怒涛の打ち合わせを終えて、僕は自席に戻っていた。
手の中に抱え直したコーヒーカップは、今や完全に冷えている。

明日、再試行のジョブを流すために
承認を取らなければならない部署と担当者を
僕は頭でリストアップした。
脳裏には担当者の迷惑顔が浮かぶ。

この部署は早々に潰れた方が皆の為にもなるんじゃないか。
そんな想いが僕の胸に渦巻いた。

そもそもが、今や必要とされないシステムだ。
下請けが作った分散型システムの方が時代のニーズに合っているのだから、
思い切って全社的に乗り換えればいい。
電算部のトップである僕自身が提案すれば、
本社側も動きやすいのではないか。

「・・あの。」

小さな声に呼ばれた気がしてデスクから振り仰げば、
僕の傍らには岸が立ち尽くしていた。
虚を衝かれた僕は、意味の無い咳払いを繰り返した。
やましいような気分におそわれたのは多分、
今、この部署を見捨てる方向で事を考えたせいだろう。

「あの、わたし。すいませんでした。」

岸が僕の前で深々と頭を下げた。
癖が無くパーマもあてていない肩までの黒髪が、
泣き過ぎて腫れた彼女の目を隠して覆い被さった。

僕は、彼女が苦手だ。

決して、嫌いだというわけじゃない。
彼女は外見も愛らしいが、それ以上に、
最近の若い女性としては稀な程に素直で純真だ。
彼女を嫌う男などこの世に存在しないだろう。

礼儀も正しく、ふとした物腰には上品さが感じられる。
おそらくは良家の出に違いない。
皇族と御学友だという嘘か本当か分からない噂もあるが、
彼女が学習院卒だとしても不思議な気はしない。

「いいよ。別に謝ってほしいわけじゃない。
僕としてはトラブルが収束すれば、それでいい。」
「・・はい。」
「それで、同じ過ちが繰り返されなければ、尚好ましい。」
「・・はい。」
「だから、今月分の確認作業を続行してくれますか。」
「はい。あの。」
「なんですか。」
「わたしのせいで、みんながクビになったりしたら、わたし・・。」

彼女は、危険だ。

僕が遠い過去に置き去りにしたはずの何かを、彼女は僕に思い起こさせる。
振り返るわけにはいかない。
振り返ったら最後、僕は走り続けられなくなる。
過去に置いてきた何かを、手放して逃げ出した場所を
僕は決して思い出すわけにはいかない。

「大丈夫。」

焦り気味に僕がそう答えたのは、彼女を安心させるためだろうか、
それとも単に、過去に舞い戻りそうな自分の意識をこの場所に引き戻す為だろうか。
いずれにしても、「大丈夫」と彼女の前で断言することによって、
できれば使わずに済ませたかったカードを切ることが、僕の中で決定してしまった。

「大丈夫だから。」
「でも・・。」
「キミが気にしてるのは、もしもの場合の同僚の処遇だろうけど。」
「・・ええ。」
「こう見えても僕、コネが無いわけでもないんだ。」
「え?。」

僕は彼女の方に身を乗り出して、芝居がかった風に声を潜めた。

「旧世代のメインフレームは昨今のIT化寄りのニーズに対応できない。
キミのミス云々以前に、この部署はそう長くはもたないだろう。
でも、その場合の社員の身の振られ方は、僕がどうにか悪くないようにする。」
「でも、そんな・・。」
「そう。そんな力は僕にないけどね。
イザとなったら僕じゃない人間の権力でも、何でも使ってなんとかするよ。
確約はできないけれど、最大限努力はする。多分、どうにかなるだろう。」

彼女は少し目を見開いて僕を見つめた。
その目はまだ腫れ上がっていたけれど、瞳にはもう希望と活力が戻っていた。

「だから、キミも確認作業をがんばってくれるかな。」
「ハイ!。」

一度勢いよく頭を下げたあと、
彼女は口の端を引いて僕に笑顔を見せてくれた。

パタパタと立ち去る彼女の後姿に残像として重なった健気な笑顔は、
僕の中で、置き捨てた過去の少年と重なっていた。

振り返るなと、僕の胸の内で警鐘が鳴り響いた。
後悔に絡め取られて身動きできなくなる前に、為すべき事があるはずだった。
僕は頭の中で善後策の優先順位を考える。
先ずは、今の彼女との約束を反故にしない為にも、
気の進まないカード、つまりスペードのクィーンに連絡をつけることだ。

