18



その後。
閉店を待って、僕は彼と一緒に店を出た。
「ウチで飲み直そうぜ」という彼の提案に乗ってみたわけだ。

彼の弁によれば「いつもより早く閉めた」らしいが、
午前2時過ぎという閉店時間がいつもよりどれくらい早いのか僕には分からない。
僕達が並んで歩く深夜過ぎの裏通りには人影も無く、
街頭もまばらな薄暗い通りはただ深い静寂に沈んでいた。

「星とか、見えねーな。」
「ええ。」

くわえ煙草で歩く彼は、別に星が見たかったわけでもなく
単に話題を探しあぐねたんだろう。

「空気のキレイな田舎なら見えるんでしょうけどね。」
「あの辺にオリオン座があるんだぜ。」
「そうなんですか?。」
「おう。ガキんとき学校でプラネタリウム行って見たし。」
「よく覚えてますね。」

僕達は肩を並べて歩いていても目を合わせることもなく
ふたりしてバカみたいに星も無い夜空を見上げていた。
僕達の間にはまだ語られない数々の事柄が横たわり
障壁となって、僕達の間を隔てていたのかもしれない。

8年前に僕が彼の元を離れた理由を彼は問わなかったし、
僕は僕でかつて置き去りにした少年のその後を訊ねあぐねていた。

「でさ、あのへんにおおいぬ座で、そっちにこいぬ座で」
「犬ばっかですね。」
「聞けよ。」
「聞いてます。」

僕達が再会を果たしたという事は即ち、
遠からず全てがお互いの知るところとなるのだろう。
その時に、僕達の関係はどう変わるのか。それとも変わらないのか。
いずれにしても、もう逃げるわけにはいかない。
だからこそ今はただ、この平穏さに浸っていたかった。
彼も同じ気持ちだろうか。

「でさ。その3つの星座の一番明るいのの3つが正三角形になって『冬の大三角』。」
「・・今春ですから。」
「・・。」

「『春の大三角』はないんですかね。」
「別に三角じゃなくてもいーだろ。」
「まあそうですけど。」

答えが曖昧なところからすると、彼がプラネタリウムに行ったのは冬のみらしい。
確かアークツルスを一点に持つ春の三角があったような気がしたが、
それは僕達にとって別にどうでもいい事だった。


間もなく僕らは懐かしい安アパートに辿り着き、
僕は8年ぶりに梯子まがいに向こう側が覗き見える鉄板の階段を登った。
かつて暮らした場所に客としてお邪魔するというのも妙に照れ臭い気分だ。

「どーぞ。昔より散らかってるけど。」

そんな僕の心情を知ってか知らずか、ふざけた彼は
ホテルのドアマンまがいに押し開けた扉の脇に立ち、僕を迎え入れた。
だから僕は彼に先立って室内へと踏み込んだ。

そして、僕は彼より先に、とある『異物』を目にしたわけだ。

部屋が散らかっているのは想像通りにしても、
いきなり女性の下着が目に飛び込んでくるとは思わなかった。
しかもパンティのみならず、中身付きだ。

要するに。
玄関からすぐのダイニングキッチンの床に、女性が丸くなって寝込んでいた。
彼女はミニスカートで、ちょうど尻を玄関に向けていたから
部屋に入るなり僕の目に飛び込んだのは、まくれあがったスカートの中身というわけだ。

「なんですかコレ。」
「何って・・うわ!。」
「そういう事なら先に言ってくれないと。」
「言うってお前そんな俺」

「ん?。帰ってきたの?。」

白いパンティ括弧レース付きの女が、目をこすりながら半身を起こした。
化粧は濃いが、かなり若い女性のように見える。まだ十代だろうか。

「あっ!!。野郎!。またいやがったコイツ!。」
「何よう。野郎じゃないもん。ひど〜い。」
「出ろ!。今すぐ出ろ!!。帰れ!。」

どうやら僕はあまり関わりたくない場面に出くわしてしまったようだ。
出直すのが正解だろう。

「じゃ僕、またの機会にってことで。」
「待て!。お前じゃなくてそっち!。」
「僕帰りますからそのあと充分話し合って下さいよ。」
「待てって!!。違うの!!。」

彼が叫ぶ度、どういうわけか僕の頭には警告音が鳴り響いていた。
その警告の意味をようやく僕が思い出したのは、警告が実害となった次の瞬間、
つまり、隣室のドアから猛女が飛び出してきたその時だ。

「この人間のクズが!!。」

そう叫んだのは当然僕でもなく彼でもなく、
たった今隣から駆け出して来た女の姿をした般若だった。
顔面の気迫とは裏腹なピンクのネグリジェが異様さをより強調し、
喩えようのない凄みを演出している。

