17



その日の夜。
記された場所への途を辿りながらも、僕はまだ迷っていた。

残業を終えて会社のビルを出たのが8時半過ぎ、
それから電車を乗り継いで、今はもう午後の9時をまわっている。

紙片に記されたその場所は、学生時代に僕と彼が暮らしたあの街だった。

卒業後はあの住処を出てそれなりの場所で暮らしているものだと
僕は勝手に想像していたのだけれど、
現代の長屋とも言うべきあの壁の薄いアパートに
彼は未だ棲み付いているのだろうか。

住所からすると彼の店は駅前の歓楽街から見たかつての我が家の方向で、
その旧い住処の更に向こうだった。

あのアパートの前を通らないように、僕は無駄に迂回して進路を取った。
あの場所には想い出があふれ過ぎている。
馬鹿げた感傷のおかげで、僕は20分歩けば済むところを既に35分歩いている。

浮かれた若者達が集う駅前を抜け、人通りの少ない住宅地へと歩を進めつつも
僕はまだ、迷っていた。
今更どんな顔をして彼の前に立てばいいのか。

答えが出ないと分かりきった問いを頭に渦巻かせて歩くこと更に5分、
僕は目的の住所に辿り着いていた。
古びたテナントビルが数戸並ぶその場所に確かに『店』はあった。
子供の背丈程大きな赤提灯が入り口の両脇に据え付けられて、
手書き風の文字で「とんこつ博多風」と記されている。
『店』がラーメン屋だとは、正直想定外だった。

果たして入るべきなのか、どうなのか。
こってりしたとんこつを胃に納めたい気分ではないのだけれど、
今の問題は風味の如何ではない。

両脇を赤提灯に固められた入り口前で僕が立ち尽くしているうちに、
ドアは内側から開けられた。
僕とすれ違うようにして外に出たのは若い女の子。
アルミの出前箱を下げているところからして、アルバイトの店員だろう。
場末のラーメン屋にしては垢抜けて溌剌とした足取りの少女だった。

「ああどうも。入ります。入りますから。」

入らない事を責められたわけでもないのに
何故か僕は詫び口調で開いた引き戸に手をかけた。
しかし背を押された気分で踏み込んだ僕の肩に、背後から誰かががしっと手をかけた。
誰かと言っても僕の後ろには、今すれ違った少女しかいようがないのだけれど。
あまり女性らしくもない力強い手が、僕を無理矢理振り向かせた。

「・・お兄ちゃん?。」
「?。」
「お兄ちゃんだ!!。」

「・・李厘ちゃん?。」

彼女の面影に似た誰かを僕の頭は勝手に想い出し、僕はその名を呼んだ。
しかし心は理性を裏切って、僕の胸は「そんなはずがない」と自分の言葉を否定していた。
いくら面影が似通っていても、僕の記憶の中の彼女は園児まがいの無邪気さを備えた高校生だった。
大人の女性の仲間入りを果たしたばかりのように見える目の前の少女とは別人だった。

「チーフに会いに来たんでしょ?!。下だよ。」
「・・ホントに李厘ちゃん?。」
「こっち!。行こ!。」

年月は僕をより一層堅苦しい男に変え、かつての園児を美女に変えた。
などと感慨に浸り切る隙もなく、彼女は僕の手を引いて歩き出した。
その強引さによって、僕は本当に彼女が李厘ちゃんなんだと納得することができた。

「ホントは今はチーフじゃなくてマスターだけど。」
「待って。その出前箱僕が持ちましょう。」
「いいよ仕事だし。すぐ下だし。」
「僕が持ちますから。」
「んじゃ李厘お兄ちゃんのカバン持つ!。」
「それじゃお願いしようかな。」

ちょっとしたレディ・ファースト精神で引き受けた出前箱は、想像以上に重かった。
僕の通勤カバンを抱えた彼女は、ラーメン店側面でひっそり口を広げた地下への階段へと回り込み、
スキップするような軽い足取りで下へと降りて行く。
自分から持つと言った手前「荷物が重いから待ってくれ」とも言えない僕は
普段使い慣れない力を振り絞り、なんとか彼女の後ろについて狭い階段を降りた。

今更出前箱を置いて後戻りもできないわけで。
ここで彼女に出会った事は、多分正解なんだろう。

◇◇◇

「チーフ!。お兄ちゃん来たよ!!。」

溌剌とした美少女の後に付き、僕はウェスタン風の押し戸の門をくぐった。
そこは成程、『狭い』という表現が決して謙遜ではない場所だった。

カウンターが5席、テーブル席が2つ。以上。
テーブル1つに付き椅子が4脚据え置かれているが、
実際4人が座ったら非常に窮屈だろう。
実質的な定員はカウンター含めて10名以下というところだろうか。

