一方的に賑やかな食事の後は、悟一に財布を持たせてレジの対応を任せた。
デッサンの授業の帰りは油絵の道具箱が邪魔で、金を出し入れするのが億劫なせいだ。

レジで紅い長髪と向かい合う悟一の背後で、俺は煙草をくわえた。
荷物のせいで煙草を出すのも火を付けるのも片手対応。
しかし屋内にいるうちに火をつけておかないと、
歩きながらでは風から火を守るための片手が無いことになる。

人の財布で金を払うという慣れない作業に没頭中の悟一に、ウェイトレスが話しかけた。
「ね、あんた、サッカー部?」
「そうだけど。」
「ポジションどこ?。」

(補欠だ補欠。)
うつむきがちに煙草に火をともしながら、俺は心で返答したりする。
・・と。
物音に呼ばれてふと目を上げれば、どういうわけかガキ二人がもみくしゃになっている。
何なんだと思う間もなく、止めに入った長髪の男が悟一に突き飛ばされ、
ヤツのやたらとデカイ背中が俺に向かってブッ飛んできた。

(野郎ッ。)

避けたつもりだった。
しかし俺のすぐ脇にすっ転んだ男の肱は、俺の手に下がる画材箱を叩いた。
脆い金具は簡単に弾けて、箱の中身がそこいら中に飛び散った。
(・・・。)

最悪だ。

俺は別に特別な綺麗好きじゃない。
しかし画材箱の中身に関してはあるべき物があるべき位置に無いと気が済まない。

俺は即座にその場に腰を落とし、箱を広げては、散らばったモノを手の届く範囲で拾った。
ペインティングナイフにパレットナイフにチューブの絵の具といったあれこれ。
拾ったものは本来の位置に戻す。

手の届かない範囲のは店の男が拾ったから、それを一つづつ受け取りしまい込んだ。
大した間もなく、箱の中身は本来の配置に戻りつつあった。
最後の一つ、男が手渡した、『クリムゾン・レーキ』。
なんとなく、俺は手を止めてその小さいチューブを見つめた。
俺が下絵に使う、あの紅だった。

赤と呼ばれる色には、バリエーションがある。まあ他の色もそうだが。
クリムソンは青みの強い透明な深紅だし、カドニウム・レッドは明度彩度が高い不透明な赤。
他にも暖かい透明な赤系統のマダー、珊瑚色のコーラルと、数えればキリがない。
なのに何故か俺がいつも下絵用に絞り出すのは、クリムゾン・レーキであり、
どういうわけかそれは、まさに今俺にそれを手渡した、長髪の男の髪の色だった。

「アンタの髪の色だな。」

この色の意味を、この男が知っているのだろうか。
俺の中で長い間疼きつづける、あの色の意味を。

もしそうなら、俺はそれを問いたださなければならない。

「アンタの髪の色だ。」

長髪の男は、呆けたように間近で俺を見つめていた。
知らない男と無言で見つめ合ううちに、俺はバカかと、そんな嫌悪感が俺の中で広がった。

突然目の前に絵の具を差し出されて「アンタの髪の色だ」と言われたところで、
「そうですか」としか言いようが無い。
見ず知らずの他人に、俺は一体何を突き付けたつもりだったのだろう。

「・・まあ、だからどうという事もナイな。」

独り芝居の具合悪さに押されて、俺はそそくさとその場を立ち去ろうとした。
しかし俺のバカさ加減に感化されたのか、男の言動もまた予想外だった。

「あの!。それ俺に下さい!。」
「・・アンタも絵、描くのか?。」

不躾な視線でお互い相手を探りつつ俺と長髪が立ち上がると、俺は長髪をやや見上げるカタチになった。
つまり紅い長髪は俺より拳一つ分程度デカイという事が判明したわけで、
ガキじみてはいるが、俺はなんとなくムカついた。

「使いかけだぞ。」

どう見ても絵を描くタイプには見えなかったが、俺は長髪にチューブを放り投げた。
一刻も早くその場を立ち去るためなら、俺は何だって放り投げただろう。
俺自身の問題を、無意識にであれ他人に問いかけた己の愚かさを、俺は恥のように感じていた。

「行こうよ。」

呼ばれるままに、俺は店を後にした。
悟一とエレベーターに乗り込み、落ち着かない気分のままで街頭に降り立つ。
そう言えば火を付けたはずの煙草は、さっきのドサクサでどこかへ飛んでいた。

テナントビルのエントランス付近で、俺は一旦画材箱を置いた。
帽子を深くかぶりなおしては、煙草を取り出し火を付ける。
妙な動揺を押し込めて、俺自身を取り戻す必要があった。

悟一はといえば、ただ俺の傍らで、唐突に煙草をくわえた俺を特に気にする様子も無く、
街頭を通りすぎる雑多な人波をぼんやり見つめていた。
悟一の視線を追うように、俺も一緒に何の変哲もない都会の雑踏を眺めた。
夕暮れの赤は一掃されて、辺りには夜の闇が忍び寄っている。
通勤ラッシュの後半に近い時刻のせいか、辺りにはスーツ姿が多い。
この時間帯の駅付近には、帰る人間と飲みにくり出す人間が入り交じる。

