「ガキができた。」

けたたましい電話のベルに叩き起こされて、
寝起きの呆けた頭に飛び込んだ第一声がコレだ。

受話器を取った事を、俺は即座に後悔した。

「知ったのは1ヶ月も前だ。実は、オレも驚いた。」

返す言葉も無い。
ヤツの言葉は時折、知らない外国語のように響く。意味も思考回路も全く理解できない。

電話の主は観世鈴音。
関係的には叔母に当たるが、俺は本当にあの妖怪と血が繋がっているのか未だ半信半疑だ。

「オイ、聞いてるか宗蔵。」
「ああ。アンタ本当に女だったんだな。」
「違う!!。」

耳元で叫ばれて、俺は思わず受話器を取り落とした。
横顔にツバさえ飛んだ気がする。
寝起き早々何故俺はこんな目にあわなければならないのか。

「・・切るけどいいか。」
「イヤ、違わん!!。」
「・・じゃ。」
「聞け!!。オレは女だがオレが産んだわけじゃない!!。」

俺は受話器を耳元から30センチも離した場所で固定し、鈍い頭痛を押し込めた。
観世の声は不必要にデカいから、この位の位置が丁度良い。

彼女は(ヤツが女だと仮定しての呼称だが)、女優。
芸名を聞けば日本中の人間が「ああ、あの。」と言う有名人だ。
極道の妻役や悪の総裁やら気合の入った役処ばかりなのは、本人の外見からも内面からも納得がいく。

彼女の日本人離れしたルックスは、確かに見栄えがする。
清楚さという形容詞にくるまれた要するに外見は凡庸な演技派とは一味も二味も違う。
演技の方はと言えば「演技とは思えない迫力」と毎回評されているようだが、
アレは単に本当に怒っているのだろうと俺は思っている。

耳元から30センチ離れた受話器からは、延々と観世の長台詞が続いていた。
驚きや喜びという感情表現の合間に語られる巡り合いドラマの要点をまとめるとこういう事らしい。
『死別した前夫に隠し子がいたと今更判明した。』
一言で済む。
何故初めからそう言わないのか。

激情で離婚と結婚を繰り返して来たせいで、前夫と言っても何番目のダンナだったのかは曖昧らしいが、
そんな事は俺にとっては全く関係が無い。

「そういうわけだ。会いに来い。」
「断る。」
「ならそっちに連れて行く。」
「来るな!!。」
「じゃお前が来い。今、実家に預けてる。実はオレもまだ会ってない。」
「・・・。」

何となく観世の思惑が見えてこないでもない。

観世の実家とは、俺の親戚でもあるわけだが、旧財閥の豪邸だ。
観世はそこのたった一人の跡取のくせに家には寄り付かず、
何番目かの元ダンナが観世と離婚後に新しい女を連れ込み住んでいた。
しかし何故かそのダンナは死に、女は現在仁井という胡散臭い男と暮らしている。
入籍は済んだのだったかどうか。
由緒正しい旧家に今や見ず知らずの他人が住み着いているわけで、
財産にも家柄にも執着の無い観世ならではのアバウトぶりだ。

仁井と女は、どこぞの大学の研究室で働くインテリだと聞いた。
確か黄恵というその女には冠婚葬祭で数回出くわしたが、彼女は神経が細かく、
何につけ大雑把な観世との折り合いは悪い。
俺自身はといえば、何故かあの仁井と言う男とソリが合わない。
見ただけで殺したい気分になる人間は世界でアイツだけであり、その理由は分からない。

今更隠し子が出てきたところで観世に子育てなどできるはずもなく、実家に預けてはみたものの、
おそらく黄恵は怒り狂っているだろうし、一人で会いに行くのは気が進まないのだろう。

しかし前夫の結婚前の隠し子ということは血縁的には無関係なわけで、
そもそも引き取らなければならない理由は無い。
口の悪さに反比例して、観世は不自然に人が良い。

「そういう事だ。今晩8時に実家に顔出せ。」
「アンタの都合で決めんな。」
「オレの都合じゃない。ガキの都合だ。部活があるんだと。」
「部活?。」
「ああ。ガキは高校生だ。」

