「遅いわねあの子ったら。」

『彼女』はさっきから30回も同じ台詞を繰り返している。
言葉の合間に立ち上がり時計を見直し座っては額に手を当て、
座り、立ち上がってはまた同じ台詞を繰り返す。

『彼女』とは黄恵とか言う俺の親戚であり、つまりは観世の義理の妹だったか。
しかし考えてみれば別れた亭主の後妻などというのは
普通に考えればアカの他人以上に他人のハズだ。
おまけに別れた亭主は死に、後妻は別の男をくわえ込んでいる。
追い出さない観世の気が知れない。
まあそんな負い目もあるからこそ、コイツ等もガキとやらを引き取ったのだろうが。


一応の約束を守って、世田谷の豪邸に顔を出した俺ではあった。
しかしアンティークで統一された応接室の4人掛けソファの端で、
俺はこの場にいる事を後悔し始めていた。
そもそも俺とガキとやらは何の関係も無い。
同じソファに観世と並んで座り、対面のヒステリー女の愚痴を聞くいわれは無い。

「遅すぎるわ。」
「ま、オレは別に急いでねーし。座っとけよ。」
「みんながお義姉(ねえ)さんみたいにルーズに生きてると思わないで頂戴!!。」

観世にこんな口を叩ける人間は世界中でもこの義妹だけだろう。
俺の隣でソファにふんぞり返る観世は、猿芝居めかして露骨に「うんざり」という顔をしてみせた。

同じソファ上、観世の向こう脇には付き人の次郎がかしこまって控えている。
観世のデビュー当時から、仕事のみならず私生活まで観世の面倒をみたおしている次郎には
よほどの苦労が絶えないに違いなく、外見的に彼は一年に十づつ歳を取っていく。
観世より若いと聞いていたが、今では二人は父娘のように見える。

「ま、相手はガキだ。細かい事にはこだわらず。」
「お義姉さんがこだわらな過ぎるんです!!。」

黙っていればいいものを。
観世の余計な台詞が噴火直前の火山をついに爆発させた。

「だ大体お義姉さんは非常識なのよ!。今日だってなんて格好なの!、
ここは舞台じゃないのよ?!、
まるでストリッパーじゃない、む、むむ胸が見えそうだわ!!。」
「サービスなんだけど。オレ的に。」

何故火に油を注ぐのか。
それに観世のシースルーの服地からは、胸が見えそうというより乳首が見えている。
まあ、いつもの事だ。
俺に言わせるなら、服を着ていただけでもありがたい。

「アナタもよ宗蔵さん!!。家の中では帽子を取りなさいよ!!。」

見ろ、バカ。こっちに飛び火が来た。

俺は頭に乗せたままのソフト帽のツバに手をかけると、
女を見据えたままその手を引き下ろした。
目深にかぶり直された帽子のツバが、俺の視界からヒステリー女を消した。

「んまあああっ!!。」

女の絶叫が俺の頭の内側に超音波の如くこだまし、俺は一瞬気を失った。
前のめりに倒れ込んだ俺がテーブルに額をブチ当てずに済んだのは、
寸でのところで観世が俺の襟首を鷲づかみにしたからだ。
「まだまだだな、宗蔵。」

何がだ。
こんな事に耐性がついてたまるか。
俺の我慢も限界だ。
「帰る。」

宣言して立ち上がった俺の耳に、ふと知らない女の話し声が届いた。
この部屋にもう一人女がいたのだろうかと振り向いた先にいたのは、
どういうわけかやはり黄恵だった。
但し、今は受話器を握っている。

俺が気を失った一瞬に電話が鳴ったのか。
そして受話器を握った途端、黄恵は別人に豹変したらしい。

「・・まあ。・・まあ、なんとお詫びしていいのか・・ほんとうに・・」

か弱き女性の声音で詫びの言葉を繰り返し、黄恵は無意識にだろうか頭まで下げている。
事故か緊急事態かと、俺は立ち上がったままつい足を止めた。
それが間違いだった。

何度も詫びを繰り返した後、黄恵はがっくりと肩を落として受話器を戻した。

「どうした?。」

声をかけた観世に、黄恵は視線だけで振り向いた。
その瞳は飢えた獣の如く爛々と燃えさかっていた。
役者でもここまで怒りを表現できるものかどうか。
俺は一瞬寒気をおぼえた。

「あの子が!!。喧嘩したっていうのよ!!。」
「喧嘩くらいすんだろ、高校生だぞ。」
「相手に怪我させたそうよ!!。」
「死んだのか?。」
「あ、あの子のせいで転んで血が出たって!!。」
「・・何もナイに等しいなそれは。」
「何もナイですって!!!。」

