22



陽炎に揺れる春の午後、枯葉の散る秋、粉雪が舞う冬の日
あらゆる景色と季節の中で、俺は懐かしいぬくもりに抱かれている。
背に回された腕の逞しさと俺自身の華奢過ぎる身体の対比から、
俺はまだ小さなガキなのだと知る。

いつのも夢だ。

夢だと気付いた途端、強く俺を抱いた腕と俺が顔を埋めた誰かの胸は徐々に体温を失っていく。
少しづつ、しかし確実に冷たくなる腕に抱かれて、俺はただ硬直している。
俺を抱いた誰かは、この世界に俺をひとり残して逝こうとしている。
俺と共に世界が硬直し、色を失い、音を失っていく。
それは永劫とも思えた果てしない時間。

夢を夢だと知る現在の俺が、頭の中で
永劫は実際のところ半日そこらだと茶々を入れる。

背後から背中を複数回刺された親父は
ガキの俺を守るようにきつく抱きしめたまま息絶えた。
開けっ放しの玄関を妙に思った隣人が中を覗き込み異変に気付いたのが翌日の昼。
ガキの俺には親父の死体から引き離された記憶が無い。
後で聞いた話だが、発見当時俺は何も話さず反応も示さない痴呆めいた状態で
即座に病院送りとなった。しかし検査の結果特に外傷は見受けられず、
一時的なショック状態だろうという事で、翌日には観世のババアに引き渡された。

だから、この夢に終わりは無い。

何度も繰り返される夢の中で、俺は世界が色褪せ、凍え、硬直してゆく様を追体験する。

もはやガキではない冷めた意識が「くだらねえ」と愚痴を漏らす。
だが夢の中の俺は夢から醒める方法を知らず、凍りつく時の前に立ち尽くしている。
夢から逃れる方法は唯一つ。目を醒ませばいい。

だが、醒めた世界もまた同様に凍り付いているのなら。


「もしかして、寝てる?。」

緊張感の失せた明るい声音と共に、
目蓋越しの視界に明かりが差し込んだ。
俺の顔の上に乗って光を遮っていた紙束が、声の主によって取り除かれていた。

「寝てない。」
「寝てたじゃん。」
「寝・て・な・い。」

半開きの視界には眩しすぎる光は、室内灯のみならず外界のそれだ。
ということはもう朝か。
俺はギャラリーの長椅子で一晩過ごしたらしい。
夕べは確かクソ野郎の身上調査書を読んでいた。
読み終えた後、思考を整理するために横になったまでは覚えている。
そこで記憶が途切れているということは、やはり寝ていたんだろうか。

「ちゃんとベッドで寝なよ。風邪ひくよ。」

この思考の冴えなさ加減はやはり寝起きらしい。
ということはやはり紛れも無く俺は寝ていたんだろう。
なんとなくうんざりした気分で長椅子の上に身を起こし、髪を掻き上げた俺の目の前で、
悟一が俺の顔の上から取り上げた紙束を広げていた。

「何コレ。仁井って誰。」
「お前に関係無い。」
「ちぇ。秘密?。」
「・・関係無いわけでもないか。」
「?。」

そもそもが何故俺がクソ野郎の身上を調査する羽目になったのかと言えば
ヤツが世田谷の家を売れと観世に言ったせいであり、
その豪邸は観世が悟一に譲る予定の物件だった。

「世田谷のバカでかい家を覚えてるか。」
「え?。」
「お前が最初に引き取られた家だ。」
「・・うん。」
「あの家を観世がお前に譲るらしい。」
「『譲る』って?。」
「『ヤル』って意味だ。」
「いらないよ!。」
「『ヤル』っつーんだから『そうですか』と貰っとけばイイ。」
「いらない!。絶対!!。」

悟一が家を欲しがるとも思わなかったが、叫ぶほど欲しくないというのも心外だった。
言葉で理由を問う替わりに、その大きな瞳を覗き込んだ俺の前で
悟一はバツが悪そうに頭を掻いてみせた。

「あの家、デカ過ぎてなんか不気味だし。」

確かにデカイはデカイ。しかし、不気味だろうか。

「あそこで俺、邪魔者だったし。」

・・成程。

「そりゃ黄恵のオバちゃんは俺とは他人だし、だから俺邪魔者で当然なんだけどでも」
「いらないならイイさ。売り飛ばして現金だけもらっとけ。」
「いらないって!。」
「名義上の母親がくれるっつーんだ、もらっとけ。邪魔になるもんでもねーだろ。」
「そしたらそれ宗蔵にやるよ!。」
「あん?。」
「そしたら宗蔵も好きな絵ばっか描けるだろ!。」
「・・野郎。」

