16



「おはよう。」

僕が型通りの挨拶を口にすると、フロアの面々からも同様に気の抜けた挨拶が返る。
今日もまた、いつもと同じ朝が始まるはずだった。

「課長代理補佐にお電話です。」
「誰に電話だって?。」
名前で呼べと僕に何百回言わす気か。
「肩書きで呼ぶのが本社の方針スからね。」

馬鹿の代名詞かという呼称で僕を呼んだ園部を擁護するように、新田が無粋な声を上げた。
もし僕を肩書きで呼ばないのが電話先の人間に聞こえれば
自分達の非になるのだと言いたいらしい。
なら受話器を保留にして呼べばいいじゃないか。
しかし僕が色々と小言を述べるより先に、
園部は派手にレイヤーの入った長い髪を払い上げながら、
仏頂面で僕の鼻先に受話器を突き出した。
そんなにコードを伸ばして受話器を突き付けてこなくとも
僕が自席についてから内線で回してくれればいいのだが。

色々と不満を感じつつも、僕は結局通勤カバンを小脇に抱えたままで
園部の脇に立ち受話器を手に取った。

「ハイ。僕ですが。」
「井野さん?。うふふ。」

甘い声音の語尾に隠微な含み笑いを忍ばせる、
僕の知り合いで現在そういう人間はひとりしかいない。
僕は受話器を耳に押し当てると、その場で園部に背を向けるように振り返り声を潜めた。

「困りますよ美香さん、会社は。携帯の番号教えたじゃないですか。」
「あらん。だって今日はお仕事の件でお電話したんですもの。」
「仕事の?。」
「わたくし、アナタにひとつ、お願いをされていたでしょう?。」
「・・ええ。」

もしこの部署が潰された場合の社員の身の振られ方について、
僕は当銀行大株主の御令嬢である彼女へと暗に打診していた。
要するに、僕以外の社員がクビにならないよう手を回してくれと頼んだわけだ。

「あのおはなしだけど。」
「ハ。」
「思ったよりムズカシイことになりそうだわ。」
「・・何か、問題でも。」
「合併が早まりそうじゃない。」
「なんですって?!。」
「衆議院解散で総選挙でしょ。ニュースご覧になってないの?。」
「それが直接当行の合併に繋がると?。」
「トラブルを恐れて合併にストップをかけてたのは金融庁よ。ご存知でしょう?。」

合併に伴うシステムトラブルの非を負うのが誰になるのかが曖昧になる今こそ、
合併話を進める潮時と読むわけだ。
言われてみれば成程、ありそうな話だった。

「もうその算段でオタクの上層部も動いてるわよ。」
「・・本当ですか。」
「アナタ、もう少しアンテナを張り巡らせておくべきね。」
「スイマセン。」
「まあいいわ。また何かあったらご連絡するけど。」
「よろしくお願いします。」
「部下よりもアナタ御自身の保身を忘れないことね。」

手厳しい一言を残して電話は一方的に切れた。
嫌味にも取れる内容だが、実際がそうだった。
合併が実現すれば、課長以下半数は失業の憂き目にあう可能性が高い。
課長代理補佐という馬鹿な肩書きの僕は、紛れも無く課長以下だった。

会話の終わりを背中越しに察知した園部が、
僕に振り向きもせずに肩越しに手を差し出した。
僕は反射でその手に受話器を渡し、
園部は無言で手渡された受話器を本体へと戻した。

(部下よりもアナタ御自身の保身を忘れないことね。)

大株主御令嬢の進言を頭の中で木霊させながら、
僕は通勤カバンを抱え、よろよろとパーティション向こうの自席へと歩いた。

「あの。井野さんにまたお電話ですけど。」

背後でそう告げたのは、か弱い声音からして岸だろう。
僕をあの馬鹿な呼称で呼ばなかった彼女に礼のひとつも言いたいところだが、
今やそんな気力も萎えた僕は、振り返りもせず肩越しに手を上げた。