黄恵の発する超音波的叫声は、再度俺の気を遠くした。
しかし今回の俺は、数歩よろめいただけでなんとか持ちこたえた。
多少の耐性がつきつつあるのだろうか。

「相手は学園副理事の一人息子なのよ!!。」

話の内容とは無関係にその声音と音量で吹き飛ばされそうな俺に、
更なる台風の予感が訪れた。
そう、彼こそがまさに、本日の主賓だった。

「悪ィ、遅れた!!。」

ドアを弾くようにして飛び込んできたのは山猿かと思えた。
汚れた上下のジャージ姿。泥だらけ、というよりは泥水だらけと言うべきだろうか。
どういうわけかそのサルは全身、髪までもを濡らしていた。

俺や観世という見慣れぬ客に驚いたのか、入り口で立ち止まったサルの足元には、
身体中から滴った泥水が伝い落ちて、幾何学模様の絨毯に黒いシミを広げつつあった。

「い・・いやああああっっ!!。」

思いがけないタイミングの絶叫に、俺は今日何度目かの眩暈を感じたが、
今回はよろけることもなく頭の奥が痺れただけで済んだ。
不本意だが、確実に耐性が付きつつある。

「イスファハン・シルクのカーペットなのよっ?!。」
「へ?。あ、ワリ、俺、着替えてくる?。」
「う、動かないでっ!!。」

銀行強盗を捉えた女刑事のように黄恵が吠えた。

「廊下はイスファハン・ウールなのよっ?!!。」

分けが分からない。
もはや超音波が部屋の中をこだまするだけだ。

「アナタはどこで何をしてきたの!?、副理事の息子に何をしたの?!。」
「アイツ?。アイツ自分ちの犬が泳ぐの見せるとかってさ、
オレ見たくないって言ったのに、犬、川に投げんだもん。ちっさいんだぜ、その犬こんなん。
そしたら犬溺れて、オレ助けようとしたらアイツ『助けなくていい』って。おかしいよアイツ。
犬投げたのバレたら母ちゃんに怒鳴られっからって。でもオレ、助けたけど。」
「犬の話はしていないでしょう!!。副理事の息子に何をしたの?!」
「なんかしたかな・・オレ。」

噛み合わない会話に、観世が肩を揺らして忍び笑いを始めた。
黄恵に険しい視線で振り向かれても、観世は鼻先の笑いを押さえきれず、
ヌードまがいの上半身を揺らした。

「思い出しなさい!、副理事の息子に何をしたの?!。」
「何にも・・。あ、オレ川に飛び込もうとしたらアイツ止めたから、突き飛ばしたかな?。」
「『かな』?!!。」
「でもそんだけ。」
「そんだけですって?!!。」

黄恵は一旦言葉を切ると、細かく肩を震わしながら、細く息を吸い込んだ。

(来る。)
俺は超音波の予測が付くまでに成長していた。

「謝ってきなさい!!!!!!。」

ボス猿に威嚇された小猿の素早さで、ガキは身を翻した。
そのまま部屋を駆け去る事ができればむしろヤツには幸運だった。
急に振り向いて駆け出しかけたガキの肩にぶら下がる通学鞄が遠心力で弧を描き、
テーブルの隅に鎮座していたアンティークの古時計をストライクゾーンに捉えてブッ飛ばした。

赤ん坊程度のサイズの仕掛け時計は生き物のように跳ね上がり、
観世の脇で気配を消して座ったままの次郎の横顔を掠めて背後の壁に激突した。
華々しい破壊音と共に、アンティークの古時計は俺達に最後の仕掛けを披露した。
つまりは、ネジやら金属片やらを辺り一面に撒いて、粉々に散った。

ひいっ、と喉の奥で擦過音を上げながら、黄恵は既に破片となったソレに走り寄った。

(また来る。)
そして、来た。

「い、いやああああっ!!!!。」

「わ、ワリ、あの・・。」
「ユンハンスなのよおっ!!!。」

古時計のメーカーだろうか、
さっきから女はこれでもかという位どうでもいいことばかり叫んでいる。
時計の軌跡があと10センチずれていたら顔面崩壊の危機だった次郎は
硬直が解けずに固まったままで、
観世はと言えば、今や腹を抱えて笑っていた。
粉々に飛び散ったアンティークはどう見ても元に戻るとは思えなかったが、
黄恵は破片の前にひざまづき、「ユンハンスなのよ」とうわごとのように繰り返した。

