モンマルトルの通りに面したカフェテラス、
楡の木陰が柔らかく陽射しをさえぎるオープンコート。
小型犬を連れた散歩がてらの通行人がしばし足を休め、
薫り高いカプチーノを片手に、仲間と芸術論なんかを語り合う。

俺自身は見たこともない光景だ。

「パリの路上で売られているような風景画」
某大手デパート展示即売会用の大量発注は、そういうオーダーだった。

芸術家は皆、パリに留学するものと相場が決まっているらしい。特に絵描き。
3軒隣のコンビニに弁当を買いに出るのも億劫な俺に、パリは遠すぎる。

発注先からの電話で「パリの路上云々」と告げられた時には、断る事を考えた。
今回の受注は大手デパートで半年にわたって開催される即売会フェアの展示物であり、
その半年の間に12枚以上、可能なら30枚というオーダーだった。
パリに行ったこともない上に、死ぬまで行く気もない俺が受けていいオーダーなのかどうか。

「明日までに下絵を描くから、それを見て依頼するかどうか決めろ」
そう告げて、俺は発注担当の電話を切った。

翌日、自分で描くと言ったくせに、俺は描いていなかった。
見たこともない街など、描けるわけがない。
だが「仕事は断らない」というのが、俺のモットーでもあった。
絵は俺の仕事であり、俺と世界との唯一の接点だ。
相変わらず人との付き合いに煩雑さ以外を感じられない俺が
俺自身に課した唯一の課題だった。

見に来いと言われてわざわざ出向いてきた男を前にして、俺は今更ながらに絵筆を取った。
行ったこともない街なんざ描けるかと御託を述べるかわりに、
昨日は急なオーダーがあったとか見え透いた嘘を呟きながら、
手早くパレットにいつもの赤を溶く。
狂った赤の隣には静寂の紺を一絞り。
2色の小山を混ぜ合わせれば、なだめたはずの情念は
紫という、より一層気違いじみた色になる。
それを更に多過ぎる量のテレピンで溶く。
不思議にも溶油で薄めるだけで、パレットの上の狂気は薄らいでいく。
何であれ、薄めておけばそこそこ無難だということだ。

下絵に薄い紫を使うのが俺の癖だ。
昔は目に刺さるような赤で描き殴っていた記憶がある。
俺の癖が変わったのはいつの事だろう。
赤い髪の男が俺の前から姿を消した頃か。

「正直、パリなんざ行ったこともないが。」

言い訳めいた台詞を口ごもりながら、俺は想像上のスカした街を描いた。
賑やかな通りに面したレンガ作りのカフェ、大振りの街路樹がオープンテラスに影を落とす。
スクリーンシェイドには店のロゴが入っていたりするだろうか、「le penseur」。
思索好きのフランス人がインテリな会話に花を咲かす。
全体を遠景にしたから、彫りの深い顔立ちの表情までは分からなくて正解だ。

「軽く、色を置いて頂けますか。」

俺の背後に立った買付担当の男がそう注文を出した。
微かに声が震えているのは、俺の想像のパリが全然全くパリではないからに違いない。
腹が経つ程期待外れなら、発注を断ると一言告げてもらった方がこっちも手早く事が済む。
しかしわざわざ足を運ばせたのに約束したものを今頃描いている具合の悪さが俺の口を鈍らせた。
俺は注文どおり、キャンバスに無難な淡い色を乗せた。
木は緑、空は青。
店のレンガはレンガ色、舗装路はグレー。
バカみたいな絵だ。

「す、素晴らしい!。」
「野郎。ナメてんのか貴様。」
「は?。」

しまった。しくじった。
つい地が出た。

「イヤ。独り言だ。」

「素晴らしい。見事としか言いようが無い。私には理解できる。」
「・・そーか?。」
「この街並みにはまさに、パリ以上にパリがあふれている。」

言ってる意味が分からない。
俺はバカバカしくなって煙草をくわえた。
うっかり口を開いたら、社会人らしからぬ罵詈雑言を述べ立てそうだった。

「是非これを。」
「コレは下絵だ。しかもまだラフ過ぎて分からんだろう。」
「コレでいいんです。コレがいいとも言える。」
「・・。」
「コレ以外ではダメと言っても過言ではなくまた」
「分かった。もういい。」
「半年で30枚。可能ですか?、こちらとしては40枚でも50枚でも。」
「・・。」

男がイイというコレは、見ての通りざっと5分で仕上げている。
俺的には下絵でしかない絵だが、ソレでいいというなら1時間で12枚描ける計算になる。
6時間なら72枚。

「ご無理は決して。では初回の契約は30枚で結構ですから。」

俺の沈黙は一体どう解釈されたのか、俺が答える以前に枚数は決まった。
正式な契約には別担当来るとか初回受取日はいつとか、詳細を一気に述べ立てた後、
男は汗ばんだ手を差し出して俺の手をガッチリと握った。
一枚当たりの金額は前日の電話で既に提示されている。
つまり、商談は成立した。

男が帰った後、俺は「コレがいい」と言われたソレを改めて見直した。
俺はキャンバスの前で足を組み、また組みかえて、
少々背を反らせて離れてみたり、また前屈みになって寄ってみたりもした。
しかしどこからどう見直しても、やはりソレはつまらなかった。

俺は絵筆を持ち直し、コレでいいと念を押されたソレに僅かに手を入れた。
植え込みの木の中の隅の一本だけ、陰を逆向きにする。
カフェで議論するカップルの視線はその影を追わせた。
逆向きの影という本来なら有り得ない現象の前で、
オープンテラスの2人は認知と実存についての議論をたたかわせる。
認知が先が実在が先か。
実在が即ち根拠か、はたまた認知自体が実在の根拠か。
観念論に囚われた2人は、目の先の不思議な影に寄ってみようとは考えもしない。