胸ポケットの手帳を取り出してクィーンの連絡先を確認する。
慣れない11桁の番号をダイヤルしながら、
そういえば自分からかけるのは初めてだと、僕は今更気付いていた。

「ああ、美香さん。僕です。
ご無沙汰してました。すいません。ええ、仕事の方が忙しくて。
ところで、今晩いかがでしょう、洒落たワインバーを見つけたんです。
きっと美香さんにも気に入って頂けるかと。
ええ。じゃあ今晩8時に。宜しくお願いします。」


◇◇◇


「めずらしいじゃない?、アナタから声をかけてくるなんて。」

ええ下心がありまして、と言うわけにもいかない。
僕は曖昧な笑顔で誤魔化した。

午後8時のワインバーは客の入りも上々だ。
会社から予約を入れたのは正解だった。
テーブル席ではなくて敢えてカウンター席を予約したのも正解と言えた。
コートを脱いだ彼女の装いは、いつも通りに水着まがいの露出度だった。
まともに向かい合わせて座ったら、目のやり場が無い。

横に並んだ僕達の後ろを通って奥のボックス席へと出入りする客達が
僕達を好奇の目で眺めつつ移動する姿が、幾度となく僕の視界の隅を過ぎる。
女優かセレブか露出狂かといういでたちの彼女は、とにかく人目を惹く。
そして彼女の桁外れの派手さに全くそぐわない僕という連れの有り様がまた、
他人の好奇心に火をつけるというわけだ。

「知らなかったわ。アナタがワインをたしなむなんて。」
「はは。」
「それで、お勧めは何かしら。」
しまった。
そちらの下調べが間に合っていなかった。

僕がたしなむのはワインといっても料理用の2級酒の方で、
それも敢えて飲むというよりは、調理の合間に口をつける程度だ。
みりん製造メーカーの料理酒はダメで、輸入物のこのブランド、という僕なりのこだわりはある。
しかし小洒落たワインバーで料理酒のメーカーを口にするわけにもいかない。

「マルケス デ リスカルはいかがですか?。」

僕の戸惑いを感知したのだろうか、初老のバーテンが彼女に声をかけた。
この場所ではソムリエと呼ぶべきなのかもしれない。
男の窮地を救うこんな人間こそが、接客業の鏡だと僕は思う。

「30ヶ月にわたる樽熟、さらに6ヶ月の瓶熟。
ヴァニラフレーバーが上品で、エレガントなお嬢様にお似合いかと。」
「素敵ね。それいただくわ。」
「お連れさまは何を?。」
「あ。じゃ僕もそれで。」

僕の方は全然エレガントでもないわけだけれど、
銘柄も知らないので他に頼みようが無い。

「ここは、初めてですか?。」
「ええ。」

人の良さそうなバーテンにうっかり答えて気付いたが、
女性を誘い出したその場所が初めてというのも、おかしな話ではないだろうか。
自分の失言をとりなすように、僕は慌てて言葉を継いだ。

「僕が学生の頃、ここは喫茶室でして。」
「ああ。その頃にお通いでしたか。」
「ええ。」

実際中に入ったのは3度だけだが、僕は適当に話を合わせた。

この近辺を通るたび、喫茶室のビルを見上げるのは僕の癖だった。
だから、喫茶室の看板が下りた事にも気づいていたし、
その後、ワインバーのネオンが掲げ直されたのも知っていた。
そう、もう『彼』はいない。。
赤い長髪には似合わない詰襟に蝶タイ姿の『彼』は、
もはや僕の記憶の中にしか存在しない。

生涯2番目の想い、
そして最後の恋。
あんなふうに誰かを好きになることは、もう決して無いだろう。

「私は改装後すぐに入ったんですが、当時は確か、ピアノが置かれていたでしょう、
搬出が大変で、改装後もしばらくはここにあったんですよ。」
「へえ、懐かしいな。白いグランドピアノでしたね。」
「そうそう。インテリアとしても悪くなかったんですが、客席が足りなくなりましてね。」

「ピアノが弾ける男の人って、素敵だと思うわ。」
「そうですか?。」
「井野さん、音楽の方は?。」
「僕はしがないサラリーマンですから。」
「サラリーマンがピアノ弾いても悪くないでしょう?。」
「まあ、そうでしょうけど。」