・・それはもうガキと呼べるような歳じゃない。
俺がそう言うより早く、「じゃあ後で」と電話は一方的に切られた。
俺は発信音の残る受話器を無意識に睨みつけた。

全く、とんだ朝だ。

昼前には起きるつもりだったが、観世の電話で眠気はすっかり覚めた。
仕方ないので頭など掻きながら、台所のコーヒーメーカーにマメをセットしてみたりする。
どうせ美味くもないコーヒーが香りだけは芳しくドリップされ始めると、
俺は台所の背の高い椅子に腰掛けて煙草をくわえた。
視界は自然と、明るい窓の外に向く。


ここ高層マンションの最上階から、晴れた朝の街並みをぼんやり俯瞰する。
それは毎朝の日課でもあった。
位置が高いせいで、ここから見える景色はまるで鳥瞰図だ。
クルマは玩具の小箱めいて見えるし、勿論人など識別もできない。
雑多な思惑が行交っているだろう都会の街並も、
ここからは建造物の直線が錯綜する幾何学模様にしか見えない。

だから、気に入っている。

他人とか感情とか意思の疎通とか、そういうもの一切が、俺は苦手だ。


煙草一本を吸い終わる頃、一杯分のコーヒーが出来上がる。
俺は立ち上がってカップを手に取ると、淹れたての味を確認しつつ寝室脇の作業部屋へと移動する。
色の濃いその液体は、マズいが飲めないこともないという、つまりはいつも通りの味だった。

寝室脇の作業部屋は、俺がそう呼んでいるだけの何もない8畳程度のフローリング間。
何も無いと言っても家具類が無いという意味で、細かいものなら色々とある。
具体的にはキャンバスだのイーゼルだのロールだのプライヤーだのという大工めいた道具と、
あとは絵の具周りの皿だの筆壷だの雑巾代わりの布切れだのとか、まあ、そういったあれこれ。
とにかく油絵は汚れる。
汚すのは一部屋に限定するために、絵を描くのは授業以外ではココと決めている。

昨夜、新しいキャンバスを張ったばかりだった。
イーゼルに立掛けたキャンバスは既に腕の高さに設定されている。
一口啜っただけのコーヒーを手元の小さな台に置き捨てて、キャンバス前の丸椅子に腰を下ろす。
真っ白い布を脇目に、パレット上に一色、紅を絞り出す。

白いキャンバスの前では、手の動作にかかわらず頭が描くべき題材を探す。
太目の筆でパレットの紅を軽く掻き回すうちに、対象物は決まる。
毎朝お目にかかる、窓の外の愛して止まないありふれた風景。
そいつを描くと決めた。

やや薄めに溶いた紅一色で、俺は大まかな構図をキャンバスに叩きつける。
細かい事は気にしない。
普通は気にするのかもしれないが。

水彩と違い、油絵は色を塗り重ねる。乾いた後に重ねられた前の色は、単に潰される。
だから下絵の色は何でも構わない。
まあその辺の手法はは人それぞれで、下絵の色を生かすヤツも中にはいるが、
最終的にはナイフで色を置くような無骨な俺の手法の場合、下絵は完全に死ぬ。

何でもいい色という場合、大抵のヤツは灰色か黒を選ぶ。もしくは、目立たなさを優先して黄色。
何故、俺に限っては紅なのかは自分でも分からない。
分からないが、これ以外の色になることは無い。

漠然と、血の色だからだろうかとも思う。

そう言えばガキの頃、血の海に呆然と立ち尽くした記憶がある。

冬の寒い日だった。
物取り目的の行きずりの犯行というのは後で聞いた話だ。
狂った男が突然家に闖入し、刃物を振り回した。
母親が先ず胸を突かれて倒れ、その後、俺を守ろうと俺を抱いた父親が背中をメッタ刺しにされた。
5歳の俺は何が起こったかも分からず、棒立ちで親父に抱かれていた。
乱入者が姿を消したその後も、俺は身じろぎもできず、
俺を抱いたままの親父の体温が消えていくのを全身で感じていた。
降って湧いたような悪夢。

血を吸った家はその後、観世が取り壊しを指示し、更地にしてから売却した。
にもかかかわらず、俺はまだ、あの時のまま血の海に立ち尽くしているのではないかと思う事がある。

俺の脳裏から消えることのない紅は、何を意味するのだろう。
記憶にこびり付いた血の意味は恨みなのかと、自問することもある。
しかし事件のその瞬間から胸に忍び込んだのは空虚な闇であり、恨みを抱える間も無かった。
敢えて言うのなら、無力感だろうか。
愛するものが死んでいく様を、俺は何もできずにただ見送った。

