24



輪郭だけの街並、単色の陰影、歪曲された建造物。
フェイクなのにもかかわらず緻密に描写される蟲の楼閣。
描き手の内面を表出する狂った風景には色が無い。
世界が色を失った日を俺は覚えている。
俺を抱いた腕と共に、世界が凍り付いてゆく永劫とも思える瞬間。

不運な偶然かと思われた事件はしかし、仕組まれていた。

闇色の羽を撒き散らしながら一羽の烏が地上に舞い降りた。
そして或る日、烏は己と対極の輝きにまみえる。
遥か過去、おそらく俺がこの世に生を受ける以前。
そこから全てが始まった。
一連の出来事は見えない糸で繋がっている。
烏が紡いだ思惑の黒い糸、もとい、意図。


ギャラリーの机に頬杖をつきながら、俺はつい意味の薄い想いを廻らしていた。
興信所、大学付属図書館と回って自宅に戻ったのが昼過ぎの夕方前。
それからはギャラリー隅の接客用長椅子に座ったきりだ。
机の上には淹れただけで口もつけないまま冷めたコーヒーのカップと
例の『身上調査書』。

3日後には新たな調査書が手に入る。
それからの行動予定を俺は脳裏にぼんやりと思い描く。
自分の足で、全ての裏を取るつもりだった。

先ずは黄恵の前の男の事故現場に赴く。
俺は刑事でもないわけで、新事実を暴露できるとも思えないが、
手順として自分の目で一通り確認する。
その後、過去の事件当時の担当刑事に会う。
興信所の調査で居場所が知れた場合、かつ存命中の場合に限られるわけだが。
当時30代〜40代と仮定して現在50代〜60代。
やたら遠くに転居でもしていない限り、会えないことはないように思える。
そしてその後、実行犯に会う。
服役中なら面会を求めるし、仮釈放後で居場所が分かるなら出向く。
このへんは興信所の調査結果にかかっている。
3日と限定した期日の中でどこまで調べが付くだろう、とりあえずは職員の健闘を祈る。
そして最後。大学という権威の虚塔に巣を構えた黒い烏に再度まみえる。

仁井は俺に何かを語るだろう。
その時にはクソ野郎の言明が真実か否かを見極める多少の材料を俺は手にしているはずだ。
その為に全ての調書の裏を俺自身が取る。

可能な限り前準備を整え、再度烏と対峙して、俺は何かを知る。

そしてそれからどうするのか。

俺の中で何かが変わるのだろうか。
俺の目に映る世界が変わるのだろうか。
それとも単に俺が烏を殺す、それだけだろうか。
それ以前に俺は、前準備の段階で実行犯をも手にかけるのだろうか。

街路とギャラリーを区切るガラス越しの夕闇を背景に
口の端にくわえた煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼっては霧散する。
煙の白を際出させる程に外の陽は暮れたらしい。

結果を考える事は無駄だと、そんな気がした。

俺が動いたら何やらしでかすだろうという予感はあった。
しかし俺は動く事を選択した。
今更思い留まるくらいなら初めから動かない。
問題はむしろ、どう動くかだ。

車の免許を取っていればと、俺は今更な事を思い立つ。
前準備の段階であちこち動き回る予定だが、俺にはその為の足が無かった。
路線を調べて電車を乗り降りするのには今日一日でうんざりだ。
それに移動に何時間も費やして前準備に何日もかけるようでは
興信所に調査を急がせた甲斐が無い。

大いなる計画の前に足元を確保するのが先決だった。
今更の瑣末な問題に俺は孤独に頭を抱えた。
そんな俺の耳に、カランと涼しげな音が届いた。

(・・。)

ガチガチと鈴自体が扉にブチ当たるいつもの音ではなくて、
カランと鳴る本来の鈴の音だ。
ギャラリー扉のドア上に留められた鈴をそういう風に鳴らす人間は限られている。
悟一の彼女がそこに居るつもりで、俺は抱えた頭を上げた。

しかし、看板も無く店が店とも分からないこの場所に入り込んだのは
悟一の彼女とは似ても似つかないサラリーマンだった。

通勤カバンを片手に下げて、スーツの上には通勤コート。
見るからに会社勤めでありそれ以外ではあり得ないという風体の男がひとり、
壁に掲げられた数枚の絵を眺めつつ、入り口から奥へとゆっくり移動していた。

ギャラリー奥で壁に背を向けて座った俺の対面の壁の絵を男は眺めている。
だから俺には男の背と後頭部しか確認できない。
しかし、黒い短髪の形状とちょっと寝癖の後ろ髪は俺の旧い記憶を刺激した。
旧いと言ってもガキの頃まで遡るわけじゃない。
数年前。
数年前まで、俺はこんな男を知っていたような気がする。