「ごめん。」
山猿が黄恵の側に寄って呟いた。
入り口から室内まで歩み入った猿の背後の絨毯は、泥水を吸って黒い染痕を延ばした。
「来ないでっ!!。」
「わっ!。」

怒鳴りつけられて身を翻したサルの肩掛け鞄が、
今度は破片の上にしゃがみ込む黄恵の横顔を捉えた。
俺は反射的に駆け寄って、ガキの鞄をひっつかんだ。
鞄は黄恵の鼻先を掠め、驚いた黄恵はその場に尻餅を付き、
俺に鞄を掴まれたサルはと言えば、鞄に引かれて全身で俺に体当たりをかました。

「うわ!。」
「バカ!。」

俺はソファの背にしたたかに腰を打ち、サルは俺の白いシャツに泥の人型を付けた。
俺が泥人形を抱くという妙な形で部屋中の全ての動きは止まり、
降って湧いた静寂が辺りを満たした。

ブッ、と観世の吹き出した笑いに応えるかのように、
奇跡的にも俺の頭に乗ったままの帽子はゆっくりと手前に落ちて、一度サルの頭にバウンドした。
ヤツ的にも不本意だろうが、俺に抱きつく羽目になったサルは、
額に落ちた帽子に呼ばれるようにふと瞳を上げた。
見上げたヤツの視線と、シャツの汚れ具合が気がかりな俺の視線とが交錯した。

「アンタ、綺麗だな。」

瞳を大きくして俺を見つめた泥猿の台詞の唐突さに、またしても部屋中の時間が止まった。
そしてこの新しい静寂を破ったのは、観世の派手な笑い声と黄恵の金切り声だった。

「笑い事じゃないわよ、義姉さん!!、見たでしょう?!、この子はいつもこうなのよ?!、」

(来るぞ。)

「アナタがこんな子を見つけてきて私に押しつけたのよ?!!。」
「あのオレ、施設戻るよ。な、オバちゃん。」
「オバちゃん??!、戻れば済む問題じゃないの!!。アナタもう認知されてるのよ?、戻られても困るの!!。」
「ええとじゃあ・・」
「アナタなんか産まれてなきゃ良かったのよ!。」


パシッ、と、平手の音がして、それから俺は目をしばたいた。


俺の目の前で、黄恵が片頬を押さえつつ、涙の滲んだ目で俺をキツく睨んでいた。
唇を噛みしめた泣き顔の女と、俺自身の右掌を、俺は交互に見つめた。

信じられない事だが、この暴力沙汰の加害者は俺だ。

今日のこの瞬間まで、人を殴った記憶は無い。
他人とロクに会話もしない俺だ、殴るハズも無い。

今も、叩くつもりはなかった。
ただ、女の口から迸る言葉を止めたかっただけだ。

黄恵がしゃくり上げる声だけが辺りに響き、室内は気温までが下がったように寒々しく感じられた。
俺は落ちた帽子を拾い上げては目深にかぶり直した。
コレを落としたのがそもそもの失敗と言える。
この帽子は、世界と俺の間に一線を引くという俺のささやかな意思表示だった。
女の言葉を止めたいと感じた事自体、俺にとっては間違いだったに違いない。

「帰るよ。」

誰にともなく呟いて、ドアへと歩き出した俺の背を、小さな悲鳴が呼び止めた。

「待って。」

何故俺はガキの声に振り向いたのだろう。

俺自身が引き下ろした帽子のツバが視界を遮って、俺を呼んだガキの表情は見えなかった。
なのに俺には、口を一文字に結んだヤツの表情が見えるような気がした。
呼び止めたくせに、ガキは何も言わなかった。
言えるはずが無い。
俺とヤツは通りすがりの他人同士だ。
何の関係もない、初対面の通行人だ。


「来い。」

俺はやはり狂っているのだろう。
自分の口を突いて出た言葉の意味を、俺はそう解釈した。
何故なら他に考えようが無い。

返事も聞かずに俺は部屋を出た。
背後から走り寄る乱雑な足音を耳にしつつ、ポケットを探ってはマルボロを取り出した。
一本くわえて火を付けた俺と、もう一人の足音の主を送り出すように、
背後から女の金切り声が響いた。

「廊下はイスファハン ウールなのよぅっ!!!。」

足元の妙な柄の敷物の事か。
俺の後ろの小動物が、一歩踏み出す度に床に黒い染みを伸ばしているのに違いない。

玄関までのクソ長い廊下を、俺は振り返らずに歩いた。
女がまだ見送っていることを期待しつつ、後ろからもよく見えるように手を脇に伸ばして、
俺は煙草の先に白く伸びた灰を、敷物の上に叩き落とした。

(クソ喰らえ、だ。)


- 続 -
 


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