彼のみならず、隣人までもがあの頃のままだとは。

「あ。どうも。」

「あら。アンタ。」

間抜けた挨拶で後頭部を掻いた僕を凝視して、
何故か般若の面持ちは至極普通の30代女性の顔へと変貌した。
もしかすると若造りの40代かもしれないが。

「久しぶりじゃない!。」
「どうも。ご無沙汰してまして。」
「歓迎するわ。」
「へ?。」

ついさっきまでの般若は僕の両手を掴み取り、
僕と彼女の胸の高さで4つの手をぶんぶんと振った。

「ホモ野郎なんて言ってごめんなさいね。ずっと後悔してたのよ私。」
「・・イエ。」
「ホモだった頃の方が全然マシだったわ。コイツ。」
「『コイツ』って誰だよオバサン。」
「お黙り!。」
「ええと。」
「玄関先で女と喧嘩されるのはもうほんっっっとコリゴリ。アナタが戻ってくれて嬉しいわ。」
「え・・ええあの、そしたら今日はもう遅いですし、ご挨拶は改めて。」
「そうね。それがいいわね。」

般若がお多福に変貌したその隙に、僕はバッタのようにお辞儀を繰り返しながらドアを閉めた。
パタンと閉め切ったドアの内側で、僕と彼は小さく安堵の溜息を漏らした。
しかし屋内に振り向いてみれば、そこには小首を傾げた少女が座り込んでいる。
僕が白い目で傍らの彼を見やれば、彼は眉間に皺を寄せて髪を掻き上げた。
本当の修羅場はこれからなんだろうか。

「一応聞きますけど、彼女?。」
「違う。」
「セックス・フレンド?。」
「違う!!。」
「じゃあどういったご関係で。」
「関係なんかねーよ!。そもそもが知らない女だし!!。」
「それは嘘でしょう。貴方さっき『またいやがった』って叫んだじゃないですか。」

僕の言葉に二の句が継げなくなった彼は、フンと鼻息を荒くしたまま黙り込み、
一方の少女は腰に手を当てて勝ち誇ったように笑った。
しかしどちらもがはっきりと関係性を明言しないのは何故か。

「寝る!。」
「はあ?。」
「俺は寝る。お前らは寝るなり帰るなり好きにして。悪ィな戒而。」
「ちょっと!。」
「寝るったら寝る。俺明日昼からバイク便なんだ。」

彼は大股でダイニング兼リビングを横切ると、彼女の脇を素通りし、
あっという間に奥の寝室へと姿を消した。
咄嗟の彼の行動を予測し得なかった僕は、うっかりただその背を見送っていた。

見事なまでの逃避だった。
感動的とも言える。
こんなデタラメな処世術で彼は今日の今まで生きてきたんだろうか。
・・そうなんだろう。

「じゃ、アタシも一緒に寝る!。」

唖然と立ち尽くす僕とは対照的に、少女は駆け出して梧譲の後を追った。
しかし彼女が奥の間の引き戸に手をかけても扉が動かないということは、
彼が中から押さえてるんだろうか。

「開けてよう!。ねえ!。」
「寝ろ!。てゆうか帰れ!。」
「開けてってば!。」

全くバカバカしい。

僕には漠然と、彼女の素性について想像が付き始めていた。
僕すら勘付く事実に何故当事者の彼が気付かないのかと言えば
それはおそらく普段の素行が悪いせいだ。
きっと過去に酔った勢いで相手が誰かも曖昧なままに関係を持った女性が複数存在して、
もしかしたら彼女もその中のひとりかもしれないなんて疑心暗鬼に陥っているのに違いない。

いつまでも開かない扉にしびれを切らして、彼女はドンドンとドアを叩き始めていた。
自身の推理を確認する為に、僕は物音を立てずに動き、
ダイニング兼キッチンの床の上に放り投げられてある彼女のカバンを手に取った。
扉を叩くのに忙しい彼女に背を向けて、こっそり中を確認する。
財布、携帯、化粧品の小瓶、プリクラでいっぱいの手帳、そして定期。
定期が一番手っ取り早い。始点で現住所の範囲が絞られるし、終点で学区域が限定される。
そして名前も分かれば身元はほぼ割れたと言える。
『ワカモト チナツ 14才』
・・ビンゴ。

想像が的中したのは幸いだが、年齢の方が問題だった。
もし万が一既成事実があったなら、相手が中学生じゃ不純異性交遊だ。
僕は溜息混じりに彼女の手荷物を元の位置に戻し、
開かない扉の前で騒ぎ続けている彼女を呼んだ。