店内の両サイドには店の狭さを助長する巨大サイズのアンプとスピーカーが据え置かれてる。
これを吊り下げ型のBOSSにでも置き変えれば、あと2つテーブル席が増やせそうだ。
しかし貴重なスペースを占領しているだけの事はあって、
店内は重低音の効いた濃厚なサウンドで満たされていた。
細く絞られたダウンライトが照らす薄暗い店内で、音の濃密さは懐古的な趣へと昇華している。
不思議な場所だと、そう思った。
流行の波に押されて林立するワインバーではあり得ない雰囲気があった。
目には見えない精霊が棲み付いているような気がするのは
壁に染み込んだ香と煙草の匂いのせいだろうか。

その不思議な場所のカウンター向こうに、彼は居た。

しかしそのカウンターの手前には、
ある意味この場所の雰囲気以上に不思議な客達が並んで座っている。
歳の頃は大学生程度に見える彼らのヘアスタイルは、
左から順にスキンヘッド、長髪、ノーマル、おかっぱ、モヒカン。

「出前持ってくる帰りにちょうど会ったんだ!。」

さて、そんな謎の場所に集う謎の人脈の中に、
またひとり大きな謎である僕が踏み込んだわけだ。
会社帰りの僕のいでたちはと言えば当然上下スーツであり、
おまけに朝晩の寒さしのぎに通勤コートまで羽織っている。
社会人として至極常識的かつ礼儀にかなった有り様が、この場所に於いては逆に不自然だった。
更に僕は銀色に輝く出前箱を手にしているという点で、不自然さの上に不条理さも加味されている。
上等の再会だ。
半ば開き直りの心境で、僕はガツガツと店内に踏み込んだ。
出前箱を下げる手に力をこめて「こんなのは全然重くないんだ」風に装ってみたりする。
それがどういう虚勢なのかは自分でも分からないけれど。
僕は照れ隠しの無粋さで、出前箱をガツンとカウンターの隅に置くと
アルミの横蓋を自ら引き上げた。

「ラーメンお待ちどうさま。これは・・塩とコーンかな。塩は誰。」
「えっと、俺、海苔。」
声を上げたのはカウンター左端のスキンヘッド。
「なんだって?。じゃあこれは塩じゃなくて海苔か。
確かに海苔も乗ってるし、じゃあこれでしょう。ハイ。」
「・・どうも。」
「じゃあ残りのコーンは。」
「俺ス。」
中央の短髪クンが小さく手を上げた。
「ハイ。キミ。」
「ども。・・ちなみにコーンじゃなくて『あっさり味』スけど。」
「なんだって?。」
「イヤ別に。どうも。」

僕が憮然とした態度で客にラーメンのどんぶりを渡し終えるまでの有様を
旧い友人はカウンターの内側で見守りながら、腹を抱えて笑っていた。

「何がおかしいんですか。」
「イヤ、別に。悪ィ。」

笑い過ぎて目の端に滲んだ涙を拭いながら、
彼は全く悪びれた風もなく詫びの言葉を述べた。

それは僕の良く知っている、8年前と変わらないままの彼だった。


「オイお前ら。テーブル席に移動。」
「え〜なんで。」
「コイツ俺の旧いダチなの。カウンターもう一杯っしょ。」
「え〜だって俺、梧譲さんにハナシがあって来たのに。」
彼に話があるというのはカウンター中央の短髪クン。
ラーメンの『コーン』じゃなくて『あっさり味』の君。
「お前ら毎週来てんだろ。ライブの帰りとスタジオの帰りと。」
「今日は特別なんスよ相談つーか。」
「コイツの彼女、失踪中なの。」
短髪クンの相談の内容を、隣のモヒカンくんが先に要約した。
「僕テーブル席で構いませんから。」
「あ。待ってお兄さん。」
カウンター右端のモヒカンくんがやにわに立ち上がり、
僕を引き寄せては今自分が腰を上げた椅子に僕を引きずり下ろした。
僕がつい彼のなすがままになってしまったのは、
彼の鼻と口の端に刺さった安全ピンに視線が固定されてしまったせいだ。
「俺別に座ってなくてもいいし。お兄さんゆっくりして下さいよ。」
モヒカンくんは自分のグラスを手に取ると、
スキンヘッドくんと長髪くんの間へと立ち位置を移動した。
外見を裏切る彼の気配りに意標を衝かれ、僕は礼の言葉を口にするのも忘れていた。

「女がいなくなるってのは、まあ、普通だろ。」
「あはは。梧譲さんそういう私生活?。」
「俺の私生活はほっとけ。」

僕は女じゃないけれど過去にいなくなっていたわけだったりする。
でも別に彼の恋人だったわけでもないし。などという言い訳は一体誰に対してか。
何となくいたたまれない気分だ。

「あの。なんか頂けますか。」
「何がいい?、李厘が作る!。李厘カクテル作れるよ!。」
「あの一口飲むと火が吹けるようなヤツ?。」
なんとなく、カクテルは遠慮した方がよさそうな予感がした。
「ズブロッカ、ストレートで。」
「ちぇ。」

