「ああ、姉さん?、僕だけど。
・・ああ。うん。ごめん。
急にとび出してほんと済まなかったって思ってる。
・・うん。僕は元気だから。彼氏にもよろしく言っといてよ。」

講義の合間の休憩時間、講堂は学生達の喧噪であふれて、
耳元の小さな携帯から漏れ聞こえる彼女の声は、ほとんど僕に届かない。
おまけに僕が窓際の席に陣取ったせいもあり、
ついさっき降り出した雨の音すらが、懐かしい彼女の声を一層遠くする。

だけど、それでいい。
敢えてそんな場所と時間を選んだのだから。

「・・うん。でも、今はまだ帰れない。
ええと、その。友達が怪我しちゃって。うん。事故じゃないよ、大丈夫。
殴られてゴミ置き場に倒れてたんだ。バカみたいだよね。はは。
食事も作れないみたいだし。」

殴られてゴミ置き場に寝ていたのは、友達じゃなくて僕だ。

「・・うん。ああ、講義が始まるみたい。
また連絡するよ。ごめん。じゃ。」

彼女が何か言いかけたのに気付かない振りで、僕は一方的に通話を切った。
無機物の塊に戻った携帯を握りしめて、ぼんやり窓の外なんかを眺めてみる。

吹けよ風、呼べよ嵐。

そんな気分だけど実際のところは、
ありふれたキャンパスの並木道が、しとしとと濡れていく程度の雨だ。

「隣、いいかしら。」

聞き覚えのある声が僕を呼んだ。
振り返った先で小首を傾げて僕を覗き込むのは、細身の身体に長い髪。
そういえば、たった今の電話の声の主にもよく似たシルエット。
矢緒音。
家が近所の彼女は、僕の幼なじみ、というより姉の幼なじみで、
昔から二人は姉妹のように付き合っている。
僕個人と彼女は特に親しいわけでもないけれど、
子供の頃から彼女がよく姉のところに遊びに来ていたせいもあって、
お互いの事は、昔からなんとなく知っている。

そういう間柄の彼女が、今僕に声をかけてくるその理由は、もう想像が付く。

講義の資料を胸の前で抱え、元々細いその肩幅を一層細くして僕を見つめる彼女に
「迷惑だ」とは言いかねて、僕は隣の席に投げ出していた自分の鞄を降ろした。

「あの、余計な事だとは思うんだけど・・」

僕の隣に腰を降ろすと、いきなり彼女は切り出した。
さっき姉に電話を入れたのは正解だったようだ。
僕は片手を挙げて、彼女の言葉を制した。

「ウチにはさっき電話したよ。」
「そうなの?!。」
「ああ。その、心配かけたかもしれない。」
「心配なんてもんじゃないわ!。華喃さん、もう食事も喉を通らなくって!。」
「ごめん。」
彼女の言葉を遮るために、僕は語気を強くした。
「だから、今連絡したから。」

なんというのか、最悪だと、僕はそう感じていた。

僕が家を出たのは1週間前であり、それはつまり、
結婚すると華喃が僕に告げて、婚約者を連れてきた日から数えて3日目。
何故3日後かと言えば、当日というのはあんまりだと思ったからだ。

正直な感覚からすれば、彼女が「この人よ、清さん」なんてはにかみながら
僕に紹介したあの目の細い男をその場で殴り倒して、その足で家を駆け出したかった。
なのに「おめでとう。姉をよろしくお願いします」なんてありふれた挨拶をかえして、
殺したいその男と握手まで交わしたのは、ささやかな僕のプライドの為せる技。

華喃は僕の気持ちに気付いている。

だから、僕が家に戻らない理由も知っている。

おそらくは戻らない僕を心配して、友人である矢緒音に相談したんだろう。
そして彼女が今ここにいる。
つまり、彼女は、僕が「姉にフられて家を飛び出した」んだという
最高に冴えない事実を知っていることになる。
穴があったら入りたい。無くても足元を掘り返したい気分だ。

「あの。華喃さん、あなたのことだって・・」
「分かってるよ。そんなこと。」

分かってる。
彼女は別に僕が嫌いなわけじゃない。
ただ、僕が求めるようには彼女は僕を求めなかっただけだ。
そしてそれは至極当然な話だ。
何故なら、僕達は姉弟なんだから。

「・・ごめんなさい。」
「イヤ。僕こそごめん。やめようよ。こんな話。」
「・・ええ。」

既に授業の開始時刻は過ぎていたが、教授は姿を見せず、
講堂内は休み時間のままの喧噪に満ちている。
男子学生達が好奇の目を向ける隣席の美女に、気の利いた話題でも振るべきところなのだろうが、
僕は特に言葉も探せずに、ただ窓の外へと視線を投げた。