俺なりのささやかなアイロニー。

大学を出て6年、つまらない仕事にも面白味を探し出そうとする姿勢は身に付いていた。
その程度には、俺も大人になったということだろう。

◇◇◇

30枚の受注が確定した日から3日後の今日、
俺は「パリ路上絵」3枚目に着手していた。
その気なら一日で終わる30枚だが、一日一枚と決めていた。
でないと後半暇になる。

白いキャンバスにひとり対峙して、床と水平に伸ばした腕で筆を握る。
キャンバス地特有のざらついた感触を確かめながら、絵筆を縦横に走らせれば、
テレピン過多の薄い紫が、白い布の上に大雑把な街の構図を浮かび上がらせる。

仕上がりの決まった似たような絵を何枚も描くのは退屈だ。
だが、その程度が望ましいのかもしれない。
俺の右脇、薄く開け放ったドア向こうの部屋はギャラリーであり、
作業中の俺は店番も兼ねている。

俺は俺らしくもないことに、自分のギャラリーを構えていた。
二十畳程の店内に俺自身の絵を飾り、俺が売る。
絵を仕事にすると決めた、その決意をカタチにしたわけだ。

俺が大学を出た次の年、高校を卒業した吾一は私大のサッカー部に引き抜かれた。
転機だろうと、そう思った。
俺は高層マンション最上階の部屋を売り払い、
少々奥まった通り沿いの一戸建てを現金購入した。
元々は歯医者だった家の一階をギャラリーと作業部屋に改築し、住居は2階部分にまとめた。
そんなこんなのおかげで、死ぬまで遊んで暮らせたはずの親の遺産も底を付きかけた。
食う為に、働かざるを得なくなったということだ。
そういう状況に身を置くこと自体が目的でもあった。

世界へと、俺自身が手を伸ばす必要があるのかもしれない。
俺にそれを気付かせたのは、遠い昔に出会った赤い髪の男だった。
しかしその男は8年前に俺の前から姿を消した。
それからヤツは戻らない。
戻るはずもない。
最終通告を言い渡したのは俺自身だ。

もし、今の俺なら。
今の俺なら、ヤツを追い出すこともなく、
どこかに妥協点を見いだせただろうか。

ふと浮かんだ想いに衝かれ、俺はキャンバスの上で絵筆を止めた。
多少は成長したかもしれない今の俺ならば、
ヤツとの諍いを、ただのくだらない喧嘩に留めておけただろうか。

差し出された腕に、身を委ねる事ができただろうか。

くだらないことを今更考え直してみれば、
実際俺はさほど成長していないのだと俺自身が確認する羽目になった。
具合の悪さに後押しされてか、俺は一度引いた線を無意識に繰り返してなぞっていた。
白い布の上、淡い紫に浮かび上がる退屈な構図が
俺の目の前でそのつまらなさ加減をより強調していた。

事実、ギャラリーを構えてみたところで、
人付き合いが苦手な俺に接客などできるわけも無く、
店番をしながらも心の底では誰も来ないことを願っていたりする。

そんなわけで店には看板も無く、当然いらっしゃいませの文字もない。
絵自体も左右の壁に10枚程掛けてあるだけで、置き絵は無い。
通りと屋内を隔てる壁はガラス張りだが、
角度から考えても、通りを歩く人間に内壁は見えづらい。
見えないかもしれない。
つまり、この場所を見かけた通りすがりの通行人が、
ココを絵を売る店だと認識する確率はかなり低いと推測できる。

どうにかすべきだとは、俺自身思う。
思ったまま6年が経過して今に至る。

◇◇◇

そして誰かが俺の非成長ぶりを如実に証明しようと企んだのか、
小さく、しかし確実に、鈴の音が鳴った。
「チリン」と響く爽やかな音色は、俺にとっては灰色の音だ。
鈴はギャラリーの扉に下がっている。
鈴が鳴るという事はつまり、客が来たことを意味している。

作業部屋のドアの隙間から、俺は隣部屋の店内を覗き込んだ。
本来なら「いらっしゃいませどんな絵をお探しでしょう」などと
揉み手で出て行くべきなのだろう。
しかし俺はと言えば、反射的に侵入者を睨みつける癖がある。
無意識に威嚇しているとも言える。
しかし無意識も繰り返されれば無意識とも言い難く、
実は意図的かもしれないと、最近は自分でも思い始めた。

「こんにちわあ。」

俺は作業部屋の丸椅子に腰を下ろしたままで、ドアの隙間から侵入者の姿を確認した。
壁にかかる絵には一瞥もくれずに、真っ直ぐ奥へと歩み来る若い女。
切り揃えられた黒い髪が肩の上にかかり、直毛の毛先を揺らす。
古臭く見える髪形も、よく動く大きな瞳のおかげで重さを感じさせない。
その女に俺は見覚えがあった。

「あのお。吾一くん、帰ってます?。」

吾一の彼女だ。
彼女がここを訪れるのは初めてでもない。
多少拍子抜けの気分で、俺は絵筆を放り投げた。

「今日はバイト早く終わるかも、って言ってたんだけど。」
「いねーぞ。」
「そうですか・・。」

俺は丸椅子から腰を上げ、一つ大きく伸びをした。

「じき戻んだろ。まあ、座れ。」



- 続 -
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