19



俺の額に何か、ひっついている。

肌に何かがひっついているんなら払い落とそうとするのが人間の本能だ。
俺は半分、否、9割方寝たままで、ベッドの上で寝返りをうった。
体勢を変えればひっついた何かが落ちるだろうと思った、というより身体が勝手にそう考えた。
そしてひっついた何かが取れたのかどうか確認するその前に、俺はまた深い眠りに落ちた。
そうしてまた、俺は同じ感覚に呼び戻される。

俺の額に何か、ひっついている。

今度は3割くらい目覚めた身体が、さっきとは逆側に寝返りをうった。
ひっついた何かは、取れたんだろうか。
未確認のままに、俺はまた無意識の海に沈みこむ。
そして浮かび上がり、また思う。

俺の額に何か、ひっついている。

「ああもう!!。」

俺は誰にともなく叫び、ベットから身体を引き剥がすようにして半身を起こした。
身体を起こすのと同時に、俺の手は反射的に額のあたりを掻き毟っていた。
それでもまだ何ものかは額にひっついたままだ。
俺はその何かを寝呆けた半分程度の意識で強引に毟り取った。
手と額の感触からすると、これは梱包用のガムテープだ。しかも布製。

「痛!!。」

俺の広めの額全部を覆っていた何物かは、生え際の髪10本前後も巻き込んで
とにもかくにも額から俺の手の中に移った。

「なんだ?!。てか誰だ!。」

ようやく開いた目で周囲を見回しても誰もいない。
ただいつも通りに散らかった部屋に、眩しい朝日が差し込んでいるだけだ。
何が何だか分からないまま、俺は手のひらに張り付いた何物かを見つめた。
それは俺の予感通り、10センチ程度に切られた布製ガムテープだった。
そして、ガムテープには上部5ミリ程度を固定された小さな紙片が張り付いている。
(?。)

ガムテープが貼りついた右手を目の前に寄せて、紙切れを確認してみれば
それは、名刺だった。
『純友銀行 本社内総務部付属派出電算部気付課長代理補佐』
読む前に目が痛くなった。
そして俺は文字そのものの情報ではなく、
同じ目の痛みを前に感じたという記憶から名刺の主を予感した。
肩書きのところを読み飛ばして次の行に目を移せば、想像通りの氏名が記されている。
『井野 戒而』

(・・。)

そうだった。
夕べは戒而に会った。
そしてそのあとどうしたんだっけか。

何気なくひっくりかえしてみた名刺の裏には、
やはり読む気のしない純友銀行全国支店の羅列がある。
細かく印刷され過ぎて蟻の行列に見える文字の一番下には、
一見するとそれもまた虫の行列に見える端正な手書き文字があった。

『話し合いなさい。その後1人で対処できないと感じたら電話しなさい。番号:xxx-xxx-xxxx』

(・・野郎。)

話し合いなさい、電話しなさい。全部命令形かよクソ。
って、誰と何を話し合えっつーの。
大体俺は何かを対処しなきゃならないんだっけ?。

そういえばなんか問題があったような、
でも思い出せないくらいならたいしたことないような。
それにしても夕べ、戒而はいつ帰ったんだ?。

思い出せるような思い出せないような、
思い出したくないような気がするということは思い出さない方がいいような、
そんなあれこれを思ったり思わなかったりしつつ、
俺はランニングの裾から手を突っ込んで胸のあたりをボリボリ掻いて部屋を出た。
起きちまったからにはまずシャワーで次に飯だろ。
あ〜でも食えるもの何にもなかったかもしんない。


「あ。起きたんだ。おはよ〜。」

そう言ったのは勿論俺じゃない。
ダイニング兼キッチンには先客がいた。
ソイツの顔を見るなり、俺の頭には前夜の記憶が甦った。
そう。コイツは夕べもいた。

「野郎!!。」
「ごはんできてるよ。」
「お前何で」
「食べないなら千夏がもらう。」
「待て。」
「いーよ無理しなくて。」
「待てっつってんだろコラ。」

女は流し前の背の高い椅子に腰掛け、足をブラブラ揺らしながら朝飯を食っていた。
ミルクにトーストに、あとは大き目の皿に盛られたサラダとスクランブルエッグ。
そして女の食べてるのと同じものが、テーブルの向かい側にも用意済みだ。
そんなものを作る材料は俺の部屋には無かったハズなんだけど。