「フられたんならともかく、失踪なの。」
「じゃ、事件じゃん。」
「ですよね。」
「そしたら俺じゃなくて警察っしょ。」
「イヤ、女の事件なら梧譲さんかな、と。」
「バカ。」
「マジっス。かなり真剣ス。」
「・・女の名前は?。」
「『若本千夏』。」
「知らねえな。やっぱ。」

「ね、お兄さん。ダチって嘘ですよね。全然梧譲さんに似てないし。」
僕にそう囁きかけたのは、隣の席のおかっぱ頭クンだ。
「ホントはマルサか、逆にそれ対策の税理士さんと見た。それとも弁護士さん?。」
「悪くない線ですね。銀行員です。」

「コラ。何の密談。」
「フフフ。梧譲さん、脱税してますね?。」
「バカ。脱税するほど課税されてねーよ。」
「なんで。」
「お前らが出前ばっか注文すっからだよ!。今度から出前にマージン取っぞ。」
「うっそ!。」
「もおいいからお前らあっち行け。」
シッシッ、と片手でおかっぱ頭クンを追い払う素振りをみせながら、
彼のもう一方の手は僕に小さなグラスを差し出していた。
僕がオーダーしたチープな野草酒は、かつての彼の好みだったから
メニューを見なくてもこの店にあるだろうと僕は推測したのだった。
どうやら彼の好みは変わっていないようだ。

「悪ィなうるさくて。」
「イエ。突然来たのは僕の方ですから。」

僕に渡したのと同じグラスをもう一つ、彼はカウンターの内側から取り出した。
仕事中にもかかわらず、隙を見て一杯やっているらしい。
彼は手にしたグラスを僕のグラスに軽く合わせてみせた。
カチンと小さく鳴ったグラスが、彼の替わりに「乾杯」と告げた。

「そーだな。『この店に』ってゆーよりは、俺の人生に。」
「?。」
「お前はいっつも突然やって来る。」

いつもとは今日以外のあといつだろう。
こないだ会社の廊下で軽く手合わせをした時の事か、
それとも数年前、半死でゴミ置き場で寝ていた時の事か。

バツの悪さを裏返してついムズカシイ顔になる僕を上目遣いに見つめ、
彼は小さく肩を揺らして笑った。

「しかも。かなりとんちんかんなザマで。」

とんちんかんとは一体。

「『気が向いたら来い』って言ったのは俺だけど。」
「はあ。」
「正直、来ないかも、って思った。」
「何故。」
「お前は、出てったわけだし。」

カウンターの左側では大声の雑談が続けられていた。
そして店内全体には重低音の効いたBGMが淀みなく流れ続けている。
なのに僕と彼の周りだけが、無音の真空状態になった気がした。

「だから、その。」

切り出し難い事を言う前の彼の常として、彼は無駄に長髪を掻き回したりしていた。

「来てくれて、良かった。」

僕はただ、馬鹿みたいに「はあ」と繰り返した。
本当はありがとうと言いたかったのだけれど、
話の文脈からするとその単語は不適切だった。

「な、ウチで飲み直そうぜ。ココじゃうるさくってさ。」
彼はふと声を潜めると、僕の耳元で「今日は早く閉めるから」と付け足した。

どうやら本当にまだあの場所で暮らしているらしい。
麗しの君がおわします高層マンション最上階に引っ越しても良さそうなものだけれど。
冷やかしの気持ちも手伝って、僕はこっそり聞いてみた。
今彼が僕にやったのを真似て、声を潜めて彼の耳元で囁く。
「『彼』は元気ですか。」

またしても彼は無駄に長髪を掻き回したりしていた。
麗しの君は8年前と変わらずに、彼の心を占有しているらしい。
それさえ分かれば僕には充分だった。

「ま、その。後で言うわ。」

「あれえ梧譲さん。密談禁止って言ってたのにヒソヒソと。」
「俺禁止って言った?てか密談じゃねーし。」
「やっぱ脱税」
「んな儲かってたらバイク便のバイトなんかするかバカ!。」

いつの間に僕達の周りの真空カプセルは消え失せていた。
僕は喧騒の中、仄暗いライトの下でひとり久しぶりの野草酒を味わった。

店の両脇に据え置かれた巨大スピーカーはステレオ効果も抜群で、
多少アルコールの回り始めた頭の芯には重低音が鈍く響く。

〜Everything gonna be alright.

レゲエ風のビートに乗せて、疲れたダミ声がそう叫んでいた。
きっとうまくいく、と。

そう、僕が姿を消して、事はきっとうまくいったのに違いない。
だとしたら、僕が心を鎧で覆って過ごした長い年月も無駄ではなかったのだ。

〜Everything gonna be alright.
〜Everything gonna be alright.

掠れてザラついた男の歌声はどこかもの悲しい哀愁を孕みつつ、
何度も何度も、同じフレーズを繰り返していた。
Everything gonna be alright.


- 続 -
     .


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