入り口から最奥まで、俺の対面の壁に掛かる5枚の絵を最後まで眺め来た男は
今は俺の正面に背を向けて佇んでいる。
俺の記憶に残る誰か。
果たして誰だったか。

「どれもこれも小綺麗な風景ですね。
営業用かな。戦略的には正解でしょうけど。」

振り向きさまに投げ付けられた皮肉は、
男の目鼻立ちよりも強烈に俺の旧い記憶を呼び起こした。
・・戒爾。

「営業的な戦略を考えるなら、先に看板を置き外灯を付ける。そう思わんか。」
「確かにね。だけどそれなら貴方は何も考えてないことになる。」
「降って湧いた男に店の戦略をとやかく言われる筋合いはねーな。」
「正論です。」

俺の皮肉返しに、ヤツは誉められたかのようなソツのない笑顔で応えた。
元々の喰えない男は、数年の月日を経て
喰えなさ加減を益々一層グレードアップさせていた。

「ちょっとお邪魔してもいいですか。あんまし忙しそうでもないし。」

戒爾は俺対面の椅子を引き、座れと言う気もなかった俺の前に強引に腰を下ろした。

「コーヒーとか、出ないもんですかね。」

俺は俺の前にあった冷めたカップを手に取り、戒爾の前にガツンと置き直した。
扱いの粗さ故にカップの中の液体は大きく揺れて、机上に数滴の飛沫を散らした。

「ええと。」
「安心しろ。口はつけてない。」
「アイスコーヒーですか?。」
「アイスになったヤツだ。」
「・・。」

お互いの意図が読めないままに俺と戒爾は睨み合った。
俺から視線を逸らすことなく戒爾は冷めたカップを手に取ると、一口流し込んだ。

「どうだ。味は。」
「感想は、控えます。」
「そうか。」

戒爾は俺に視線を据えたまま、マズいと分かっているコーヒーに2度3度と口を運んだ。
美味くもないものを人が繰り返し口にするのは大抵、何かを言い淀んでいる時だ。
今更何故戒爾は俺の前に立ち現れたのか。
理由があるはずだった。
気分で出向いて来たとも思えない。

「仕事先で最近偶然知り合った人間に、貴方の居場所を聞きましてね。」
「誰。」
「誰か知りたいですか。」

駆け引きめいた言葉遊びにはうんざりだった。
俺は無言で戒爾を睨み付けた。
戒爾はおどけるように大袈裟に俺の視線を逸らした。
戒爾は態度のみで「知り合い」が誰なのかを告げていた。

俺も戒爾も、言葉が言葉になる前に多くの事を知り過ぎてしまう。
それはある意味不都合極まり無い。
特に、相手がそういうタイプの人間だとお互いが知り得ている場合には。

「高層マンションから一軒家に越したとは驚きだ。『堕ちた天使』なんてね。
天使が人間に恋して地に堕ちる、そんな話があったような無かったような。
それにしても展示品はどれも猫カブった絵ばかりですね。」
「貴様はそういう猫カブったのが好きだったろう。」
「それは貴方の実力を知る前の話です。他にも、描いてるんでしょう?。」
「描いてるさ。」

俺は鼻先の嗤いと共に続き間の作業場を視線で指した。
半分ほど開かれたドアの隙間からは、
イーゼルに乗った描きかけのキャンバスが垣間見れる。
想像上の異国でオランウータンがカプチーノをたしなんでいうという、例のアレだ。

「どうだ。俺の新作は。」
「・・。」
「どうだと感想を聞いている。」

「どうかしちゃったんですか貴方。」

戒爾の小さな声は、半泣きで裏返っていた。
ミスター・ポーカーフェイスにこんな場面で素になられても俺の立つ瀬が無いのだが。

「最近何やってるんです?。」

ちょっと人殺しを計画中だと言うのもどうかと思う。
回答のない俺に見切りをつけて自ら手掛かりを探すつもりか、
戒爾は机上に置き捨てられていた『身上調査書』を手に取った。
その時、俺の頭にこの闖入者の利用法が閃いた。

「ホントに何やってるんです貴方。」
「戒爾、貴様は現在教職かそれとも会社員か。」
「後者です。」
「会社の人間ってのは、移動に専用車を使ったりするか。」
「・・重役なら?。」
「そういうのを一台手配できないか。
勿論貴様の会社のでなくてもいい。手配先だけ知りたい。」
「何始めるつもりです?。」
「観光地なら一日貸切のタクシーがあるが、あの程度で構わない。」
「貴方一体・・。」

不審気に顰められた眼鏡越しの眼差しが、詳細を語れと俺に促していた。
俺は戒爾と同じように、否、ヤツよりもヤヤ大袈裟に目を顰め、
この件に関しては何も語るつもりはないと告げた。

