13



手を付けるべきか、付けざるべきか。
それが問題だ。


閉店間際のギャラリー隅、接客用ディスクに頬杖を付き、俺はひとり考える。
手を付けるべきか、付けざるべきか。

ギャラリーには当然俺以外の誰もいない。
「当然」というのは、いつも誰もいないように今日もまた、という意味であり、
本来なら絵を売る為の場所にいつも誰もいないのが「当然」ではないとは知っている。
それ自体も問題であるし、原因は俺の接客姿勢だとも気付いてはいる。
しかし現前する問題というのは、それ以外の件だ。

ギャラリー奥の接客場所は、扉一枚挟んで俺の作業部屋へと連なっている。
現在開け放たれた扉の向こうには、イーゼルに乗った描きかけのキャンバスが見える。
懸案の『パリ街路絵』、5枚目だ。

俺は、飽きていた。

完全に完璧に徹底的に、飽きていた。

実際のところ1枚目の時点から飽きていたそれと
寸分違わぬ同じものを5枚も描いたら心底ほとほと嫌になる。
しかしオーダーは30枚、可能ならそれ以上。
後半飽きないように一日一枚と決めて着手したわけだが、
こんなことなら初日に30枚描くべきだったのかもしれない。

あまりに飽き飽きした俺の心情の表れとして、
オープンテラスでカプチーノをたしなむ絵の中のカップルは、
5枚目に至ってはオランウータンと化していた。
「サルでも構わんだろう」と、ふと心に浮かんだ想いを手が勝手に描き出した結果だ。

まさかあれをそのまま納品するわけにもいかないし、いずれは塗り潰すわけだが、
人物のところだけ不審な厚い仕上がりになるのは明白だ。
それが不本意なら白地のキャンパスから描き直せばいい。
しかし、俺にその気力は無い。

溜息混じりに髪を掻き上げてみたりしつつ、俺は手元の紙束を取り上げた。
「問題その1」の対処法も思いつかないままに「問題その2」に逃げてみたわけだ。
ファイリングされた紙束の表紙には、横二倍角にタイピングされた文字でこう記されている。

『身上調査報告書 観世琴音殿』

別に俺が観世の身上調査をしたわけじゃない。
今更そんな事をしても意味が無い。
探偵社に身上調査を依頼したのが観世であり、
結果報告を受け取り、それを俺に転送してよこしたのがまた観世。

調査対象は仁井健一。
観世名義の豪邸にいつの間にか住み着き、
現在観世に屋敷の買取を打診しているという謎の中年男。

俺はファイリングされた紙の厚みを推し量るように、
ただバラバラと紙面をめくってページを目の前で通過させた。
敢えて中身が読めないようにめくるのは、読みたくないせいだ。
正確に言うなら、読むべきか読まざるべきか、俺は未だ迷っていた。

あの男の過去に踏み込めば、俺は俺自身の闇に踏み入る事になる。
それは単なる予感、俺の想像だ。

だが、ただの想い込みでもないとも、俺は知っている。

何故大金をはたいて、現在タダで居候している屋敷を手に入れたいのか、
俺になら話すとあの男は観世に告げた。
ヤツは俺を知っている。
俺はヤツを知らないのにもかかわらず。

ということはおそらく、
ヤツは俺が唯一記憶から消し去りたいと願う、
俺の過去の一点にかかわっている。
間接的にであるにしても、直接的であるにしても。

ならば。
真実を知った時、俺はヤツを殺すかもしれない。


あくまでも「かもしれない」という仮定の話だが、
冷静に考え直してみても、かなりの確率でそうなると俺は断言できる。

俺は詳細を知るべきなのか否か。

手を付けるべきか、付けざるべきか。

「問題その2」は「その1」よりいささか深刻だが、
答えが出る見込みも無い点で両者は等しい。
おまけに、答えが出ないと言いつつも
辿り着かざるを得ない回答すら、両者は酷似していた。
対極にあるものは、同一線上にあるという意味で酷似している。

つまり。
「その1」はヤればいいだけの話であり、
「その2」はヤらなければいいだけの話だ。

要するに、俺は「飽きた」だの御託を並べずにあと25枚、否26枚パリ絵を描けば良く、
また、真実を知っても尚、クソ野朗を放置しておけばいいだけの事だ。
敢えて言葉にしてみれば、難しそうでも何でも無い。

だが、俺にはどちらも無理だろう。

俺の事は俺が一番良く知っている。


行き詰った思考の逃げ場を求めるように、俺は冷めたコーヒーカップに手を伸ばした。
自然に視線が止まる先、俺の対面の机上には、もう一つ飲みかけのカップが取り残されている。
そう、ついさっきまで、その場所には客が居た。
ギャラリーの客ではなく、悟一の客が。

