10



JR阿佐ヶ谷駅前、古びたゲームセンター地下の2重扉の前で、
既に僕は来たことを後悔していた。

防音のために、こういった施設は2重扉になっているのが普通だ。
しかしその2重扉の前でさえ、暴力的な重低音が悪魔の鼓動のように漏れ響いている。
中では阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられているのに違いない。

地獄への扉を自身の手で開く前に、やはり戻るべきではないかと振り返ると、
チケット売りの販売員と目が合った。
短かめの髪は根本から白く染められて、毛先は重力とは逆の方向へと固定されている。
彼の目尻と口の端に刺さった安全ピンは一体何を示すのか。
僕には「すごく痛いだろう」という事しか分からない。
それともまさしくソレがメッセージなのだろうか。「すごく痛いぞ」と。
良く分からない事自体が僕にとっては何よりの脅威だ。

排水の陣を固められた気分で、僕は2重扉の一枚目を開けた。
音圧の波が、既に十二分な程に僕の全身を叩いた。
最後のドアに手をかけて、僕は無意識に「アーメン」と祈りの言葉をつぶやいた。


そこは、想像以上に地獄だった。
地獄自体が想像なわけだから、つまりは僕が想像できる範疇を超えて悪いと、そういう意味だ。

先んずは、音の大きさに鼓膜がヤられて何も聞こえなくなった。
大きな音というのは音ではなくただの衝撃波だ。
おまけに薄暗いフロア内には、原色のミラーボールの光が点滅を繰り返す。
テレビの前の子供なら必ずや卒倒する。
聴覚と視覚を一気にヤられた僕は入り口のドアに貼り付いたまま身動きすら止めた。
迂闊に動いて倒れたら最後、鼻先に迫るやたらと興奮した人の波に踏みつぶされるに違いない。

フロア内は、ステージがどこだか分からない程に人で満ちていた。
立った人間同士の肩が触れ合う程の人口密度で、
こうやって今ドアに貼り付いている僕の肩や肘にすら人がぶつかっては離れていく。

どこへ向かうべきかも分からないし、この人混みでは戻るために再度ドアを開ける事すらできそうにない。
ひたすら硬直したままの僕の手を、誰かが不意に強く引いた。

「うわ!。」

音の渦の中で、そんな小さな悲鳴が誰かに届くはずもない。
人混みに体当たりをかましながら、僕は引かれるままに歩を進めた。
フロア右奥の隅、地獄の中の安全地帯とも言うべき守られた一区画に辿り着き
僕はようやく手の主を確認する。
おおかたの予想通り、梧譲だった。

「ああどうも」などといった僕の間抜けた挨拶も無視して、梧譲は身振り手振りで僕に何かを伝えた。
目の前にいてもお互いの声すら届かないこの状況を呪いつつ、指された方を見てぎょっとした。
木の枠越しに、沢山の手が差し出されている。地上への蜘蛛の糸を求める亡霊の群れだろうか。

ああ。そうだった。
酒を出すのを手伝えと言われたんだった。
だとすると、ここはフロア片隅のカウンターに違いない。

「お前も」と、梧譲が目で合図した。とりあえず彼の動向をうかがう。
梧譲は亡霊、もとい店の客に差し出された半券を受け取って横目で確認すると、
ロックやら水割りやらを手際よく作って渡すのを繰り返していた。
詳しく説明などしてもらえそうにないし、僕も見よう見真似で対応した。

缶ビールやらロックといったシンプルなのを専門に渡し、ややこしい名前のカクテルは梧譲に回す。
一度要領を覚えたらあとは流れ作業だ。
地獄の衝撃波と攪乱光線から意識を振り切って、僕は目先の作業に没頭した。

◇◇◇
「や〜お疲れ。」

どうやら今僕が手渡した缶ビールを最後に、カウンター前にたむろした一群をさばききったようだ。
ふと気付けば地獄の大音量も収まって、フロアには古い録音のロックが静かに流れている。
入り口の2重扉も開け放たれて、客も帰り支度だ。
ライブとやらは、いつの間に終わっていたらしい。
「目すわってんぞお前。」
「・・死ぬかと思いました。」
梧譲はクスクスと笑い、缶ビールのプルタブを引いて僕に差し出した。
「ごくろーさん。」

カウンターの内側で、梧譲は安物のパイプ椅子に腰を下ろした。
天井を見上げるようなだらしない姿勢で煙草をふかし始めた彼の脇に椅子を引いて、
僕も缶ビール片手に腰を下ろした。

「ちょっと前まではさあ、ここで弾いてたんだ。俺も。」
「今は?。」
「やってない。タマにヘルプで入るケド。」
「どうしてやめちゃったんです?。」
「なんでかなあ。あんまし金になんないし。」

波が引くようにドアへと向かうフロアの人混みの中、
一人のミニスカートの女性が、梧譲を目の端に止めては「きゃっ」と嬌声を上げた。
「あれっ!、梧譲、こんなとこにいる!。」
「へへ。バイトっつーか。」
「やだあっ。」
ハリウッドの俳優まがいに梧譲が芝居じみた投げキッスの素振りをすると、
女の子は黄色い歓声を上げて、梧譲に手を振った。

「聞いてないんだよね。客は。」
「は?。」
「なんかこう、見た感じキマってればいいっつーか。」
「はあ。」
「ま、それも楽しいんだケド。」

この場所で、梧譲はかなりの有名人らしい。
その後も帰りがけの女の子達が梧譲に気付いては、コソコソと指を差したり手を振ったりする。
サービス精神旺盛な彼はその度に投げキッスやらウィンクやらをふりまき、
女の子の間からは歓声とも嬌声ともつかない黄色い声が挙がる。