「残念だけど」

協力できない、そう言いかけたに違いない戒爾の瞳にふと一瞬だけ強い光が宿った。

「一日貸切になればいいんですね。」
「ああ。」
「いつですか。」
「4日後。」
3日後には調査報告が出る。郵送で届かなければFAXさせる。
その翌日が望ましい。

「分かりました。僕が手配します。」
「即答か?。」
「その辺は僕の専門ですから。ここまで車を迎えに回します。希望の時間は。」
「午前10時。」
「承りました。」

車の手配が専門の業種なんてのがあるんだろうか。
俺の目の前の男は運送会社の受付担当にも見えないが。

「ああもうこんな時間だ帰らないと。」
「はあ?。」

大根役者まがいの棒読みで戒爾は退場の弁を述べた。
椅子の脇に置いた通勤カバンを取り上げるとそそくさと腰を上げる。
来た時と同様に一方的に帰る気らしい。

「そうはいかねえな。」

相手を威嚇する気も充分に、俺はゆっくりと重い腰を上げた。

「貴様がこの場所に来たからには、もうひとり会うべき人間がいる。違うか。」

違うともそうだとも答えずに、戒爾はただきつく口を結んだ。
無言で俺を見据えた真摯な瞳は、今までの皮肉めいた視線とも違う。
ヤツはおそらく俺の告げた言葉の意味を俺以上に理解している。
悟一に会う気がないのなら、何故この場所に足を運んだのか。
俺の無言の問いかけをかわすように、戒爾は自分の腕時計に視線を落とした。

「現在午後6時45分。僕がここに訪れたのが6時半。予定通りなんです。」
「何の話だ。」
「彼が戻るのは午後8時。そうでしょう?。」

悟一という固有名詞を怖れるように、ヤツはサルを『彼』と三人称で呼んだ。

「僕は彼に会うわけにはいかない。」
「何故。」
「今頃になって僕が彼に存在を示す必要は無い。」
「必要があるかどーか貴様が決める事じゃねーな。」
「それに僕は今更彼に会わせる顔が無い。」
「そりゃ貴様の一方的な都合だ。」
「その通りです。」

ふてぶてしいとも取れる言葉を、ヤツは至上に真摯な声音で述べた。

「僕は僕の一方的な思惑で、彼に会えないんです。」
「そんなクソのよーな弁明は認めん。」
「帰ります。」

「帰さねえと俺が言ってんだよ!。」

ギャラリー奥の机を挟んで向かい立つ俺と戒爾の間に緊迫した気が満ちた。
無言で睨み合いながら、俺達はゴング前の格闘家のように互いの力量を推し測っていた。

「何故貴方がそこまでするんです。」
「貴様は一方的に去られた側の気分を思ってみたことがあるか。」
「貴方はあるんですか。」
「聞いたのは俺だ。」
「おかしな質問だな。貴方自身が過去にひとり置き去りにしたのを僕は知っている。」
「貴様!。」
「僕に勝てると思いますか?。そう言えば以前、僕達は手合わせしてますね。貴方のマンションで。
あの時僕は油断していた。だけど今は違う。どうします?。
僕としては傷害沙汰は避けたいところだけど。」

言われてみれば確かにそんな事があった。
そういえば戒爾は柔術のような技を身につけていた。
しかし技以前に、喧嘩にはもっとシンプルな原理が存在する。
より怒っている方が勝つ。
戒爾は身を引こうとしている。俺は怒っている。
勝つのは俺だ。
間違いない。

「全く負ける気がしねーな。」
「・・貴方いつから武闘派になったんです。」
「さあな。だがそう言えば最近もひとり殴ったか。」
「誰。」
「まあ、家の人間だ。」

「悟一ですか?!。」

さっきまでは三人称で語ったくせに、今更戒爾はサルの名を裏返った大声で呼んだ。

「悟一を殴ったんですか?!。」

突然爆発するヒステリー女まがいに戒爾が俺に詰め寄った。
詰め寄ったついでに戒爾は俺の襟首を掴んでいた。
そういう開戦を全然全く予期しなかった俺は、
戒爾に喉元を押され、一歩下がった際に膝の裏を椅子に打ち、
長椅子へと座り戻される羽目になった。
それでも戒爾は俺の襟首を掴んだ手を離さず、
机に片膝を乗せて座った俺に詰め寄った。

「悟一を殴ったんですか?!。」
「離せ!。」
「どういう教育してるんです貴方!!。」
「手を離せ!!。」」

その時だった。
扉の鈴がガチガチと鳴った。
カランと涼しげな音色ではなく、鈴自体がドアにブチ当てられるいつものあの音だ。
誰がやってきたのか見るまでもなく明白だ。
俺は戒爾に襟首を掴まれたまま、壁の時計で時間を確認した。
午後6時50分。
今日に限って一時間以上早く戻るとは、サルならではの野生の勘だろうか。
いずれにしても、結果オーライだ。


「悟一・・。」
「・・戒ちゃん?!。」

感動の再会・・なんだろうか。

悟一はギャラリー入り口から一歩踏み込んだ位置に立ち尽くし、
戒爾は接客用の机に片膝を乗せ対面の俺の襟首を掴んだ姿勢のまま振り向き、
二人は時が止まったかのように見つめ合っていた。


クソ共が。

時が止まる前に襟首の手を離してもらえなかった俺だけが災難だ。



- 続 -
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