「あ。」
煙草が半分程になった頃、悟一はふと声を上げて振り返った。

「オレ、ちょっとオバちゃんとこ行く。すぐ戻っから。」
「?。」
「先生が来るんだ今日。家庭教師の。すげーいいひとなんだ。」
何故か悟一は、照れたように笑った。

「急に出てきてオレ、さよならとか言ってないから。
ちゃんと自分で言った方がいいだろ。オバちゃんが言うより。」

俺は吸いかけの煙草をアスファルトに落として、靴先で踏み付けた。
俺らしくもないここ最近の動向は、全て間違いだったのかもしれないと、そんな事を思った。

あの家は悟一にとって、マシな場所とは思えなかった。だから「来い」と言った。
しかし考えてみれば、俺が見たのはヒステリー女が介在するドタバタ劇の一コマだけだ。

例えば家庭教師の先生とか、悟一にとって大切な何かが、あの場所には存在したのかもしれない。
それに加えて、あそこは誰もがうらやむ大邸宅だ。
入り込もうとする者があっても出る者は普通いない。俺と観世は例外として。
居心地の悪さを数年我慢して成人すれば、やかましいのを追い出す権利を悟一は公に得るだろう。
超音波女と相棒の男は、法的にはただの居候なのだから。

「オイ、悟一。」
「なに?。」
「お前、帰れ。」

大きな瞳が、真っ直ぐに俺を見上げていた。

哀しみと怒りと失望と、そういうものをごちゃまぜにした純粋な感情、
そう、まさに「感情」というそれを、俺は受け止めた事が無かったと気付いた。
俺にとってそれは、今まで、キャンバスに叩き付けるものでしかなかった。

「イヤ・・俺は・」

俺は余り話が上手く無い、と、そんな事を言いかけた自分に腹が立った。
そんな台詞は今は言い訳でしか無い。
これまで面倒を避け倒して来た結果、俺は伝えるべき事すら伝えられない能無しになったのか。

目深くかぶった帽子を、俺は自分の手でむしり取った。
自分自身に、無性に腹が立っていた。

「いいか、良く聞け。」
「う・・うん。」
「俺は命令されんのが嫌いだ。」
「へ?。」
「だからお前に命令するつもりも無い。」
「うん。」
「選択権はお前に預けたつもりだ。」
「へ??。」

俺は手の中の帽子を握り潰した。
そんな説明で誰が何を納得できるだろう。
「要するに」などと言葉を継いで時間を稼ぎ、俺は使えそうな語彙を繰った。

「つまりは、帰りたかったら帰れ、居たかったら居ろ、と、そういう事だ。」
「・・うん。」
「分かったか。」
「うん。」
「以上。」

「あの、宗蔵。」
「何だ。」
「オレ、宗蔵もっとムズカシイ事言うのかと思った。」
「そうか。」
「・・。」

あとは俺的には言うべき事もなくなった。
他人が見たら俺達はまるで、デキの悪い軍隊だ。

「じゃ、オレ、先生にサヨナラとアリガトウ言いに行くから。
終わったらすぐ宗蔵んとこ戻る。それでいい?。」
「ああ。」

ヘボ軍隊の質疑応答を、悟一が端的に要約した。
サルの日本語の方が俺よりよっぽどマシらしい。

「じゃ。」
「待て。」
「?。」
「サヨナラ言うんじゃなくて住所聞いて来い。その先生とやらの。」
「なんで。」
「どんなヤツか俺が会って確かめる。悪いヤツじゃなければ俺が雇う。」
「え!。いいの?!?。」
「いいか悪いかは俺が決める。取り敢えず聞いて来い。」
「うん!。」

俺を見上げた悟一は、花が咲いたように明るく笑った。

「じゃ行ってくる!。」

俺に軽く手を振ったかと思うと、悟一はもう駆けだしていた。
夜のとばりが降りるのと時を同じくしてネオンが輝き出す繁華街は、深い闇が落ちる間もない。
仕事帰りのスーツの波を、野生動物の俊敏さで駆け抜ける悟一の後ろ姿はすぐに小さくなり、
あっという間に俺の視界から消えた。

俺は足元の画材箱を拾い上げると、握りしめたままの帽子を再び目深にかぶり直し、
悟一と同じ街路時に踏み出した。


遙か上方から眺めるだけの街並みに、自分自身紛れて歩くのも悪くないと思う。
それは、いつもの俺らしくもない、妙な感覚だった。


- 続 -
 


□□ここまでのお付き合いありがとうございました□□
  次回から語り手また一旦変わります。


残りは冒頭にちょっと出てきたきりだった彼ですね。
ああ一番好きなひとがここにきてようやく。Mでしょうか私。
そして書き手が誰が好きかなどということは完全に殺し、
今後もコレでは4人平等に扱う予定です。

やはりMでしょうか私。

(しかし好きなキャラを攻めに配置する習性があります・・)
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