「席で取りますから。内線で回して。」

◇◇◇

「いやあ。ボクだよボク。どう。元気。」

自席に回された電話回線からは、耳慣れた中年男性の声音が飛び込んできた。
電話先の相手は総務部時代の上司だった。正確に言えば現在の上司でもあるのだが。
何故電算部課長代理補佐の上司が総務部なのかというその理由は、
単純だけれど言葉にすると案外複雑だ。

「お世辞にも元気とは言い難いですね。」
「あはは。相変わらずじゃないか。」

コチラが不調だと自己申告しているにもかかわらず、
「そりゃ良かったな」とバシバシ肩を叩く。
彼こそが相変わらずのようだ。

「もしかして合併関連で何か。」
「お。話が速いね。どのルート?。」
「プライベートですから。内緒です。」
「秘密主義はいかんだろ。」
「それより用件を述べてくれませんか。」
「・・相変わらずだなあキミは。」
「お互い様です。」
「・・。」

総務部時代、部長と僕は折り合いが悪かったわけではない。
ただ違うタイプの人間であることは間違いないようだ。
僕が重箱の隅を突付くようにして「不認可」の箱にまとめた決裁書の山を見上げて、
部長は常々「そんなことを続けていると今にわるいことが起こるぞ」と、
僕に聞こえるように呟いていた。
出張費程度の決済は緩めに処理しておかないといずれ左遷されるぞ、と、
暗に忠告してくれていたわけだ。

僕が忠告の意味を理解していなかったわけじゃない。
ただそういった、なあなあの判断を自分自身に許せなかっただけだ。
そしてその後、つまり現在、僕は部長の予言通りに
お荷物部署の責任者に祭り上げられている。

「まあいいや。それで本題だけど。」
「ハ。」
「光井銀行のシステム部と第一回の打合せを内々に。」
「もうそこまで話が進んでるんですか。」
「うん。で、その会議場所をウチにするか光井さんにするかで揉めに揉めてさあ。」

どちらの担当も相手先での打合せを潔しとせず、
間に入った自分がどれだけ骨を折り気を回したかという部長の苦労話が始まっていた。
僕は受話器を耳と肩の間に挟んで机上の端末の電源を入れた。
ようやく本題が切り出されたのは「それで本題だけど」と部長が前置きしてから10分後、
僕が前日の下請けチームの進捗を全て確認し終えた頃だった。

「それで会議の時のキミの肩書き、『部長代理』だから。」
「ハイ?。」
「『総務部付属派出電算部気付課長代理補佐』、それじゃ光井さんにカッコつかないからさ。」
「カッコも何もシステム統合は勘定系が要でしょう?。僕は関係ありませんよ。」
「関係ないったってキミ、常務が出てっても設計の詳細は分からないわけだし。」
「僕だって分かりませんよ!。」
「そりゃ、キミが調べるしかないでしょ。」
「そんな!!。」

口座振替、振込、預金集中業務、融資といった銀行システムメインの機能、
いわゆる勘定系と呼ばれるシステムは現在、元は電算部の人間である当行常務の管轄下にある。
常務は電算部時代、部長代理の身にありながらメインフレームの勘定系DBを
IBMからORCLEに乗せ変えようとして、社内で一悶着起こした伝説の人物だ。

関連会社を巻き込んで社内外で吹き荒れた喧騒の嵐の後、勝利を勝ち取った電算部部長代理は
経営陣と会長の信頼をも勝ち取り、部長の頭を飛び越えて常務へと昇格した。
その後社内でのポジションを失った部長は辞職した。しかしだからといって
今更現場に戻るのも気が進まない常務は実務を別会社に委託し自分は本社で指揮を執っている。
そして本来の電算部は用済みとなったわけだが、銀行の対面上切り捨てるわけにもいかず、
電算部は勘定系から程遠い年金信託等の財務管理系のみを引き受ける事になった。
その閑散部署の責任者に任命されたのが、僕。