「・・作ったん?。」
「まーね。」

作り立ての朝飯の匂いに引かれて、俺はつい女の対面に腰を下ろした。
いい匂いなのは皿の方だけじゃなくて、マグカップからは芳しいコーヒーの香りまで漂ってくる。
コーヒーは、カップにきっかり半分。
残り半分を埋める為の農協特濃3.6牛乳500mlもテーブル上に用意済み。

「お前じゃねーな。」
「てへ。バレた?。」

8年前と同じ食卓を準備できるヤツは世界にひとりしかいない。
しかしアイツは寝ないまま買出しに出て飯を作り、その後ここから出勤したんだろうか。
今更ながら、少々申し訳ないような気がしないでもない。

俺は久しぶりの美味い飯を仏頂面でかき込んだ。
飯が美味いからといってほんわかした顔なんかしたら、目の前の女がつけ上がるかもしれない。
だけど女は俺を見るどころか餓えた犬のよーにパンにかぶりついている。
飯を食っていないんだろーか。
それより何より、こうして間近に見直してみれば、
女は俺が若いと感じていたより更に一層若そうだ。
若いってゆーよりガキに見える。

「オイ。」

俺の呼びかけに、女はもぐもぐ口を動かしたままで「む?」と答えた。

「お前、歳幾つ。」
「じゅうさん。」

げふっ、と俺は咳き込んだ。
ちょうど大皿のスクランブルエッグをかけ込んでいた最中だったから、
俺の口からは卵に絡んだミックスベジタブルのグリーンピースなんかが
女の皿までぶっ飛んだ。

「ヤダ〜!!。きたなあい!!。」
「13歳?!!。」
「うそぴょ〜ん。」
「ああ?!!。」
「千夏は先月14になったのでした〜。」
「14歳?!!。」
俺の口からはまたしてもミックスベジタブルの豆がぶっ飛んだ。
ニンジンも混ざっていたかもしれない。
「ヤダもうきたない!。」
「ち、中学生か?!。」
「かもね〜でも違うかもね〜。」
「どっちだ!!。」
「千夏あんましガッコ行ってないもん。」
「・・・。」

俺の頭の芯がガンガンと痛み出していた。
もしかして俺がヤっちまったかもしれない女は、脳が溶けていた。
それだけならありふれた話だが、相手は未成年、それ以上イヤ以下に中学生だ。
つまり。俺は犯罪者なんだろーか。

せっかくの美味い飯にもかかわらず、俺の食欲はすっかり失せていた。
半分以上を残したままで俺は煙草に火を点けた。
動揺する俺とは裏腹に、女は犬の勢いで食い続けている。
そろそろ全部平らげそうだ。・・真剣に餓えてるんだろうか。

「・・俺のも食う?。」
「もらう!。」
「食いかけだぞ。」
「知ってる。」

言葉の途中で女は俺の皿を掴み、空いた自分のと交換した。

「コレ、ウマイね。」
「戒而は料理得意だからな。」
「誰?。」
「もひとりいたろ。俺起きる前まで。」
「アイツ誰?。千夏ガッコであんな先生見たことない。生徒指導の誰かかな。」
「バカ。ありゃ銀行員だ。」
「うそお!!。」
「名刺もあんぜ?。」
「!!。アタシ、騙された!!。」
「んじゃ、お前は俺を騙してナイの?。」
「・・ないよ。」

「なあ。俺はお前が誰か知らない。どうしても思い出せない。」
「へ〜。」
「真剣に答えてくれ。俺は、お前とヤったのか?。」

俺は祈る気持ちで目の前のガキんちょの答えを待った。
未だかつてない俺の切実な表情に吊られてか、
女も眉間に皺を寄せて俺を覗き込んだ。

ムズカシイ顔で見詰め合う俺達の顔は食卓の上で徐々に近づき、
もう少しでお互いの額がぶつかるというその時、女は突然ブハっと噴き出した。
そして直後、女の口の中に居残っていたスクランブルエッグの破片が
俺の顔面にまんべんなく降りまぶされていた。

「野郎!!。」
「ごめ〜ん。ティッシュ使う?。」
「よこせ!。てか答えろ!。俺はお前とヤったのかどうか!。」
「んなわけないじゃん。」

そーだ。そんなわけはないのだ。
当然だ。
その割には安堵で胃が大きく収縮したような気がしたが、
俺はティッシュで顔を拭くことで弛緩した表情を隠した。

「で。なんで俺んちにいるんだよ。」
「だってえ。ヒロがマスターの話ばっかするから。」
「ヒロって。」
「知ってるでしょ。『ガレージ』のヒロ。」
「・・ああ。」

『ガレージ』ってのは俺の店の常連バンドで、趣味も髪型も全く違う男4人の寄せ集めだ。
確かヒロってのは、モヒカンじゃなくて丸剃りでもなくて、
外見的には一番普通そうなヤツだったような。

