「おはよう。」

型通りの朝の挨拶を口にして、社員が詰めるオフィスを奥へと進む。
おはようございます、とあちこちから返る声には適当に頷き返す。

僕の席はフロア一番奥の窓際。
デスクの前には背の高いパーティションを据え置き、
一般社員の机とは区切りを付けている。
配置は僕自身が決めた。
電算部課長代理補佐、つまりこのフロアでトップの立場である僕が
職権を濫用したのは、窓際のこの場所を確保したことくらいだ。

フロアの見通しを悪くするパーティションは僕自身の為でもあり、社員の為でもある。
職員の面々は一応の管理職である僕の視線を四六時中感じて過ごさずに済むし、
僕自身もその方が気楽だ。

「失礼します。」

僕が窓際の席に腰を降ろしカバンを床に置くそのタイミングで、
女子社員の一人がコーヒーを片手にパーティションの隅から顔を出す。
園部静香。
彼女が軽く腰を折って僕の前にカップを置くと、
派手にレイヤーの入った長い髪が空気を孕んで大きく揺れる。
同時に強烈な香水の匂いが僕の周囲に充満し、コーヒーの芳しさを一蹴する。

「ありがとう。」
「どういたしまして。」

彼女は技術職なのにもかかわらず、営業畑の人間も顔負けの
華やかな笑顔で僕ににっこり微笑んでみせる。
その後彼女はあっさりと踵を返し、パーティションの向こうにその姿を消した。
毎朝同じ時間、同じ挨拶、同じ笑顔。
自動でドリップされるのをカップに入れただけのコーヒーも勿論同じ味。
しかし、その事を虚しいとは感じない。
会社勤めとはそういうものに違いないと考えた上で自ら決めた就職だった。

業務の方も、同様に単調な事務作業の繰り返し。
・・そうなるはずだった。
少なくとも3年前まではそうだった。
一平社員として本社ビルに常勤していた頃は。

「あのお。」

パーティションの端から、困り顔の男が僕をのぞきこんでいた。
このフロアで実務を束ねる男、新田。
若い頃は暴走族の総長として100余名の不良を束ねていたという経歴の彼が
どういう成り行きで都市銀行に就職したのかは不明だ。

彼は特別頭が切れるわけでもないかわりに後輩の面倒見が良く、
仕事振りは真面目で、実直な性格上嘘がつけない。
そんな彼の困り顔は、今朝一番のトラブルを僕に示唆していた。
確か本日は、昨日でテストランを終えた前月分のプログラムを流す予定だった。

「本番環境に何か問題でも?。」
「いえその。」
「キミの顔色でトラブルが発生したのはもう分かる。はっきり言ってくれ。」
でないとこちらの胃が痛くなる。

実際既に僕の鳩尾のあたりでは内臓が収縮を始めている。
何故、教育学部出身の僕を電算部なんかに回したのか。
銀行には文系の人間向きの部署が幾らでもあるというのに。

僕は本社の総務で雑務に明け暮れて生涯を終えるべき人間だった。
電球が切れたら即座に変えるし、在庫管理は付箋からコピー用紙まで完璧に目をいき渡す。
領収書の明細は「交通費」程度では決して通さない。
タクシー代なら移動目的と移動の必然、果ては行き先までチェックする。

電算部で問題が発生する度に、僕は配属を変えた上層部に心で毒付いている。
しかし何故と問うまでもなく、答えは僕自身が知っていた。
子会社化された別ビルの電算部は、本社の出世ルートから大きく外れている。
つまりはそういうことだ。

昨今のIT化の流れを受けて、本社は下請けのソフトハウスにオンライン用のシステムを構築させた。
構築当初は利用時間も機能も限定された簡易的なものだった。
しかし要望に対処するかたちで改編を重ねること数年、下請けが作ったシステムは、
処理能力、速度、操作性、全てに於いて従来のシステムを抜いた。
バッチ処理主体のメインフレームはもはや旧時代の遺物であることが誰の目にも明らかになっていた。
本社は電算部自体を切り捨てようと、時期をうかがっている。

いずれなくなるかもしれない部署の管理など、誰も好んでやりたいとは思わない。
そこで、決済にウルサイ僕に白羽の矢が立った。
僕は「課長代理補佐」という馬鹿げた肩書きを押し付けられて、
一応は栄転の体裁で電算部に配置変えとなった。
今頃本社ではデタラメな明細の領収書が決済されまくっているのだろう。

「あの。今日の本番ジョブ、流した途端に止まりました。」
「・・具体的な現象は。」
「端末が『Fatal Error』を吐いて、それきり。」
「・・。」

僕の胸の中で、考えられる要因と調べるべきパターンとテストすべき項目と
為すべき処理と善後策に僕が回るべき部署の数が渦巻いた。

吐き出された数値に問題があるというのではなくてプログラム自体がが止まったという事は即ち、
無限ループにはまったとが、ゼロデバイス、割り算の分母が何らかのタイミングでゼロになったとか、
つまりはその手の初歩の初歩的な、かつ、致命的なエラーが発生したということだ。
そして、そういうエラーを起こす人間は、この部署にひとりしかいない。
岸理恵。
去年この部署に新人がいなかった為に、彼女は今でもフロアで一番の若手だが、
今年晴れて2年目となった彼女はまだ新人と言えるのかどうか。

「・・また、か。」

ふと僕の口を突いた愚痴は、また彼女か、と、そういう意味だった。
小さな呟きを聞き逃さなかった新田は、僕の目の前で露骨に眉根をひそめた。

「この部署で起こったトラブルは誰の責任ということでなく、
部署自体の責任だと、俺は思います。」
「わかってるよ。」
「だからこの問題の対処は特定の誰かではなくて」
「それも分かってる。」

張本人である岸ひとりに対処を求めるのは可哀想だから
自分も尻拭いをすると、新田はそう言っている。
つまりは彼も、トラブルの原因が誰なのか調べる前から感付いている。

面倒見が良くて責任感が強いのは結構な事だろう。
しかし一人でできるはずの仕事を二人でやって工数を2倍使えば収支はマイナスだ。
僕達は何かを学ぶためにこの場所に集っているわけじゃない。
単に、給料分稼ぐ為だ。
しかし僕はその苦言を飲み込んだ。
概念論で説教する前に為すべき事がある。

「今後の対応を皆で話し合う。そっちに行くから席に戻ってくれ。」

僕の短い指示に新田は小さく目礼し、自席へと戻った。
パーティションという衝立で区切られたスペースには、もう僕しか存在しない。
誰にも見られていない安堵に手伝われ、僕は頭を抱えて大きな溜息をもらした。
うんざりだった。

気付いて見れば、机の上には冷めたコーヒーカップがひとつ、
手付かずのまま残っている。
飲みたいというよりは単に気を落ち付かせるために、
僕はカップに口をつけ、暗い色の液体を流し込んだ。
マズいなあ、と、そう思う。

マズいなら、自分で手で淹れればいいと分かっている。
僕が自分でそういうことをしなくなってもう何年経つだろう。
その手の事には多少のこだわりがあったような記憶がある。
僕が最後に自分でコーヒーを淹れたのはいつだったろう。

「あの〜。みんな待ってますけど。」

パーティションの向こうで、僕を待ちかねた新田が声を大にして叫んでいた。
僕は手の中のカップを置いて、机上に並び立つバインダーから
手早く資料を取りまとめると、どうにか重い腰を上げた。
これからちょっとした一騒動だ。


- 続 -
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