俺はおもむろに立ち上がり、悟一のシャツの襟首あたりをひっつかんだ。
失言を失言とも思わない悟一は何が何だか分からないままに「うわわ」などと呟き、
俺が掴んだシャツに喉元を引かれて2、3歩前につんのめった。

「貴様に心配される筋合いは無いと前にも言っただろーが!!。」

迂闊にも寝起きに叫んだ俺は、自分の大声で軽い貧血を起こし足元がフラついた。
しかしここで倒れては、怒鳴りつけて叫んだ手前、不様過ぎる。
倒れるのだけは気力でなんとか持ちこらえたが、その際に
悟一の襟首を吊り上げたハズの右手で逆に己の身体を支えてしまっていた。
不本意だ。
甚だしく不本意だ。
不本意極まりない俺の鼻の先すぐで、悟一は何故かムズカシイ顔で俺を覗き込んでいた。

眉間に皺を寄せたヤツらしくもない神妙な面持ちで、悟一は俺の額にかかる髪をはらった。
不意を衝かれてその手を振り払うのが遅れた俺の額に、悟一はガツンと自分の額を押し付けた。

「・・どーゆー技だコレは。」
「顔色悪いから。熱あるんじゃないかと思って。」
「熱はない。もしあってもほっとけ。」
「夕べ、メシ食った?。」

言われてみれば忘れた気がする。
しかしそれより何よりも、何故俺たちはべったり額をくっつけたまま会話しているのか。

「は・な・れ・ろ!。」

そういえば引き寄せたのは俺の方だが。

「マジ顔色悪いって。」
「今まで俺の顔色が良かったためしがあるか。」
「ない。」
「だろーが。」
「でもなんか。痩せたみたいってゆーかやつれたみたいってゆーか」
「俺より手前の心配しとけバカ。あれから彼女に会ったのか。」

「や、約束してたんだよ昨日。だけど彼女が急な残業で」

どうやら別れ話は未だ切り出されないままらしい。
結局いつまでも言えないんじゃないだろーか。
それでもまあ、悪くないのかもしれない。
サルの相手にしたらあの彼女は上出来過ぎる程だ。

「コワい課長がいて抜けられなかったって。でも今晩会うことになってるし。」
「また残業だろ。」
「今日は課長早く帰るんだって。」

別れる別れないの一大討議も彼女の会社の上司次第などという腰の引け具合からして
話し合いの結果は既に見えている。
・・などと俺が考えてやる必要もないか。

「まあいい。学校行くんだろ、さっさと行け。それともバイトか?。」
「ヤベ!。遅れる!。」

壁時計に一瞬視線を流すと、学校なのかバイトなのかをはっきりさせる前に悟一は駆け出した。
ギャラリーの扉は不必要なまでの勢いで叩き開けられ、
本来はチリンと涼しげに鳴る筈の鈴がガチガチと堅い音を上げた。

遠くない将来あの鈴は悟一によって破壊されるだろう。
そんなどうでもいい事を想いつつ、俺は煙草に火をつけた。
慣れた煙を肺の奥まで吸い込みながら、頭の中で本日の行動予定を組む。
普段と違って、今日は忙しくなる。


先ずは観世が仁井の身上を調べさせた興信所に追加調査を依頼する。
調査項目は4つ。
1、仁井の前に世田谷の家に住み着いた男の死因と事故の詳細。
2、過去の強盗殺人事件の担当刑事の所在。
3、強盗殺人実行犯のその後。
実行犯に下った判決は無期懲役。しかし日本で言う無期懲役は実質懲役20年以下。
現在出所している可能性も低くない。
4、仁井と親父の関係。

最後の項目のみは興信所に頼れない。
探偵が当時の関係者を虱潰しに当たるにしても、時間がかかり過ぎる。


身上調査書に拠れば仁井は京都生まれ。
中高と学業の成績は優秀で幼い頃は神童と呼ばれた。
しかしどういうわけか進学先として佛教大を選ぶ。
俺の親父が教鞭を執る大学を選んだのは偶然か否か。

仁井が大学に進学した当時、親父は新婚で、仁井が大学2年の年に俺が産まれている。
しかし俺を産んだ母親の産後の肥立ちは悪く、
俺達3人は母親の実家である世田谷の家に引っ越した。
親父は都内の私立大に再就職先を得、助教授として再度教壇に立った。

一方の仁井は佛教大卒業後都内の大学院を受験し院生となった。
親父が助教授職に就いた大学と仁井が再受験した大学は別だ。
しかし二人は関西から都内へと身を移し、大学が違うとは言っても
再度そう遠くない距離に身を置いたことになる。

二人の関係を色々と下世話に推測できないこともない。
しかし推測はあくまで推測だ。

俺は重い腰を上げ、ギャラリー隣室の作業場へ向かった。
描きかけの絵を脇を素通りし、作業場の壁にかけたコートを手に取り袖を通す。
下世話な想像に想いを馳せる間があるなら、自分の足を使って事実を暴く。