部長を名乗るには若過ぎる僕には『課長代理補佐』という謎の肩書きが与えられた。
おまけに「トラブルが起こっても責任は取らない」という常務の姿勢を如実に示してか、
電算部は『総務部派出電算部』という部署名に改められた。
派出なら総務部じゃなくても経理部でも検査部でも何でもいいわけだが、
社内の面倒は全て総務に回すという従来の慣習と、僕が総務部の出だという事情が相まって
『総務部派出』に落ち着いたのだろうと僕は推測している。

総務部長の彼は、なんだかんだ言って僕の左遷の余波で面倒を引き受ける羽目になった。
済まないと思う気持ちがまるで無いと言ったら嘘になる。
しかし僕がそんな気持ちを顕にできる場面はなかなか訪れない。

「それで、キミの肩書き変えたネームプレート発注したんだけど、
納期的に会議に間に合わないかもしれなくてさ。
だからテプラでシール作ろうと思ったんだけど。
会議の時だけ肩書き貼りかえればいいかなあ、と。」
「・・。」
「聞いてる?。」
「はあ。」
「シールの台紙が切れてるんだよね。これどこに発注するんだっけ。」
「事務棚の下から3段目右から2冊目に目録がありますからまずは商品番号調べて。
その目録裏表紙の番号に今日電話すれば明日には届きます。」
「そう。それと。ボク今晩、常務と会食なんだよね。」
「はあ。」
「キミもどう。」
「僕も常務に呼ばれているんでしょうか。」
「そうじゃないけどさ。」
「だったら僕は関係ないでしょう。」
「イヤホラそうじゃなくてさ。常務は今更キミを名指しでは呼べないわけよ。」

合併を有利に進め今後の主導権を握るには、電算部が当行のシステムを全てを掌握しているフリをせざるを得ない。
当行は勘定系を全て外部に委託しているなどと光井側に吐露するわけにはいかない。たとえバレているにしてもだ。
その為に常務は現在電算部のトップである僕と詳細な口裏合わせの必要があると感じたのだろう。
しかし部署名を総務部派出に変更してまで責任転嫁して今更僕を呼ぶのは気が引ける為、
総務部部長を間に立ててやんわりと誘ってきたというところらしい。

「行きませんよ僕。」
「井野クン!。」
「御指摘通り、僕相変わらずなんで。」
「キミ!。まだそんなやり方で」
「お陰で色々と仕事も増えたみたいだし。
メインフレーム乗り換え以前の勘定系システムを僕が把握してないと話の辻褄が合わないって事ですよね。
調べておきます。現行分は常務が担当すべきでしょうね。それじゃ。」
「井野クン!。」

まだ何か言いかけた部長の言葉に気付かない振りで
僕は受話器を本体に叩き付け、通話を打ち切った。

その後僕がおもむろに席を立ったのは、単に気分転換の為じゃない。
システム乗り換え以前の膨大な量の設計書は、隣の資料室に眠っていたはずだった。

◇◇◇

(・・。)

電算部隣の資料室で、僕は自分の背丈を越える書架の前に立ち尽くしていた。

壁を埋め尽くした書架はスライド式になっている。
それが15段もの奥行きになっているとは今まで気付かなかった。
改めて見直してみれば、ファイルの群れは見事なまでに薄く一様に埃をかぶっている。
これらの設計書はおそらく、書かれたが最後誰にも読まれていないと推測できる。

読み返す必要が無い設計書という事はつまり、
システムがその通りに作られている可能性が限りなく低いと示唆している。
設計と製作が別の人間である場合、製作側は往々にして己の論理で事を進める。
だとすれば設計書は単に机上の空論でしか有り得ない。

膨大な量の机上の空論を読み解く事に、何か意義があるだろうか。

(・・。)

しかし意味の薄い作業を虚しいなどと感じるのは、甘えに違いない。
僕は気を取り直し、書架のファイルに手を伸ばした。
気を取り直したところで胸に澱んだ空虚な想いを振り払う事はできないが、
そんな感傷にひきずられるわけにはいかない。

