昼に降り出した雨は、結局一過性の通り雨だったらしい。
教養の全コマが終わる頃には街路の舗道も乾いて、
僕が踏み出したアスファルトは硬めの靴音を響かせる。

大学の最寄り駅から電車を乗り継いでアルバイト先の世田谷へ。
通勤ラッシュも過ぎかけて、座席はまばらに空いていたが、
僕はドア付近に立ち、暮れゆく街の景色なんかを眺めてみる。

夕暮れの赤は危険だ。
押し込めていた感情を思い出しそうになる。

胸のあたりに絡みつくショパンのノクターンを振り切って、
頭の中で意図的に前のめりなリズムを刻み込む。
同じピアノのソロでも、そう、例えばビル・エヴァンズ。
吐き気がしそうに強烈な自我もテクニックで濾過すれば至高の宝石。
繊細に、精密に。
狂おしい程に世界を求めながらも、前傾のビートでひたすら内面へと落ちていく。
ただ、振り返らないために。


駅の改札を出て、家庭教師先の豪邸へと歩き出した僕の胸のポケットで、
電源を切り忘れていた携帯が鳴った。
今、彼女の声を聞くわけにはいかない。
申し訳ないが電源を落とそうと、手にした小さな電話機に表示された着信番号は
僕が予期した誰か以外のものだった。
安堵と同時に失望を感じたかもしれない自分に、僕は繰り返して失望する。

大抵の事は今まで要領良くこなしてきたはずだ。
この僕ならば、感情すらも意図のように繰れないはずはない。

「はい。」
「あ、戒而?、俺。梧譲だけど。今日晩メシいらねーわ。」
「そうなんですか。」
「急なバイト入っちまって。でさ、お前も来ない?。」
「どこですか?。」
「阿佐ヶ谷のライブハウス。俺は酒出すだけ。」
「ああ・・。いいです僕。遠慮します。」
「なんで。」
「ああいうとこ、音デカくて頭痛くなるから。」
受話器の向こうで、梧譲が溜息を漏らす気配がした。

「そう言うと思ったけど。ライブの後は朝までパブタイムだから。
気の向いたメンバーがジャズなんかやる程度でウルサくないよ。」
「はあ。でも僕もこれからバイトで。」
「家庭教師だっけ、そっちアガってからでいいよ。こっち夜中過ぎまでやってんし。」
「はあ。」
「部屋で一人で湯呑みなんか抱えててもつまんないっしょ。」
「ええと。」
それは僕的には趣味の範疇なのだけれど、僕がそう言うより先に
「早く来いよ」との捨て台詞で、通話は一方的に切られた。

まいったなあ、と、そう思う。

おそらく彼は僕に気を回したのだ。

得体の知れない怪我人を自宅に連れ込むのみならず、
夜に一人で退屈するかもしれない居候を気遣う家主が他にいるだろうか。
しかも彼は殆ど無意識にそういう気配りをやってのけるから、
良く知らない人間が彼を見れば、彼はただの調子のいい遊び人に見える。

しかしまあ彼の優しさには感謝するとしても、
僕がそういったたぐいの場所が苦手なのもまた事実なわけで、
部屋で一人で湯呑みなんかを抱えてた方が落ち着ける僕としては
果たしてどうするべきかと思いあぐねてみる。


たいして考えもまとまらないうちに、僕は目的地の豪邸の生け垣の一端に辿り着いた。
木の生け垣で遙か遠くまで囲われた邸宅は、何度見ても広いとしかいいようが無い。
敷地の隅には辿り着いたが、正門までは遙か先だ。

と、その遙か先に、立ちつくす小さな人影が見えた。

「戒ちゃん!」

叫びながら僕に駆け寄ったのは、今や良く知った少年。
ひと月も前から僕達は週に2度は顔を合わせている。

「戒ちゃん!。待ってたんだ。」
「どうして?。」

何故彼は外に立ちつくして僕を待っていたのだろう。
家の中で何かあったのではないかと、そんな不安が僕の脳裏を掠めた。
何かしら家庭の事情がある少年だとは、紹介された学生課に聞いていたが、
実際中に入ってみれば少年と家の者との折り合いは想像以上に悪く、
保護者的立場の義理の妹とやらと僕は、彼への接し方について衝突したことすらある。

「オレ、引っ越したんだ。」
「まさか・・」
「施設じゃないよ。」

「だってあなた他に。」
「親戚がいたんだ。」
「どういう関係の?。」
「ん・・なんだっけ。」

悟一の今までの経緯は、雑談として本人から漏れ聞いただけだ。
うかがい知れた範囲で推測するならそれは、施設をたらい回しにされた挙げ句に
この豪邸に辿り着いたという事くらいだが、またしても無責任な大人の都合で
いたいけな瞳の少年の身の振り方が決められたのだろうか。

「大丈夫だよ。」

僕の不安を先読みしたように、悟一は僕を見上げて笑った。

「そいつ、すげーきれいなんだ。」
「綺麗?。」
「うん!。」
「・・なんだか胡散臭(うさんくさ)いなあ・・。」
「ホントだって!。」

どうも僕は綺麗づいているらしい。
矢緒音に於いては僕自身が綺麗なひととやらと暮らしている事になっているわけで、
悟一を連れ出したという親戚の綺麗な人とやらが怪しく思われてならないのは一体、
僕の同居人が胡散臭いからだろうか。

「な、今度、戒ちゃんとこ遊び行ってもいい?。」
「僕の家ですか?。」
「うん!。」
「困ったな、僕、家出中なんだけど・・。」
「え?。」
「イヤ、その、いいですけど。」
「住所教えて!。」

何故かご機嫌な悟一のノリに押されて、僕は手帳の切れ端に住所を走り書きした。
勿論、自宅ではなくて、梧譲のアパートの方。

「サンキュ!。」

僕の差し出した紙片をジャージのポケットに押し込んで、
悟一は満面の笑顔を見せた。

「へへ。戒ちゃんきっとびっくりすんぜ。」
「?。」
「じゃ、オレもう帰んなきゃ。」
「・・あの。」

僕が何かを問うより先に、悟一はもう駆けだしていた。

「またなっ!。」

振り向いて手を振ったご機嫌な声音につられて、僕も何となく手を振り返した。
人通りも少ない夜半前の住宅地、悟一の後ろ姿は路地の角を曲がってすぐに消えた。
何が起こったのかうまく把握できないままで、僕はその場に立ちつくしていた。

(まあ、良かったの・・かな。)

この豪邸の閉塞した雰囲気の中で、
週に2度の僕との授業を、悟一はそれなりに楽しみにしていたはずだ。
しかし今や、新しい生活の事で彼の頭は一杯らしい。

悟一を連れ出したらしい「親戚」とやらがどんな人間かは気になるところだけれど、
多少胡散臭い人物であれ、悪くない人間に違いない。
そうでなければ、悟一をあんな風に明るく笑わせることはできないだろう。

既に見えない後ろ姿に振り続けたままの自分の手に気付いて、
誰に見られたわけでもないけれど、僕は具合の悪さに咳払いなんかしてみたりする。
週2回の授業を楽しみにしていたのは、案外僕の方なのかもしれなかった。

夕刻の赤すら薄れて、もはや闇に呑み込まれそうな街頭で、
僕は一人所在なく、腕時計で時間など確認してみる。
授業がキャンセルになった今となっては、
「バイトが長引いて」という口実も使えそうに無い。

もう一人の「綺麗なひと」のところへ、手伝いにでも行く他なさそうだ。


- 続 -
 


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