少ない。
しかし、悟一を通して、宗蔵の閉塞感のみは僕に伝わっていた。
原因は分からないが、彼は何かしら行き詰まっている。
だとしたら、僕の思惑は彼にも悪くない話になるかもしれない。

「ね、悟一。」

ちょっと改まった僕の声音に呼ばれて、悟一が僕に振り向いた。
昔なら僕を振り仰いだはずの彼の顔がすぐ傍らにあることに
僕は今更ながら微かな動悸を覚えていた。

「宗蔵と梧譲を会わせようと思うんです。」
「?!。」
「それが僕の役割のような気がしてならない。」
「で、でも」
「分かってます。会えと言って会うような宗蔵じゃありませんし。」
「うん。」
「その辺はうまいことやります。
梧譲が宗蔵を迎えに来る。貴方は宗蔵の後押しをしてくれればいい。」
「後押しって」
「そうですね、梧譲は車もしくはバイクでやって来ます。
宗蔵が出渋ったら『乗るのが怖いのか』とか、そんな台詞であおるのはどうでしょう。」
「でも・・。」

「最近偶然、梧譲に再会したんです。それで、彼は宗蔵に会うべきだと思った。
宗蔵も梧譲に会うべきだと、貴方は感じませんか?。」

僕達以外の誰かについてのみ語りつつ、僕と悟一は駅付近まで辿り着いていた。
僕達の目の前は大きな交差点で、横断歩道を渡ればもう駅ビルの入り口だ。
信号は青だったけれど、僕は悟一の答えを待って歩を止めた。
僕と並んで交差点の隅に立ち止まった悟一は、短い間の後に、こくんと大きく頷いた。

「うん。会った方がいいと思う。」

貴方が僕と同じ意見で良かった。
そう言葉で告げる替わりに、僕はただ微笑んだ。
そう。これでいい。
宗蔵と梧譲は再会する。
僕と悟一は再会して、別れる。

「じゃあ、これで。駅はすぐそこですから。
送ってくれて、ありがとう。」

「待って!。」

交差点へと踏み出した僕のコートの袖を、悟一がぎっちりと握っていた。
待ってはいけないと、僕の胸には警告音が鳴り響いた。
袖を掴んだ彼の手を振り払って、「さようなら」と告げればいい。
「また連絡します」とか、いいかげんな別れ文句で微笑めばいい。
なのに、できなかった。
青信号は点滅して赤に変わった。
逃げ場を失ったと、僕はそう感じた。
胸にはただ、誤魔化しようもない動悸だけが存在していた。

別れを別れとして告げなければならないことを、僕は恐れてていた。

「戒ちゃんは、宗蔵と梧譲を会わせる為に来たの?。」
「ええ。」
オレに会う為じゃなくて?。
僕を見上げた大きな瞳が、言外にそう尋ねていた。

「オレには、会うつもり、なかった?。」

見えない手に内臓を握られたようで、僕は身動きすらできなかった。

聞かなくてもいいはずの問いだった。
8年ぶりの再会なのに、僕はふたりについて、そして僕について
何も語らずにまた彼の元を去ろうとした。
それだけで、答えはもう出ていたはずだ。
敢えて確認するまでもない。

一文字にきつく口を結んで僕を見つめた大きな瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。
僕の答えを、悟一はもう知っている。
なのに、彼は問いかけた。

誤魔化しも逃げも、彼の中には存在しない。
長い年月を経た今も、彼は彼のままだった。
真っ直ぐなまま、純粋なまま大人になるのは、
どれほど勇気のいることだろう。

信号待ちの人が徐々に集まり群れをつくる交差点の最前列で
僕達は言葉も無く見つめあっていた。
そして信号がまた青に替わっても、僕は彼の視線を振り切れなかった。

動き出した雑踏の中、春なのに冷たい夜の風に吹かれて
悟一の額にかかる量の多い髪が揺れた。

再会した今、僕は改めて彼に惹かれていた。
8年前の淡い想い以上にはっきりと、彼に惹かれていた。

だからきっと、これは僕への罰なんだろう。

誰よりも幸福になってほしいと願う誰かを傷つける痛みが、
かつての少年を置き去りにした僕への罰なんだろう。

「貴方に会うつもりは、ありませんでした。」

自分の声がどこか遠くから響くように感じた。
それでも僕は、真っ直ぐに悟一を見つめながら、
自分の一語一句を噛み締めるように話し続けた。

「貴方がバイトから戻る時間を、僕は前もって聞いていた。
だから、貴方が戻る前に僕は帰るつもりだった。」
「・・そっか。」
「今日貴方に会うつもりは、ありませんでした。」

そっか、と呟くように繰り返して、悟一は自分の靴先へと視線を落とした。
ちょっと足元が気になって、それで空き缶でも蹴るつもりなんだと
何気無さをよそおった悟一の足先が動いていた。
だけど交差点の舗装路には空き缶も小石すらも落ちていない。

今は貴方が誰よりも愛おしい。
そう言って抱きしめてしまえば。

宗蔵という保護者から、そして見知らぬ彼女から彼を奪って、
世俗的な幸福の温床から彼を連れ出して、二人で逃げ出してしまえばいい。
何が悪い?。
彼もそれを望んでいるかもしれないじゃないか。

「悟一・・。」

もう信号待ちの雑踏の視線も気にならなかった。
僕は殆ど無意識のうちに、俯いた悟一へを手を伸ばしていた。
しかし突然顔を上げた悟一が、僕の腕を止めるように掴んだ。
それも両腕だ。