ふと、ギャラリーの鈴がガチガチと堅い音で鳴り作業部屋の俺を呼んだ。
ドアの鈴をああいう風に鳴らす人間はひとりしかいない。
つまり、ついさっき出ていった人間だ。

俺がギャラリーに立ち戻れば、そこには予想通りに悟一がいた。
全速力で駆け戻ってきたのだろうか、中腰で軽く曲げた自分の膝に両手をつき、
ぜいぜいと肩で息をしている。
コート姿で作業部屋から出てきた俺を見上げつつ、悟一は荒い息を整えていた。

「忘れ物か?。」
「でかけるの?。」
「ああ。」

「綺麗だな。」
「ああ?。」
「宗蔵そこに立ってると、外の光があたって、髪が透けてる。」
「んな事言う為に走って戻ってきたのか。早く忘れ物取って来い。」
「メシ食った?。」
「まだ。」

何故コイツはメシばかりを気にする。
それも他人のメシを。

「あのさ。」
「何。」
「あの、オレ。」
「早く忘れ物取って来い。俺も出るからココ閉めんぞ。」
「オレ宗蔵と会ってから、生きてるのってイイな、って思うんだ。すごく。」
「?。」
「前は思ってなかったわけでもないんだけど、
ただ考えてなかったっていうか、考えたくなかったのかもしれないけど。」
「大丈夫か?、頭打ったか?。」
「宗蔵はすごく綺麗で、髪も、見た目もだけどでもそれだけじゃなくって。
なんかこうキラキラしてて、俺宗蔵と会ってから、実は俺のまわりの人やモノも
ホントは、おんなじくキラキラしてるんだって分かるようになって。だから。」
「・・だから?。」
「メシ食ってくれ。」
「・・。」
「元気出ないだろ。メシ食わないと。」

そりゃお前だけだ。

「病気になるかもしれないし。」
「ならん。」
「頼むよ。ちゃんとメシ食って。オレ出前頼む?、昼にココに届くように、って。それとも」
「イイ。分かった。約束する。メシは忘れずに食う。」

俺はうな垂れて両手を肩まで上げ、小さく手を広げた。
俺の負けだ。
もし俺一人の昼にカツ丼とカレーと焼きそばの大盛りが一度に届いたりしたら
見ただけで俺は激しく胃もたれする。断言できる。

「絶対な!。」
「分かった。」

完全降伏した俺の前で、悟一は口の端を引いて朗らかに微笑んだ。
それからは身を翻し、ドア上の鈴を再ゝ度ガチガチとドアに叩きつけて駆け出した。

「オイ!、忘れ物は!!。」
「別に無い!。ちゃんと言った!。と思う!。じゃ!。」

俺にメシを食えと念を押すのが忘れ物だったとゆーのか。

(・・。)

馬鹿野郎と怒鳴るにしても駆け出した悟一はもう通りの遥か向こうだ。
形勢逆転の間もなく敗北が確定した俺は、僅かに肩を落としながら店の戸締りを終えた。


通勤通学の混雑が一段落した新興の繁華街、俺はひとり早足で駅へと向かう。
春とは名ばかりの寒風が、俺の伸びすぎた髪とコートの裾を吹きさらしていく。
歩きながら俺はコートのポケットからソフト帽を取り出し、目深にかぶり込んだ。

いみじくも悟一が指摘した通り、俺の髪は色素が薄い。
おまけに顔の彫りもやや日本人離れしている。
可能な限り他人との接触を避けている俺が「見てくれ」と手を上げているような容貌なわけだ。
悪い冗談としか思えない。
この28年間、俺の外見は俺にとってマイナス要素でしかなかった。
だから『綺麗』などという言葉には違和感があった。

それに、不思議な話だと思う。
俺が遠い昔に失った世界の輝きを、悟一は俺を介して手に入れたと言う。
俺自身は未だ灰色の世界に置き去りにされたままだというのに。
これもまた新手の冗談めいている。

俺は歩きながら煙草をくわえ、煙草の先にジッポーの火を寄せた。
寄せたがしかし、火はつけないままでライターをポケットにしまい込んだ。
一度くわえた煙草は手に取り、指の間で折ってから道端に捨てた。

食事を抜くより喫煙の方が身体には悪い。
俺自身の体調がそれを証明している。
悟一が俺に望んだのは、つまりはそういうことなのだろう。
禁煙は無理にしても、減煙くらいなら可能だろうか。

暦の上では春だという灰色の街でコートの背を丸め足早に歩きながら、
俺はひとり俺らしくもない決意を胸に秘めてみたりする。


- 続 -
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