「ヒロ、『belchはスゴイ』って、いっつもその話ばっか。
アタシ何度もビデオ見せられたけど、あんなのうるさいだけじゃん。
何がいーのか全然わかんない!。」

『belch』ってのは俺が一番初めに属した旧いバンドの名だ。
当時俺はまだ高校生だった。
女の言う通り、確かにあれはウルサイだけのバンドだった。
ちなみに『belch』は「ゲップ」の意味だ。

あの頃俺は赤い長髪が生意気だと不良の面々に目をつけられていて、
ライブの最中でさえ俺を殴りにステージまで上がってくる輩が多数存在した。
俺はそいつらを蹴り落としながらギターを弾いていた。
たまにはギターで殴ったりもしていた。
楽器兼武器のギターは大体いつも2本以上弦が切れていて、
それはもう音楽がどうとかいう以前の問題だった。

しかし、俺自身がうんざりするそのバンドには熱狂的なファンがついていた。
力に憧れる男子中学生の一群が、ライブハウスの最前列でヘッドバンクしていた記憶がある。
年齢からしても、現在大学生のヒロがその頃の俺を知っている可能性はある。
それにしてもだった。俺のあの愚かな暴力行為が映像として残ってるってゆーのか。
どの家にあるのかさえ教えてくれれば、俺はその家に火をつける。

「だからアタシ聞いたの。『アタシと音楽どっちが大事』って。」
「・・。」

『belch』は全然全く音楽じゃなかった。若気の至りの体力勝負集団だ。
しかし今それを言っても始まらない。俺は無言で話の続きを促した。

「そしたらヒロ、答えないんだもん。だからアタシ、ココに来たわけ。」
「待て。『だから』ってどう話が繋がるのかが分かんねえ。」
「アタシが『belch』メンバーの女になったら、きっとヒロ、悔しがるじゃん。」
「・・。」
「前にヒロが飲み過ぎた日、お店閉めるの手伝ったでしょ。
その時アタシもいたんだよ。マスターは忘れてるみたいだけど。
それで帰りにマスターのあとつけたんだ。」

言われてみればそんな日があった気がする。
音楽がどうとかカウンターでくだをまいて、ヒロと連れの女だけが明け方まで店に残った。
最後にヒロは閉店作業を手伝って、朝日を拝みつつ俺と一緒に店を出たんだった。
そういえば確かに、ヒロの後ろには終始やたらと若い女がひとりくっついていたよーな。
そうだ。俺は店を片付ける時の常として、バイクの鍵やら部屋の鍵やらをカウンターに投げ出してる。
そういう事だ。

「俺の部屋の鍵!。」

女はふくれっ面で自分のポケットを探ると、俺に鍵を投げつけた。
詫びの言葉もナシだ。

「大体!。ヒロがどうとか以前に学校へ行けコノ中坊が!。」
「うるさいなあ。」
「その前に家に帰れ!!。」
「だって誰もいないもん。」
「嘘つけ!。親がいるだろ親が。」
「いないもん。」
「お前は木の股から産まれたってか!。」
「パパは出張だしママは男んとこだし。」
「・・。」
「でもきっと出張っていうのは嘘で、パパは別の女のとこなんだ。前にママがそう言ってた。」
「・・。」
「アタシもそうだと思う。なんとなく。」

俺はふと言うべき言葉を失くし、無駄に長髪を掻き上げるのを繰り返した。
しかしいつまでもマシな言葉は見つからないままで、
俺は冷たくなったコーヒーカップを手に取り口をつけた。
ミルクと砂糖を入れ忘れて芳しいが苦過ぎるコーヒーを俺が味わう間、
女というよりガキんちょの中坊は、自分の髪の枝毛なんかをチェックしていた。

「アタシ、ヒロんとこ帰る。」
「そお。」

「ねえマスター。アタシひとつだけお願いあるんだけど。」
「何。」
「ココに来たこと、ヒロに黙ってて。」

「分かった。」
「絶対言わない?。」
「ああ。約束する。」

俺は身を乗り出して食卓のテーブルに肘を付くと、ガキんちょに向かって小指を立てた。

「絶対言わないから、もう2度と来んなよ。次はヤっちゃうぞ。」
「ん。」

ガキんちょはクスクス笑って俺の小指に自分の小指を絡め、
照れ笑いしながらも絡めた指をブンブンと振った。


やっぱり女は笑ってる方がいいと、ぼんやり俺はそんな事を思う。


- 続 -
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