15



悟一が2階へと姿を消した今、俺は元の状態に立ち戻っている。
半開きのドアの向こうには描きかけの『パリ絵』、
手元にはクソ中年の『身上調査書』。
2つの問題を前にして、俺はいつまでも煙草をふかし続けるだけか。

(クソが。)

誰にともなく罵倒の台詞を呟いて、俺はファイリングされた紙束を手に取った。

まさかこの調査書に「仁井の野朗が親父を殺した」などと書かれているはずもない。
あれは通りすがりの強盗が勢いで殺人に転じた事件として、既に犯人も検挙された。
俺自身もあの男が直接親父を殺したかもしれないなどと疑っているわけじゃない。

ただ、おそらく、どういうカタチであれ、
あの男は親父の過去に影を落としている。
俺の勘だ。

初めて俺が仁井という男にまみえたのは、10年も前だろうか。
悟一と出会う以前であり、同じ年か、それとも1、2年前かといった程度の前。
それが最初で最後だ。
少なくとも俺の記憶に残る限りでは。


10年も前の或る日、親戚の誰とかが死んだとやらで、俺は葬儀に出向いた。
俺は死んだというその人間の顔も名前も知らなかった。
葬儀の日取りを知らせる通知は本来なら俺の親父に届くべきもので、
親父が死んでいないから息子の俺名義に送られてきただけの話だった。

名前も知らない親戚の葬儀に出席する義理はない。
しかし「顔だけ出しとけ、香典置いて焼香済ませたら帰っていいから」
そう観世に押し切られ、俺は渋々観世に同伴した。

曇り空に小雨。葬式にふさわしい灰色の風景だけは未だに記憶している。

故人菩提寺の寺が仮の葬儀場ということで、
寺の境内には小学校の運動会本部まがいにテントが張られていた。
安テントが香典受付所らしく、俺は観世に白黒の袋を手渡され、
テント前の待ち行列に並んだ。

小雨の降る境内、待ち行列の最後尾で、俺は手持ち無沙汰に辺りを見回した。
正門から本堂に連なる道を、焼香を終えた人とこれからの人が反対方向に歩き、擦れ違う。
傘をさすのは葬式の礼儀に反するのかどうか、
誰もが傘なしで歩き、黒の喪服の肩を僅かに濡らしていた。

漠然と辺りを眺める俺の目が、ふと一人の男に留まった。
その男は、焼香の列の手前、俺の並ぶ香典待ち列の向こう、といった中途半端な場所で、
どの人混みにも属さずに、ただ煙草をふかしていた。
俺の目がその男に留まった理由は、単にヤツの立ち居地が浮いていたせいではない。

その男は、俺を凝視していた。
ヤツの視線に引かれるようにして、俺も男を見据えた。

黒の喪服、無精髭、黒縁の眼鏡、眼鏡越しの皮肉気な視線。
葬儀に喪服は当然だが、その男は黒が存在の基調色であるかのように、
身に纏う雰囲気と喪服が同化していた。
不愉快な男だと、俺は見た瞬間に感じた。

生肌に蟲が走れば人はどうするか。
咄嗟に蟲を払い落とし、あとは踏み潰しでもするだろう。
その時俺は、そんな事を考えていた。
つまり俺は、漠然と、殺意を抱いた。
初めて見たはずの男に。

まるで俺の頭の中を見透かしたかのように、
男は俺に向けて、軽く片頬を吊り上げた。
多分、笑ったのだろう。

そして男は俺に背を向け、立ち去った。
焼香を終えた人の流れに合流し、正門へと向かう。
人の群れにまぎれ込んでも、男の姿は見紛うこと無く識別できた。
禍々しい黒の喪服を存在自体の雰囲気として纏うのは、
人混みの中でもヤツだけだった。

正門へと流れる列の中、不意に男は俺に振り向いた。
ヤツは自分の頭の上で、ひらひらと俺に手を振ってみせた。
あたかも俺がいつまでもヤツを見送り続けているのが、至極当然だと示すように。
俺は男から視線を振り切った。
男から這い出す不吉な黒い闇に、ふと飲み込まれそうな気がしていた。