「分かった。」
「悟一?。」
「いいんだ。戒ちゃんが、それがいいなら。」

僕の両腕を掴んだまま、僕を見上げた悟一がきゅっと口の端を引いた。
大きな瞳はまだ微かに潤んだままなのに、悟一は必死に笑顔を作っていた。

「戒ちゃんがしあわせっていうか、イイ感じなのが、オレも、いいから。」
「悟一」
「引き止めて、ゴメン。」
「悟一、僕は」
「でも、会えて、オレは良かった。すごく。」

違う、と叫ぶには遅過ぎた。
動悸打つ僕の胸に去来する曇った想いは、後悔なのだろうか。
だけど、それで良かったはずだ。
そもそもは、そのつもりだった。
一体今更何を僕は。

交差点では人の群れが動き出していた。
信号が青に変わったんだろう。
僕は「それじゃ」などと口の中で呟くように言い捨てて、
悟一の顔をまともに見ることもなく彼に背を向けた。

通勤コートの背を丸め、足早に歩道を渡る人の群れに紛れる。
一刻も早く愚かな自分の存在を雑踏の中に隠してしまいたかった。
しかしそんな時に限って、知った顔に出くわすものなのだろうか。

交差点の向こう側で、誰かが僕を凝視していた。
信号は青なのに、歩き来ることもなく横断歩道の手前で立ち尽くす若い女性は、
数時間前まで会社のフロアで見ていた顔だ。

「岸?。」

僕に名を呼ばれた同僚は、まるで悪霊に出会ったかのように
びくっと身を震わせて半歩後ろに下がった。
その時僕は気付いた。
彼女の視線は僕と同時に僕の背後の誰かへとも注がれていた。
ある種の確信を抱いて、僕は後ろに振り向いた。
交差点の向こう側では、前と同じ場所で悟一が手を振っていた。
しかし悟一の視線は、僕を通り越して彼女を捉えている。
つまり、そういうことだ。

やあ、偶然だねえキミと僕には同じ知り合いがいたらしい。
そんな無難な挨拶を頭に思い浮かべ、僕は岸へと歩み寄った。
そして僕が白々しい言葉を口にする直前、彼女は身を翻して駆け出した。

「!。」

今出てきただろう駅ビルへと彼女は走り戻っていた。
悟一には会わないつもりだろうか。
それは彼女より先に僕が悟一に会っていたせいだろうか。
ということは、悟一は僕の事を何か彼女に話したのだろうか。

「待って!。」

僕は叫んで彼女の背を追った。

「待って!。待ちなさい!!。岸クン!!。」

ついいつもの癖の命令調で叫びつつ、僕は彼女の背を追って走った。
帰宅ラッシュの駅前、人の流れは駅から出る向きが多勢だ。
逆向きに流れる人の群れは身体の小さい彼女に有利に働く。
不利な分僕は力任せに人混みを掻き分けた。
しかし、彼女は帰りの切符を先に買っていたらしく、
もうすぐで彼女の腕を取れるというところで岸は改札を通過した。
切符も定期もない僕は運を天に任せて改札に突入した。
しかし運とか確率とかの問題ではなく、
至極当然の成行として僕の太腿付近で改札の扉が閉まった。
それでも強行突破を試みて扉に膝蹴りを喰らわしたところで警報が鳴り響いた。

「ハイお客さん。他のお客さんに迷惑だから。下がって。歩ける?。」

どうやら僕は酔っ払いと勘違いされているらしい。
中年の駅員が僕の肩の付け根辺りを捉えて僕を改札から押し戻そうとした。
それでも僕は全力で改札内に踏み留まり、遠ざかる背に叫び続けた。

「待ちなさい!。」

僕の目の先2メートル、ホームへのエスカレーターに乗りかけた岸が振り向いた。
そして僕は言葉を失った。
彼女の表情が、普段のおっとりとした彼女とは全く違う強い感情に衝かれていたせいだ。
つまり、多分、彼女は怒っていたのだと思う。
怒っているにもかかわらず、大きな瞳は哀しみに揺れていた。
そしてそれは今別れてきた誰かの目にとても良く似ていた。

まるでほんとうの酔っ払いみたいに呆けて彼女を見つめながら、
悟一にふさわしいのは僕ではなくて彼女なのだと改めて僕は実感していた。

「岸クン、誤解だ!!。」

言い訳は却下する。
そんな決然とした態度で彼女はエスカレーターへと向き直った。
僕に小さな背を見せ付けて地上2階のホームへと上り切るまで、彼女は二度と振り返らなかった。

いつの間にひとりから3人に増えた駅員に取り囲まれ
僕は改札口に面した壁までずるずると押し下げられて、あとは放置された。
体力よりも気力を使い果たした僕は壁に背をつけながら崩れるようにその場に座り込んだ。
見た目的に僕は完全に酔っ払いだ。
しらふでこんな社会人がいるとは自分でも思い難い。

通路の端に座り込み改札を出入りする人混みを眺めながら
しくじった、と、その想いだけが僕の胸に去来していた。

悟一に出会ってしまったのが最初の間違い。
送ってもらったのが次の間違い。
何気無く別れるどころか口説きそうになったという間違い、
そして極め付けが、岸を追いかけたという過ち。

彼女を追うべきなのは、僕ではなくて悟一だった。
僕が成行きを傍観すれば、悟一が彼女を追ったにちがいない。
それで良かった。
一般的な恋人達とゆーのは、そんな行き違いを繰り返して絆を深めるんだろう。

多少頭が冷えた今思い返してみれば、僕が形相を変えて岸を追う理由などなかった。
僕と吾一は会話していただけだ。
8年も前のささやかな過ちを勝手に負い目に感じていたせいで、
僕はおそらく岸の疑惑を確信へと昇華させてしまった。

(・・。)

起き上がる気力も失せた僕は、改札前の通路に座り込んだまま
ネクタイの襟元を緩めてひとつ大きな溜息を漏らした。

色々と、考え直すのに潮時だった。



- 続 -
     .


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