僕は彼女との会話で嘘ばかりついている。
意図しているわけでもないのに、何故だろうと僕自身思う。
ふと2人の間に忍び込んだ沈黙を誤魔化して、
僕は差し出されたワイングラスに手を伸ばした。
ソムリエがエレガントと評したヴァニラ臭は
樽の木の香りともあいまって、熟成された腐食感をかもし出す。
僕の勝手な感想を言えば、お世辞にも上品とは言い難い。

「ところで、アナタもわたくしに何かお願いがあるの?、井野さん。」

僕は口に含んだばかりのワインを鼻から吹き出すところだった。
かろうじて持ちこたえられたのは、慣れない味の抵抗感のおかげだ。

「アナタ『も』、ですか。」
「男の人がわたくしを呼び出す時って、
お父さまにお願いしてほしい事のある時だもの。」

お願い事が無いわけでもないことを隠しもしない僕の厚顔振りを非難する替わりに、
彼女は彼女の真実を述べていた。
僕の良心のカケラが痛まないと言ったら嘘になる。

「アナタ、本社の総務から別ビルの部署に転属になったのよね?。」
「良くご存知ですね。」
「アナタを紹介されたとき、真紀に聞いてるわ。」

真紀というのは本社時代の僕の上司であり、
僕にセクハラを仕掛けた獰猛な女性だ。
父親は某財閥系列の百貨店の社長。
つまり彼女は大手取引先の娘という立場で職に就いていた。
しかし彼女は去年、親の決めた政略結婚に乗り、円満退社した。

僕はその後、「もういらなくなった玩具」として彼女の友人である美香さんに引き渡された。
美香さんの父親は日本のホテル王と呼ばれる大富豪であり、当銀行の株主でもある。

「アナタの配属された別ビルの部署、何でしたっけ。」
「電算部。」
「そこって、もう長くないのよね?。」

僕が苦笑したのは何かを取り繕ったわけでもなく、自然な感情の顕れだった。
僕自身があの部署は長くないと読んでいたのも事実だが、
社外の人間までがその事を認識しているということからすれば、
事態は僕が想定するよりも先を行っているのかもしれない。

「そういう、ご相談かしら?。」

本社に戻りたいとか、そういった僕の人事に関する依頼があるのかと
彼女はストレートに聞いていた。
この時点で何をどこまで話すべきか。
僕は彼女を見つめて、マスカラとアイラインで武装された目の奥を探った。
僕の『お願い』が、僕自身に関すること以外だと知ったら、
彼女は協力的になるだろうか、それとも、怒るだろうか。

駆引きには少々慣れている。
重要な案件なら「事後」の方が円滑に運べると僕は知っていた。

「そろそろ、出ましょうか。」
「もう?。」
「ええ。話は後でもかまわないでしょう?。」

どうせこれからホテルに寄るのだと、僕は至極当然のように仄めかした。
僕の無粋な誘いを非難することもなく、彼女は隠微に微笑んだ。

「そうね。」

僕が片手を上げてギャルソンに退出の合図を送ると、
白黒の制服に身を包んだ店員が彼女のコートを持参する。
女王様まがいに店員にコートを羽織らせた彼女の脇で、
僕は気の効く秘書よろしく彼女のカバンを抱えて傍らに立つ。

「タクシー呼びますね。」
「ええ。」

僕は出口に向けて彼女の背を軽く押した。

「アナタとは、久しぶりね。」

僕に寄り添って呟いた彼女の吐息には仄かな熱がこめられていた。
僕以外もカウントすれば久しぶりでもないことになるが、
それは僕が気にする筋合いでも無い。

出入り口ドア脇の壁時計は、午後8時半を指していた。
これから残業代のつかない時間外労働が始まる。



- 続 -
     .


□□ここまでのお付き合いありがとうございました□□

数年後の彼らの立ち位置を示すための『序章』でして、
この時点では3人が3人なりに道を少々間違ってるんです。
そんなわけで後味すっきりしなくてすいませんでした。

3人、ぢゃなかった4人が出会って、曲がった道も
(彼らなりに)真っ直ぐになる予定なんですが果たして。

続きもお付き合い頂けたら嬉しいです。
ありがとうございました!。
Return to Local Top
Return to Top