23



不慣れな電車で揉まれること数十分、その後徒歩20分。
俺は仁井の身上調査書に記された都心の興信所を訪れた。
対応に出た聞き取り担当者に調査依頼の概要を述べ、
2週間という調査期間の見積もりを、金の力で3日に短縮させた。

1、黄絵の前の男の死因。
2、過去の強盗殺人事件担当刑事の所在。
3、強盗殺人実行犯のその後。

これらの調査項目はどれも隠匿された事実ではない。
男の死因は当時の新聞にでも載っただろうし、
旧い強盗殺人事件の担当刑事、実行犯の所在も調べれば分かる事だ。
まあ俺自身が調べるとしたら、先ずは所轄の警察に赴いて
その情報次第であとはどう動けばいいのか、見当がついているわけでもないが。

とにかく「3日以内で判明した範囲で報告書を送れ」と押し通した。
担当は渋い顔を見せたが、商売的に悪くない条件に結局は折れた。
「3日以内」にこだわった理由は、特に無い。
敢えて言うなら俺は3日程度しか待てないという事だ。

調査依頼に要した時間は約20分。
その後、俺は再度電車に揺られていた。しかし来た路線とは違う。

仁井が現在助教授職を勤めるという大学へと、赴いてみるつもりだった。

調査に手をつけたばかりの今の段階でいきなりクソ野郎に対峙するつもりはない。
しかし真っ直ぐ自宅に戻って描きかけの『パリ絵』を続ける気分にもなれない。
一種の逃避として、俺はヤツのフィールドに乗り込む事を思い付いたわけだ。

クソ野郎の勤める大学は、東京と埼玉との県境付近に所在していた。
電車に軽く全身を揺すられながらの移動時間、
俺は頭で仁井が世田谷の屋敷に入り込むまでの経緯を辿り直していた。


俺が関西で産まれた当時、あの屋敷には観世が住んでいた。
親父と俺、そして観世の妹である母親が関西から都内へ越すことが決まり、
観世は屋敷を妹夫妻に空け渡した。
しかし転居後、母親の健康状態は一層悪化し、入院生活を余儀なくされる。
結果あの屋敷に残ったのは親父と赤子の俺、そして住み込みの乳母兼お手伝いの女が数人。

それから3年後、乳母の必要性も薄れた俺を連れて親父は屋敷を出た。
俺達は豪邸からもそう遠くない手狭な一軒家に越した。
そして2度目の引越しから約半年後、母親の仮退院許可が下りたその日に事件は起きた。
親父と母親は殺され、俺は天涯孤独となったわけだ。

俺は中学まで観世の元で暮らし、その後は親の遺産で買ったマンションに越した。
あの屋敷に戻る事も勧められたが、一人暮らしに大邸宅はかえって不便に思えた。
ただ空けておくのもなんだからと、そんな理由で観世は屋敷に男友達を住まわせた。
観世自身は気楽なマンション暮らしを続けていたから、
監視する者もいない大邸宅はじきに公共アパートのような事になった。

そして。
とある時期の住人である観世の前夫が別の女を連れ込んだ。
本来なら男もろとも叩き出すところだろうが、観世は単に面白がった。
当時も今も観世自身は女優業で寝る暇も惜しむ程忙しいわけだから、
正直なところ邸宅も男も女もどうでも良かったのかもしれない。

そんなデタラメに乗じてあの屋敷に住み込むことになった女がつまり、黄恵。
そしてその後黄恵を連れ込んだ男が死んだ。
酔って駅のプラットホームから転落したところを電車に轢かれたという話だ。
胡散臭い事件の詳細については、ついさっき調査依頼を出した。
男が死んでも黄恵はあの家を出ず、観世もまた彼女を追い出そうとはしなかった。
連れ合いを亡くした彼女に観世は同情したのか、それともただどうでも良かったのか。
男が死んだ翌年、女は新しい男を邸宅に連れ込み、同棲を始めた。
それが、仁井。

偶然だろうか。

とてもそうとは思えない。

むしろ仁井が一連の出来事を裏から操ったと見做す方が説明が付く。

調査を待たずして俺の胸には一連の仮説がおぼろげな輪郭を取り始めていた。
しかし唯一、どうしても釈然としない点がある。
動機だ。

極論として、仁井が親父を殺し屋敷を乗っ取ろうと目論んだとする。
しかし何故。
仁井は屋敷を買うと観世に申し出ている。
財産目当てはあり得ない。
ならば、何の為に。