感情や感傷を切り捨てる為に、僕はこの職を選んだのだから。

過去何年間か陳列されたままのファイル群は隣のそれとびっちり隙間無く並べ立てられて、
一冊を引き抜こうとすると左右のファイルもついて出てくる。
左右のファイルを押し戻しながら一冊だけ引き抜こうとすると、
スライド式のスチール棚は前後に大きく揺れた。
背の高い棚で、揺れは上部ではより大きな振幅となり、
棚に収まりきらずに棚上部に横積みされたファイル群は、
ファイル自体がスライドして僕の頭上から降り注いで落ちた。

「うわ!。」

咄嗟に一歩引いた僕の背後には作業机があった。
後ろ手に引かれた僕の手は作業机に積まれたファイルを叩き落し、
僕は自分が払い落としたファイルにつまづいて転んだ。

踏んだり蹴ったりとはまさにこういう事だろうか。
正確には滑ったり転んだりだが。
僕の無言の問いかけにオチを付けるように、
棚上最後の一冊が転んだままの僕の後頭部を直撃した。

(・・。)

このままこの場で意識を無くしたい気分だった。

資料室の床の上に倒れこんで全身で虚脱感を味わうこと2分半、
寝倒したところで現状は何も変わらないわけで、僕はよろよろと身を起こした。
散らばったファイルを拾い集め、机上と棚上へと戻し、
倒れた衝撃で胸ポケットから飛び出た手帳も拾い上げる。

僕が手にした手帳からは、一枚の紙切れが滑り落ちた。
もう一度屈んで落ちたメモの端を拾い上げてみる。
そこにはとある住所が走り書きされている。

数日前に再開した旧い想い人が残した手書きの文字。
『彼』の店の在り処。

或る日突然バイク便のユニフォームで現れた彼は、スーツ姿の僕をひとしきり笑った。
そして笑い疲れた頃に、彼はその大きな手の平で僕の全身を身体検査するように叩き、
僕の胸ポケットからこの手帳を抜き出した。
その少し前に僕は同じような挙動で、彼の内ポケットから配達伝票を取り出していた。
彼の身体検査は僕のそれへの気の効いた仕返しだったに違いない。
そして彼は手帳の紙を一枚破り取り、短く住所を走り書きして
手帳と一緒に僕の胸へと戻した。

「俺の店。狭い飲み屋だけど。気が向いたら来いよ。」

言葉が出ないままの僕に、彼は僕が少し前に押し付けた荷物を掲げて見せて
小さくウィンクした後に走り去った。
よろしくお願いします、と、
僕は普段から配達員に言いなれた台詞を押し出すだけで精一杯だった。

しかし今は、そういうことを想い出している場合じゃない。
追憶から想いを振り切って、僕は手の中の紙切れを丸めてポケットに突っ込んだ。

気を取り直して目前の書棚を眺め直す
膨大なファイル群、果たしてどこから何を読むべきか。
読んだところで内容に実質的意義があるのか非常に怪しい設計書の一体何をどこから。

もう、いいんじゃないか、と、
僕の脳裏にはふとそんな想いが湧いた。

『俺の店』と、彼はそう言った。
たとえバイク便と兼業だとしても、彼は自分の店を持つほどに成功しているらしい。

かつて。
もう8年も前、自分さえいなくなれば万事うまく納まるんだろうと僕は考えた。
そして実際、うまく納まったに違いない。

もう、いいんじゃないか。

もし彼に会ったとしても、勿論今更事を起こすつもりはない。
彼の傍らを離れて8年、僕はひたすらに感情を殺し自分を制することを追及した。
その成果を確認するくらいなら、許されるんじゃないだろうか。


僕は書架の分厚いファイルに手を伸ばす替わりに、
丸めた押し込んだばかりの紙片をポケットから取り出した。
紙の皺を伸ばしながら、殴り書きされた住所をもう一度確認する。

記された住所はかつての僕等の住処からさほど遠くない場所だった。


- 続 -
     .


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