「会社の帰りに寄ってみただけ、約束はしてないの」と、
彼女は開口一番言い訳めいた台詞を口にした。
この店が閉まる頃にも悟一は戻らないと予期したような口振りだった。

この場で悟一に会えない事に馴れつつある彼女は、
行きつけの喫茶店で席に着くように、自然に俺の対面に腰を降ろした。
そして、会社でまたミスをして、また課長に怒られてしまったとか、
心底気落ちした様子で自分の失敗談を語った。

入社して何年も経たない女子社員を仕事上のミスくらいで追い詰めるとは、
その課長とやらはなんとも心の狭い上司だと言える。
しかしおそらく、日本の企業社会というものは
そういう狭量で屈強な戦士連で構成されているのだろう。
でなければ24時間も戦えるはずがない。

しかし俺は敢えては意見を述べもせず、5分に一度相槌を打つ程度。
そんな俺相手に彼女は失敗談のあれこれを小一時間も語り続け、
最後には「長々と失礼しました」と腰を折り、帰っていった。

悟一が戻るまで待ったらどうかと、俺は彼女に声をかけようとして、止めた。
所謂恋人同士という奴等に対しての俺らしくもない気配りというのは、
正解なのかそれとも不正解なのか、良く分からなかったせいだ。
イイ歳を過ぎた今でも、俺はそのヘンの按配が理解できないままでいた。
俺には過去に恋人がいた例しもない。

もしかすると8年程前に存在したあの男はその範疇に分類すべき人間だったかもしれない。
しかし俺達は何かを考えたり理解し合ったりするより先に、
怒鳴りあい罵倒し合い殴り合っていた。
あの頃の経験は全く参考にならない。
少なくとも普通の女性である悟一の彼女に関しては。

会社でミスを繰り返し、肩身の狭い想いをしている彼女が、
もし辞表を出したり、クビになったりした場合、
彼氏という立場の悟一は、一体どうするつもりだろう。
老婆心めいた心境で俺が彼女の不安要素に先回ってみたりするのは、
自分自身の問題に立ち返るよりも、他人のそれの方が多少気楽なせいもある。

倒れかかった彼女を抱き留めるだけの度量が、あの小猿に備わっているだろうか。
そしてそれ以前に、アイツ達はそういう事を話し合っているのかどうか。

大体が、会っているのかどうか。
充分にお互いの事を話し合う時間があるのなら、
彼女が叔父の俺などに延々と自分の失敗談を話すいわれも無い。

俺と悟一の関係を戸籍上正式に述べるなら血の繋がらない従兄弟だが、
それだと悟一に保護者が必要な場面で毎回観世を呼び出す羽目になる。
火薬倉庫兼火種のような女をそうそう呼びつけるのもいただけない。
だから法律上の手続き以外の場面では、俺は叔父ということになっている。

それはともかく、叔父だろうが兄だろうが父だろうが、
俺は悟一本人ではないというところが問題なわけだ。

そう言えば何故彼女は、悟一と時間の約束もせずに勝手に来て勝手に帰るのか。
俺が帰れと言わないせいか。
なら帰れと言えばいいのか。
それは違う。
多分。
なら帰るなと言えばいいのか。
しかしそもそもが俺がどう言えばいいという問題なのか。
違うと思う。
多分。

くだらない堂々巡りの思考を中断させたのは、「チリン」と涼しげに鳴る鈴の音だ。
街路に面したギャラリーの扉に仕付けられた鈴が鳴るという事は人が来たわけだが、
俺は「いらっしゃいませ」と腰を上げる代わりに煙草をくわえて火をつけた。
閉店間際のこの時間に、遠慮も無く飛び込んで来る人間はひとりしかいない。

「ただいまあ。」
「遅い!。それに裏から入れと言ってるだろうが。」
「だってこっちの方が近いし。門限ギリギリ。でもセーフ。」

8時という門限は確か、悟一が高校の頃に決めたルールだった。
部活で遅いのか車に跳ねられたのかそれとも食い過ぎで胃が破裂して死んだのかを判別する為に、
門限8時、それに遅れる場合は連絡を入れる事、と約束させた。
現在大学生でありしかも留年生である悟一に今更門限も無いだろうが、
俺は「もういい」というきっかけを逃したままで、旧い鉄則は存在し続けていた。
今となっては、門限よりデートでもして遅く帰って来いと言うべきなのかもしれない。

「何して来た。」
「バイト。」
「どっち。」
「運送。」
「そうか。」

生活を共にする者達の常として、俺と悟一の会話はそっけない。
言わなくても分かる部分が多過ぎるせいだ。
そして言うべき事を言い逃す。

ギャラリーの中央を早足で駆け抜け、2階への階段へと
俺の前を素通りしかけた悟一を、俺はいつになく敢えて呼び止めた。

そんな日も、あって然るべきだろう。



- 続 -
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