釈然としないままの俺を乗せ電車は目的の駅へと辿り着いた。
それらしき年齢の男女の群れに混じり歩を進めれば、導かれるように大学へと到着した。
具体的にキャンパスのどこへと行く宛てもない俺は
通りすがりの学生を呼び止めて図書館の場所を聞き出した。

本校の学生でもない上に卒業生でもない俺だが、
誰に非難されることもなく図書館に潜り込めた。
受付には読書中の司書が一人。50代に見える痩せこけた女。
果たして学生証の提示は求められるだろうか。まあその時はその時だ。

「本を探しているんだが。」
「ISBNコードもしくはタイトルはお分かりですか。」
「筆者名しか分からん。」
「結構です。どうぞ。」

俺は親父のフルネームと、クソ野郎のフルネームを述べた。
司書の女は検索用の端末に一旦手を伸ばしたが、結局キーボードを叩くことなく腰を上げた。

「宗教哲学と行動心理の専門書ですね。こちらです。」

館内蔵書の全てが彼女の頭に入っているのだろうか。恐ろしい事だ。
それはどうでもいいが、とにかく俺は書架で彼女が指し示す数冊の本を手に取ることができた。
彼女にありきたりの礼を述べた後は、窓際の空席を探して腰を下ろした。

図書館窓際の自習席で改めて見直した本のタイトルは、
どれもがうんざりするようなものばかりだった。
『比較宗教文化論』
『大乗仏教から上座部仏教へ 変遷の史実』
『群集心理の力学と集合理論』
『無意識という志向性』

(・・。)

著作物には書いた者の心理が表出するだろうかと俺は考えたわけだ。
しかしこんな専門書では執筆当時の著者の心情など測りようもない。
おまけに俺自身に全く読む気がおきない。

他人に頼んでまで探し出した書物は結局机上に置き捨てたまま、
俺は頬杖を付き、窓外の風景へと視線を投げ出した。
ここ大学付属の図書館は大学敷地内別館のひとつであり、
窓からはテナントビルまがに背の高い本館ビルが窺える。

広い空と遠くの小高い丘を背景に、間近にそそり立つ鉄骨の建造物。
本館の奥には用途の知れない同様の別館が連なっている。
アングルとしては、悪くない。
俺は無意識のうちに、目に映る光景のアウトラインを頭の中のキャンバスに刻み付けていた。
多分俺は描きたいのだろう。
そういう欲求が一体どこから湧いてくるのか、俺自身にも不明だが。
しかし作業部屋に戻ったところで、
今俺が描くべきなのは例の『パリ絵』だった。

(クソったれ。)

意味の薄い呟きと共に俺は腰を上げた。
分厚い本を自らの手で書架に戻したあとは、早足で屋外へ出た。

県境まで何の為出向いて来たのか、全くもって分からない。


「オイ!、キミ!。」

俺の後に図書館から出た誰かが背後から俺を呼んだような気がした。
しかしここは俺とは無関係の場所だ。俺を知る人間がいるはずもない。
その辺にたむろする学生の誰かが呼ばれたんだろう。

「キミ!。玄奘クン!。」

佐藤や加藤や山田じゃなくて俺と同じ姓が叫ばれた。
「玄奘」とはそんなによくある名前でもないことからすると俺自身が指名されたようだ。
そう言えば、俺を知る人間がこの大学に一人は存在するわけだ。
しくじったと、そんな気がしないでもない。

「ああ。やっぱりキミだ。」

振り向いた俺に、背後から中年男が駆け寄ってはその目を細めた。
元々細い男の目は黒縁眼鏡の奥でただの線となり、男の感情の全てを遮蔽した。
一見疲れた中年男性に見えるその男は、黒いシャツに原色のネクタイ。
その上に何故かよれた白衣を着込んでいる。
ヤツだ。

俺の中でクソ野郎のイメージは喪服のそれとして定着していた。
しかし身に纏う布の色が黒から白に変わったところで
存在自体の基調が変わるわけじゃない。
くわえ煙草で俺に歩み寄る白衣の中年の姿の上に
俺はバサリと黒い翼を広げて降り立った烏を重ねて見ていた。