「ワカモトさん。」

僕の呼びかけに、彼女は瞳を大きくして振り向いた。

「何で・・知ってんの。」
「中学生がこんな時間に家にも帰らずに何してるんですか。」
「アンタ・・先生?。」

勿論違うが、そう見えるなら誤解してもらった方が都合が良さそうだ。
僕は困った生徒を前にした教師まがいに腕を組み、一際渋い顔をした。

「彼が探してましたよ。」
「何で?!。ヒロがガッコになんか言ったの?!。」
あの「『コーン』じゃなくて『あっさり味』」クンは『ヒロ』という名前らしい。
「心配してましたよ。『ヒロ』くん。」
「・・そお。」

お姉さん風の濃いメイクと挑発的な衣装でキメていても、
うなだれてふてくされた彼女は、やっぱり幼げな中学生だった。

「心配すればいーんだ。困らせてやるつもりだったんだから。」

強がりを言ってみたところで、彼女の表情がその虚勢を裏切っていた。

おそらく梧譲は恋のさや当てに利用されたんだろう。
悪いのは利用した方だとしても、
中学生の下手な嘘に乗せられる彼の抜けぶりにも多少の責任がある。

「今日はもう遅い。続きは明日の朝にしましょう。明日は家に帰ってもらいますよ。」
「・・ハイ。」

僕を学校関係者だと勘違いしているせいか、彼女は素直に頷いた。

僕は寝室向かいの物置部屋を軽く整理して
仮眠室まがいの場所を作り、そこに彼女を押し込んだ。
事後処理の詳細は梧譲に任せるとして、まずは一件落着か。

◇◇◇

仮眠室の彼女を刺激しないようにこっそりと、
僕はダイニング兼リビングの冷蔵庫を開けた。
中には期待通りに缶ビールが数本。
うち2本だけを拝借して、彼への事後報告にと僕は寝室のドアに手をかけた。
さすがに扉を押さえ続けるのに疲れたんだろうか、引き戸は軽く動いた。
そうして寝室に忍び込み、僕は改めて脱力した。

彼は寝ていた。

狸寝入りじゃない事を確認する為に、頬を突付いたり鼻をつまんだりしてみたが
どうやら真剣に爆睡しているらしい。
横になったらつい寝入ってしまったのか、それとも寝る気で寝たのか。
どうしても後者のような気がしてならない。

(・・。)

寝ている人間をいじり続けていても埒があかない。というよりは自分が虚しい。
腕時計で時間を確認すれば午前3時。9時に始業の僕としてはもう寝ない方がいい。
もはやひとりで飲み直すしかないだろう。


寝ている人間を勝手に跨ぎ、僕はベッドの向こう側に腰を下ろした。
たとえ夜でも窓際に寄りたくなるのは人間の本能かそれとも僕だけの癖か。

アルコール度40度のズブロッカを4杯空けてきた後には
酔い覚ましの水みたいに感じる缶ビールを窓辺で流し込みながら、
僕はひとり本日の反省会を開いてみたりする。

本日の僕は、間違いなく行動できただろうか。
過去の想いに引きずられることなしに、
ただの友達、旧い友人として、彼との距離を取れただろうか。

(まあ、及第点かな。)

8年もかけて無駄な感情を切り捨ててきたのだから、今更落第するはずもない。
まあ本日に関しては、僕の自制がどうこうというより、
周りがドタバタし過ぎて感情的になる隙もなかった。
運も味方してくれたんだろう。

見舞い客みたいにベッドの端に腰掛けて缶ビール片手に眺める屋外は
さっきの帰り道と同様にただひたすらに暗いだけだ。
視界の隅、方向的には駅の側にはまばらなネオンが確認できるが、
学生街の裏通りにあたるこの住宅地周辺は街頭さえもまばらだ。

この殺伐とした風景と共に、彼はずっと暮らしてきたんだろう。

ぐご、とも、ずご、ともつかない鼾と鼻息の中間音を発して、
傍らの長身が寝返りをうった。
乱れた赤い髪に半分隠れた額の眉間には、キツく皺が寄っている。
あまり夢見は良くないらしい。

(・・なんだかなあ。)

状況の助けもあって、今日の僕は及第点だった。
きっとこれからもうまくやれるだろう。
友人として、僕達は再び関係を築くことができる。
逃げ出した場所に立ち戻り、僕はもう一度やり直す。
僕の再挑戦を彼は受け入れてくれるだろう。

何かが終わって、新しいかたちで始まる。
始めるために、終わらせる。

(さようなら。)

心で呟いた言葉を繰り返して、小さく声に出してみる。

「さようなら。」

答えのない彼の髪を払い上げ、僕はうずくまるように唇を寄せた。
さようなら。

今この場で目を覚ましているのは僕だけで、
遥か遠くにあるはずの『春の三角』すらも街のスモッグに覆い隠されている。


だから、それは星さえ知らない僕だけの秘密。


- 続 -
 


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