「おまえさあ。」
「はあ。」
「何であんなとこで寝てたの。」
「ええと。」

投げキッスの合間、梧譲は僕に振り向きもせず、そんな事を尋ねる。
意外と冷めたその声音は、別に冗談を期待しているとも思えなかった。

「あそこに寝ようと思ったわけじゃないんですけど。」
「ま、そうだろうけど。」
「とある女性にフられまして。」
「・・ああ。」

端的に語るなら、それが全てだった。
僕は手にした缶ビールをあおり、
梧譲はといえば、黄色い歓声に手を振って客を見送り続けた。
彼はそれ以上を問わなかった。


立ち見の客ばかりが100人もスシ詰めだったフロアも、今や立ち話を続ける数人を残すばかりとなり、
ようやく僕にも屋内の全景が見渡せた。
このカウンターは入り口と同じ側に面した奥で、入り口正面がステージだったらしい。
ステージと客席の段差は1メートルも無く、臨場感溢れるというよりは臨場していると言える。

舞台袖から現れたヒッピーまがいの数人がステージに上がり、ギターのチューニングを始めていた。
そういえばライブの後はパブタイムという話だった。そのための準備なのだろう。

再び入り口のドアは閉められて、薄暗いフロアにはミラーボールの赤い光がゆっくりと影を落としつつ揺れた。
残った数人はカップルだったりそうでなかったり、何組かは親しげに顔を寄せて囁き合っている。
カップルでない者達はこれから相手を探すんだろう。
そういう、猥雑な雰囲気だった。

「はあい。」

一人の女性がカウンターに肘をついて梧譲に声をかけた。慣れ慣れしさからして、ここでは知れた顔らしい。
照明の落ちた店内でも、外人以上にくっきりと引かれた彼女のアイラインは目に付いた。

「あらあ、新入り?。」
「手伝ってもらったダケ。素人さんに手出しちゃダメよん。」
「梧譲は黙っててよ。ね、アナタ可愛いじゃない。」
「はあ。」
「踊らない?。」
「いや、いいです僕は。」
「何よ!。」

突然目をつり上げた女に苦笑して、梧譲が立ち上がった。
カウンターを潜って出ると、梧譲は女の腰の辺りに手をかけて、フロア中央へと女を引き寄せた。
彼女は僕に一度しかめっ面をして見せてから、
梧譲に抱き寄せられるようにして、カウンターから離れた。

ステージではチューニングと簡単なスケールの馴らしを終えたメンバーが、
丁度お決まりのチークを演奏し始めた。
もしかすると、そんなポーズをとった梧譲と彼女へのサービスなのかもしれない。

「I've been loving you too long.」
オーティス・レディングの名曲。
カントリーワルツのビートに乗って、寄り添った二人が身体を揺らす。

裾を切ったのか元々そういうデザインなのか、女のTシャツはくびれた腰を隠さないどころか、
軽く腕を上げればノーブラの胸の下半分すら覗く。
女は更にベルボトムを浅履きにしたジーンズの腰を梧譲に擦り寄せた。
露出した女の腰に梧譲がその大きな掌を回す。

I've been loving you too long.
「愛しすぎて」 とでも訳すのだろうか。

直訳するなら「私は貴女を長く愛しすぎている」。「そして今も」と継続の現在分詞形。
僕に於いては他人事とも思えない。

僕は缶ビールに口を付けながら、寄り添って踊る梧譲達をぼんやりと見つめた。

(イヤなら断ればいいのに。)
別に僕らはホストのバイトをしてるわけでもないのだから。

リズムに乗せて身体を揺らしながら、フロア中央で梧譲が僕に向き直っていた。
彼に抱かれて腰を振る女は僕に背中を見せている。
僕の視線に気付いた梧譲は、あろうことが僕にウィンクを投げた。
どういう意味か推測も付かず、僕はただうんざりした顔で肩をすくめてみせた。
そんな僕に、梧譲は肩を揺らしてこっそり笑った。

I've been loving you too long.
薄暗い照明に揺れる赤いミラーボールの光は、フロア中の全てを赤い影に染める。
人目を引く梧譲の長髪も今はフロアの光に溶けて、彫りの深い横顔をただ覆い隠す。

I've been loving you too long.
好きでもない娘と踊るのは楽しいだろうか。
I've been loving you too long.
そんなふうに自分を安売りしたら、何がほんとうか、自分で分からなくなりはしないだろうか。


ふとあおったビールの缶は、いつの間に空になっていた。
僕は手を伸ばして、梧譲が飲みかけの小さなグラスを引き寄せた。
中身がなんだか分からないままに口を付けてみる。

薬草くさいそれは、おそらくズブロッカ。
極寒の地ロシアのチープな代表酒。
なんとなく今の気分にそぐわないこともない。

I've been loving you too long.
二人のダンスは続いている。
一緒に踊り出すカップルも現われて、フロアはすっかりチークタイムだ。

そして、カントリーワルツのビートに乗ったカップルを見守り続けるうちに、
僕はようやくある事実に気付きつつあった。

梧譲はきっと楽しんでいる。

少なくとも、相手の女性は初めから楽しんでいる。
だとすれば、彼も楽しいのだ。
誰かが楽しくなるなら、それは彼の楽しみでもあるらしい。

全く、なんというお人好しだろう。

I've been loving you too long.
何故か僕は、露出度の高い女性の方ではなく、
彼女を抱いた梧譲だけを目で追っていた。


(失恋の傷はね、新しい恋でしか癒せないのよ。)

どうして今、そんな矢緒音の言葉を思い出すのだろう。

僕は少し、酔ったのかもしれない。


- 続 -
 


Return to Local Top
Return to Top