「ボクに会いに来てくれたのかな?。光栄だね。」
「・・貴様は何故俺を知っている。」
後姿だけで俺だと判別できる程に。

それとも俺は、以前からこの男の視界に捉えられていたのだろうか。
約1時間前、大学付属の図書館に踏み込んだ時からか、
それとも、遥か過去か。

「後姿から後光が差していた、とでも言おうか。
しかしキミ、仏教で言う後光とキリスト教の光輪とは同義だろうかね。どう思う?。」
「知るか。」
「そうか。キミは違うタイプらしい。いろんな意味で。」

白衣のポケットに突っ込まれた男の手が、不意に俺へと差し出された。
切るのが面倒で伸び過ぎた俺の髪先を、中年男の指が軽やかに梳いた。
俺は無言でその手を叩きのけた。
何が可笑しいのか、クソ野郎は喉元だけでクスクスと嗤った。

「昔、そんなふうに色の抜けた髪の知人がいてね。」
「・・親父か。」
「その知人が妻として娶った女には旧い時代の宣教師の血が流れていたそうだ。
だとすればキミはクォーター以下のハズだが。見た目はほとんどハーフだな。
それにその不寛容な眼差しは母親譲りかい?。ボクは彼の奥方に会わず終いだった。」

俺に母親の記憶は薄い。
産後すぐに入院生活に入った母親は、
俺にとって『月に一度程度会うひと』でしかなかった。
だがそれを目の前の中年に話してやる筋合いもない。
俺は無言のまま、ヤツが称するところの『不寛容な眼差し』で、余計なお世話だと告げた。

「まあ立ち話もなんだ。近くに実験棟がある。案内しよう。」
「貴様の昔話を聞きに来たわけじゃない。」
「そうなのか?。しかしボクの講義を聞きに来たわけでもないだろう?。」
「専攻は心理学。違うか。」
身上調査書ではそういう事になっていた。

佛教大を出たにもかかわらず、大学院は心理哲学専攻で受験した。
しかし仏教であれ心理哲学であれ、どちらも白衣と実験室にはそぐわない。

「ふうん。ボクの事を調べたのか。
しかしそれならボクに直接聞く方が早いと思わないかい。」
「真実を語るだけの誠意が貴様にあるならな。」

俺の率直な意見に、中年男は一瞬だけ細い目を僅かに見開き、
それからはまたしても喉元だけで嗤った。

「全くキミは面白い。
何かしら確証を得るまでは穏便な態度を貫くのが普通だろう?。」
「なら俺は確証とやらを得ているのかもしれん。そう思わんか。」
「もしそうなら図書館でボクの著作を手に取ったりしないさ。」
「ところで一応聞いておく。『確証』とは一体何の『確証』だ。」

中年男は大袈裟に白衣の肩をすくめてみせた。

「答えはキミの胸に聞いてくれ。
ボクがその程度の誘導尋問で落ちるとはキミも考えていないだろうしね。」

まあ、その通りだ。

「なんなら昔話じゃなくて特別講義でもかまわないが。
覚えておきたまえ、ボクの専攻は行動心理学だ。調査が不十分だったな。
過去だの無意識だの抑圧された性欲だのに行動の根拠を見る従来の心理学とは一線を画している。
要は大衆をモルモットと仮定することだ。そうすれば実験と結果で自ずから法則が生まれる。
どう、実に合理的だろう?。」

クソ野郎にふさわしい腐った見解だ。
講義を拝聴してクソがクソだと再認識するのに時間を費やしている場合でもない。

「悪いが全く興味がない。」
「それは残念だな。」
「貴様にはいずれまた会う。今日のところは失礼する。」

返事は待たず、俺は白衣の烏に背を向けて歩き出した。
薄手のコート越し、俺の背中にはクソ野郎の粘った視線がいつまでも張り付いていた。

俺はコートのポケットから煙草を取り出し、片手で風を遮りながら
くわえた煙草の先に火をつけた。
減煙の誓いも半日と保たず終わるらしい。

慣れた煙を肺の奥まで吸い込み、吐き出した俺の背に
烏が一声大きく鳴いた。

「次は直接研究室に来るといい。専門棟の6階だ。楽しみにしているよ!。」


- 続 -
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