俺は香典の待ち行列で俺の前に並ぶ観世の背を突付き、
あの男を知っているかと訊ねた。
『仁井』。
その時初めて聞いた名だった。

観世の話によれば、世田谷の豪邸に居候中らしい。
俺が3歳まで暮らした旧い屋敷に居候中の男。
俺とヤツの間には何か繋がりがあるのだろうか。

俺の母親、つまり観世の妹は産まれつき身体が弱く、
子供を産むのは無理だと言われていたらしい。
観世とは正反対に外見も性格も控えめで、
「全てに於いて姉妹を足して割れば普通の人間」というのが親戚筋の評だ。
親戚と交流のない俺はその評価すら後日談として観世に聞かされたわけだが。

それはともかく、俺が産まれた直後の3年間、
あの屋敷には赤子の俺と親父、あとは数名の乳母兼家政婦が住み込んでいた。
それも俺自身の記憶ではなく、後年観世から聞いた話だ。

体調が回復しないままの母親に退院の目処はつかず、3年後
親父は歩けるまでに成長した俺を連れ、世田谷の家を出た。
妻名義の豪邸は居心地が悪かったのか、それとも単に広過ぎたのか、
はたまた他に理由があったのか、今となっては知りようもない。

事件が起きたのはそれから2年後、引越先の手狭な一軒家。
入退院を繰り返すまでには回復した母親も、その時運悪く宅に戻っていた。
そして生き残ったのは、ガキの俺ひとり。

俺とあの男は、世田谷の家でつながっているようにも思える。
しかし住んだ時代が合わない。
俺とヤツに接点は無い。
なのに、ヤツは俺を知っているかのように振舞う。
単なる居候なら親戚筋には当たらないはずだ。
そもそもヤツがこの場に居る必然があるのかどうか。
釈然としない想いを、俺は観世にぶつけた。

「故人のジジイは元は大学の教授職だからな。
学生とか研究室の人間とか同業者とか、
色々とある関係筋のどれかだろ。
それよりお前、何で仁井の野朗を気にかける?。」
「俺を、見ていた。」
「そんじゃ、ヤツはお前に会いに来たのかもな。」

観世がそう言ったのは、くだらない冗談のつもりだったろう。
俺は無言で正門付近へ振り向いた。
そこにもう男の姿は無かった。

見えないほどに細く降る雨が、
男の通過した辺りだけに黒い陰りを落とすように見えたのは
ただの気のせいに違いない。
俺は俺の心象効果に於いてのみ黒く降る雨を、無言で眺め続けた。

過去を暴き出したところで、失くしたものは取り戻せない。
唯一愛した存在を失った闇の中で、俺の生は今後も続いていく。
生を選択したというよりは死を選択するきっかけを失っただけの命に
果たして意味があるのかどうかも分からぬまま、
光を失った時間は、ただ怠惰に流れていく。

もし俺がヤツを殺したところで、何も変わらない。
失くしたものは、戻らないのだから。

黒い雨を眺めて、俺はそんな事を考えていた。


それから約10年後、俺の元に舞い込んだ紙束。
もし俺が今更過去を探ろうとするならば、
『身上調査書』は手掛かりを与えてくれるかもしれない。
そのきっかけを、掴むべきなのかどうか。

今この時に俺の手元にきっかけが舞い込んだのは、
何らかの必然なのか、それとも単なる偶然か。

手を付けるべきか、付けざるべきか。

しかし、悟一を殴った時点で、答えは出ていたのかもしれない。

腐った顔で不幸を抱え込むくらいなら、傷付いても傷付けても踏み出せと、
俺はサルの背を押したばかりだった。
人の背を押しただけで、俺自身が動かないのもどうか。

どうせ、最近の俺は退屈し切っていた。
動くのに、今が潮時なのかもしれない。

火をつけたばかりの煙草をもみ消して、俺は机上にファイルを広げた。
『身上調査書』は、男の生い立ちから始まっていた。


懸案のひとつに手を付けたところで、
『パリ絵』の方は未だ問題として残り続けているわけだが、
それはまあ、後で考える。



- 続 -
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