25



それが悟一だとは思わなかった。


ギャラリーの入り口に立ち尽くす青年は、細身の身体に栗色の短髪。
僕を真っ直ぐに見つめる彼の大きな瞳は、
僕が遠い日に置き捨てた少年にとてもよく似ていた。
だけど、彼のはずがない。
僕が知っている悟一は、高校生といっても中学生に見紛えるほどに幼くて無邪気だった。
頼り甲斐すら感じる目の前の青年とは似ているといっても全く違う。

「悟一」

しかし僕は無意識に彼の名を呟いた。
違う誰かの名を。

「戒ちゃん!。」

青年は懐かしい名で僕を呼んだ。
僕をそう呼んだのは、後にも先にもただひとりだ。
もしかして。

僕に駆け寄る青年の姿が、僕にはスローモーションで見えていた。
その最中、僕の顎下に重い衝撃が直撃した。
間近な位置で放たれたアッパーカットが僕を叩き上げていた。
そう。今の今まで忘れていたが、僕はテーブル越しに宗蔵の襟首を吊り上げている最中だった。
「放せクソ野郎」とかなんとかそんな単語は確かに僕の耳に届いてはいたが、
懐かしい面影を前にして、宗蔵の声は意味もないただの音として僕の頭を素通りしていた。

「吊り上げっぱなしでしたすいません」などと謝る間もなく
実力行使でブン殴られた僕の手は自然に宗蔵から離れ、
離れた以上に身体のバランスを崩したまさにその隙に、
僕に駆け寄った青年は正面から僕に体当たりをかましていた。

「戒ちゃんっ!!。」
「わ!。」

心構えもないままに青年の体当たりを受け止める羽目になった僕は
テーブルの端を片手で押さえ、かろうじて身体を支えた。
しかし片方にのみ比重をかけられたテーブルはもう片方の端を床から浮かせた。
テーブルが今まさにひっくり返ろうというその瞬間、
45度に上がったテーブルの一方を、宗蔵が床へと叩き落とした。

そして、テーブルの端を押さえ損ねた僕は
滑ってギャラリーの堅い床に後頭部を打ちつけ、
僕に向かって猛突進した青年は、倒れた僕に乗りかかったところでようやく動きを止めた。

「戒ちゃん?。」

冷たい床に身体を横たえた僕を跨いだ誰かは、
僕の胃のあたりに座り込み、僕自身懐かしい名を呼んだ。
どうやら転んだ隙に僕の眼鏡は飛んだらしく、
真上から僕を覗き込む誰かの顔はぼんやりとしか確認できなかった。

だけどもう、僕には分かっていた。
彼は本当に悟一なんだろう。
こんなふうに僕に駆け寄ってくれる誰かは彼の他に存在しない。

「悟一。貴方ですね?。」

うん、と呟いた彼の声は喉元で止められた。
泣くのをこらえたような声音に、僕も思わず言葉を失くし、
僕に乗りかかった彼の頬へとただ手を伸ばした。
暖かくなめらかな頬を包み込んだ僕の骨ばった手の上に、
僕より逞しいかもしれない厚みのある手が重ねられた。

こんな再会を、僕は心のどこかで期待しなかっただろうか。

しかし僕達のすぐ傍らからは、
感動の場面に水を差す為と言わんばかりのわざとらしい咳払いが降って湧いた。
そうだった。
今この場所に居るのは僕と悟一だけじゃなかった。

「まるでセントバーナードと馬鹿な飼い主だなお前ら。」
「・・ほっといてくださいよ。今いいところなんだから。」
「起きてやれ起きて。馬鹿共が。」

「それじゃまあ、起きますけど。ね?。悟一。」
「?。」
「すいませんけど降りてもらえますか。僕の上から。」
「あっ!。悪ィ!。」

悟一が降りて身軽になった僕は今度は床にうずくまり「メガネメガネ」などと
冴えない芸人まがいに紛失物を探した。
僕より先にそれを探し当てた悟一が、僕に眼鏡を手渡してくれた。
できれば、失くしたままでいたかったのだけれど。
視界が曇っていたほうが、幾分平静を装いやすい。
だけど探してもらったそれを胸ポケットにしまうのはかえって不自然だ。

僕は手渡された眼鏡をかけなおし、
かけたばかりでズレてもいないそれを中指で押し上げてみたりする。
焦点が合った僕の目の前には、あの青年がいた。
今や幼さを脱ぎ捨てて、立派な青年に成長した悟一が。