いくら僕が呼んだところで一向に嵐が訪れる気配は無く、
外は、相変わらず並木の緑が水滴を孕んで揺れる程度の雨。

「『雨音はショパンの調べ』なんてね。」

話題も探せない僕に代わってだろう、矢緒音がそんな風に切り出した。

「え?。」
「そんな曲、あったかなあ、って。」

振り向いた僕に矢緒音が笑って、机上の僕の右手を指さした。
どうも僕の手は、無意識に机を鍵盤に見立てたような動きをしたらしい。

「私、井野くんのピアノ、好きよ。」
「え?、僕、聞かせた?。」
「華喃さんのとこに遊びに行くと、いつも聞こえてた。」
「・・ああ。」
「ショパンは好き?」
「僕はあんまり好きじゃないな。」
「そうなの?。女の子はみんなショパンが好きよ。」
「そうみたいだね。」
「どうして嫌い?。」

確かに繊細な譜割には心を惹かれる。
だけど、不安と悲哀に充ち満ちたモノトーンの世界を、
何故自分の指で再現しなければならないのか僕には分からない。
僕が求めるのは、僕に足りない何かだ。

手を伸ばした愛に届かないまま逃げ出した「感情」なんてあたかも存在しないみたいに、
この世界は理性と緻密な分析で割り切れると証明したい。
そうすれば、僕は永遠に傷つくことなんて無いはずだ。

「どうしてショパンは嫌い?」
「雨音だから。」
「・・そのまんまじゃない。」
「ごめん。」
「別に謝ることじゃないけど。」

余りにも気の利かない僕の返答に、矢緒音がクスクスと笑った。
でも何故だろう、女の子が笑うと、救われたような気分になるのは。

「だけど、良かったわ。」
「何が?」
「私、井野くん、もっと落ち込んでると思ったの。」

自分の言葉の途中で彼女は失言だと気付いたらしく、表情を硬くした。
僕が落ち込んでいると思ったという事はつまり、
僕が姉にフられて家を飛び出した世にも情けない男だと知っていると公言した事になる。
しかし、言おうが言うまいがどうせ知られていたわけで、今更そんな事はどうだっていい。

それに、確かに数日前までの僕は、これ以上ないくらいに落ち込んでもいた。
落ち込むというよりはむしろ、積極的に死ぬつもりでいた。
その為の方法を探して街を徘徊しているうちに夜になり、
人気のない街頭でチンピラの2人組に「金を出せ」と声をかけられた。

「痛い目に合う前に素直に言うこと聞いた方がいいぜ」とかなんとか言いながら、
一人の男が取り出したナイフは、僕にとってまさに探していた何物かだった。
「それ僕にくれませんか」と手を出したら、男と揉み合いになった。
それからあとは良く覚えていない。
血まみれで燃えないゴミに混じっていたというのは後で聞いた話だ。
気付いた時には、見知らぬ男の部屋で汚れた天井を見つめていた。

「あの、例えばの話なんだけど。」

ふと思い立って、僕は矢緒音に聞いてみた。

「もし、夜、道を歩いていたら、ゴミ捨て場に知らない男が血まみれで倒れてたとして。」
「・・なんだか物騒な例えね。」
「ちょっとのぞいたけど、男に意識は無い。キミならどうする?。」
「・・そうね。怖いから走って家に帰るわ。
それから警察に電話する。あれ?、救急車が先かしら。」
「そうだよね。そんなところが正解だ。」

連れて帰って自分のベッドに寝かせるなんていうお人好しが存在するとは思わなかった。
家を出て初めて知ったけど、世間にはいろんな人種が存在するらしい。

「でもそれって何の例え?。」
「ええと、捨てる神あれば拾う神アリっていうか。」
「ふうん。井野クン一体誰に拾われたの?」

なんてことだ。
僕はがっくりと肩を落とした。
例えたつもりが僕自身の話だと完全にバレている。
おまけに彼女は僕が隠したつもりだとも気付いていない。
女性とは恐ろしい。
理論抜きの感覚で、僕が思いもよらない程全てを見通している。

「拾われたっていうか・・その。」
「も・し・か・し・て、その人に恋しちゃったりして。」
「へ?。」
「失恋の傷はね、新しい恋でしか癒せないのよ。」

矢緒音はそのよく光る瞳で真っ直ぐに僕を見つめると、力強く僕にうなずきかけた。
ボーイズ、ビ、アンビシャス、「少年よ大志を抱け」と若者に告げたクラークも、
きっとこんなふうに熱く語ったに違いない。

言葉に詰まった僕を救うように、講堂の前の扉から背広姿の教授が姿を現した。
辺りを歩き回っていた数名の学生も席に戻り、喧噪も波が引くように消える。
その後の室内にはただ、学生がテキストの紙面を開く音だけが静かに響いた。

他の学生同様にテキストを広げながら、矢緒音は僕の耳元に口を寄せて囁いた。

「綺麗な人なんでしょうねきっと。ちょっと妬けちゃうかも。」

僕が目覚めたのは男が一人で暮らす薄汚れたアパートだとは言いそびれた。
いたずらっぽい笑顔で僕を覗き込んだ矢緒音に、僕はただ力無く笑った。


- 続 -
 


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