「あれ?、戒ちゃん、縮んだ?。」
「いえ。貴方が大きくなったんです。」
「え。」
「立派になりましたね。」
「え。」

「全くいつまでもデカくなりやがって。1年1センチ。
このままいくと貴様、50過ぎたら3メートル超えるぞ。」
「ウソ!。」
「・・嘘ですから。」
「馬鹿者。」
「・・。」

口の悪い麗人は、テーブルの向こう側で新しい煙草に火をつけた。
僕達から顔をそむけて細く紫煙を吐くその姿は、
馬鹿な僕たちがうっとおしくてたまらないと態度で示している。
そんな傍若無人な彼に、僕はひっそり心で感謝した。
もし悟一と二人きりだったら、僕はこの場を持て余したに違いないから。

「なあ、宗蔵と戒ちゃん、何してたの?。」
「何って・・。」

そうだった。僕達は喧嘩の途中だった。
宗蔵が悟一を殴ったとか殴らないとか、
しかし悟一が真っ直ぐな瞳のまま立派に成長しているのだから、
そんなことはもう僕にはどうでも良かった。

「いやその、組み手の方法などを伝授していたというか。」
「戒ちゃん殴られてなかった?。」
「俺が吊るし上げ喰ったんだ馬鹿。」
「ホラ運動不足になりがちじゃないですか芸術家って。」
「大丈夫だった?。」
「ええ。・・って組み手ですから。軽い。」

「それより何だ、今日は早かったなサル。野生の勘か?。」
「え。それは、あの。」

悟一は俯き加減で頭を掻いた。
身体の方が成長しても、嘘がつけないところは昔のままだ。

「今日はちゃんと彼女と話そうと思って。
約束の時間に遅刻すると悪いから。」

『彼女』と口にするとき、悟一はバツが悪そうに上目遣いで僕を見た。
そう。悟一には彼女がいる。
それは既に悟浄に聞いていた。
なのにその単語は小さな棘のように僕の胸に刺し込んだ。

胸の動揺を隠して、僕は悟一を祝福するように微笑んだ。
多分成功したはずの僕のポーカーフェイスだが、
悟一は僕の笑顔を遣り過ごし、真っ直ぐに僕を見た。

昔と変わらない大きな瞳に、胸の底まで見透かされた気分になった。
多分、今が去り時なんだろう。

「それじゃ僕、失礼します。」
「帰るの?、まだいいだろ?。」
「帰ります。貴方も次の用事があるみたいだし。」

そう言ったのは決して嫌味じゃない。
悟一は彼女と別れたと、悟浄はそう言っていた気がする。
しかしどうやらまだ続いているらしい。
しかも宗蔵公認の気配だ。
僕が割って入るような真似だけはどうあっても避けなければならなかった。

僕は誰よりも悟一の幸福を願っている。
過去もそうであったように、これからもずっと。
何が嘘でもそれだけは本当だ。

「失礼します。」

悟一の視線を避けるように、僕は美麗な保護者サマに一礼してふたりに背を向けた。
しかし歩き出した僕の背を悟一の足音が追い、僕がギャラリーから出る前に
横に並んだ悟一が僕の腕をつかまえた。

「送ってく。駅まで。」
「でも」
「大丈夫。約束したの8時だから。
戒ちゃん駅まで送って戻ってきてもまだ時間あるし。」
「でも。」

「宗蔵!、戒ちゃん駅まで送ってくる。」
「好きにしろ。」

そこは止めてくれるべきところでしょう。
言葉にしない想いを秘めて恨めしげに振り向いた僕に、
宗蔵は遠くから細く紫煙を吐いて見せた。
勝手にいなくなった落とし前をつけやがれ、という事らしい。

「あ。そうだ。」
「行くなら早く行け。」
「宗蔵、メシ食った?。」

何気無い悟一の問いかけに、宗蔵が一瞬固まった。
普通なら見逃す程の一瞬の間だが、その間が僕には大きな違和感として感じられた。

「食った。約束は守る。」
「ん。」
「さっさと行け。」
「うん。」

悟一に背を押されて歩き出しながら、僕はほんの少し宗蔵から視線を振り切るのが遅れた。
だから僕達はお互いが気付いてしまった。
メシを食う、という約束を本当は宗蔵は破っている事、
その事実に僕が勘付いてしまったという事。

具合の悪さを誤魔化して曖昧に笑った僕を宗蔵は斜視気味に睨み、
僕の背を押す悟一が見ていない事を知った上でビシッと中指を立てた。

(・・。)

ほっとけクソ野郎。
言いたい事はつまり、そんなとこだろう。


「行こうぜ、戒ちゃん。」

ご機嫌な悟一に背を押され、僕達は陽も暮れた街路へと踏み出した。


- 続 -
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