しかしまあ、それは遥か遠い記憶だ。

下絵の紅には特に意味も無く、単に俺の癖なんだろう。


浮かんでは消える過去のくだらない追憶とは無関係に、俺の腕は自動書記の如くキャンバスの前を縦横に動く。
無骨な太い筆が、白い布キレの上に俺の知るこの街を再現する。
右上から左下に降ろした対角線を境に、左上には何も無い空。
右下には、勤勉な昆虫が積み上げた石の如く緻密な建造物。
路は血管のように建造物の間を縫い、昆虫の楼閣はいつの日か生を受け胎動を始める予感すら帯びる。

キャンバスという切り取られた視界と向かい合い、床と水平に腕を伸ばし筆を走らせる。
この時だけが、俺が俺だと感じる瞬間かもしれない。


下書きは小一時間で終わった。
筆を下ろすと、俺はパレットを手にしたまま立ち上がり、数歩引いてはキャンバスを眺める。
他人がどう思うかはともかく、俺の絵に関して俺は下書きが一番気に入っている。
何かを吐き出した気分になるからかもしれない。おそらくは誰にも分からない何かを。
そうは言っても、一体何を吐き出したのかは俺自身良く分からなかったりもする。

切り取られた目前の白枠の上に、おそらくは実際とはかなり違う、デフォルメされた街並みが出現した。
俺の基準からすれば、まあ、悪くない出来だ。
紅一色の線のうねりは妙に生々しく、忘れかけた何かを想い出すような気分になる。
デジャ・ヴュとも違うこの感覚を人は何と呼ぶのだったか。

飲みかけのコーヒーを思い出し、俺はパレットと筆を床に放り出した。
油絵は余り筆を洗わない。水彩のヤツはその辺が我慢ならないらしいが、
俺に言わせれば面倒は少ないに越した事は無い。

冷めて前より一層不味くなったコーヒーに口を付けると、何となく気分まで冷めた。
壁の時計に目をやれば、昼前、11時。
午後の講義には少し早めだが気分転換に外に出るかと思う。


そういえば俺自身忘れがちな事実だが、俺は美大生だ。
思い出した時くらいしか行かないが、要は学生の身分という事だ。

高校の頃、美術の教師が勝手に応募した俺の絵が二科展に入選した。
それから数箇所の画廊からオーダーが来るようになった。
望まれた枚数を仕事的にこなすなら、それで食えない事もない。
しかし仕事で描く絵はどうも乗りが悪く、進学も授業を遅筆の言い訳にするためのようなものだ。

嫌な仕事なら断ればいいわけだが、好きな仕事があるわけでも無く、全て断るのもどうかと思う。
生活の資金なら親の遺産で一生困らないが、そいつを食い潰すだけの生涯というのも甲斐性がない。

結局2口しか飲まないコーヒーのマグを片手に、俺は作業部屋を出た。
キッチンにマグカップを投げ置き、寝室に戻って適当なシャツを引っ掛ける。
そういえば。
妙な電話で叩き起こされたせいで、今日に限っては顔も洗っていない。
(クソ。)

洗面所の鏡の前に立ち、適当に髭を当たって歯を磨く。
その間に俺は、俺と対称に動く顔色の悪い男と見つめ合う羽目になる。
あの女優に似ているとも言われる、彫りの深さと色の抜けた髪。
どことなく浮世離れした外見は女優とかそういう商売には使えるだろうが、
俺の場合、厄介事を呼び込む要素以外であった試しが無い。

他人との接触が苦手な俺が人一倍目立つ外見というのは、まさに冗談めいた取り合わせだ。
俺に同意して、鏡の中の男も眉をひそめた。
そういえばコイツはいつも機嫌が悪い。
俺なわけだが。

身支度の最後として、玄関脇の金具に引っ掛けたソフト帽を目深にかぶる。
俺は人が嫌いなわけじゃない。多分。
そう思う。
しかし上手く対処出来ない事は事実であり、それなら接触を避けた方が双方の為だろう。

出掛け際、なんとなく呼ばれた気分で、俺はもう一度作業部屋をのぞいた。
薄く開けたドアの隙間から、キャンバスの下書きを見直す。
近くで見るのと離れて見るのでは見え方が違う。
少し離れて見直しても、そこそこ悪くない。しかし手を入れ直すべき箇所も見えた。
下絵の手直しと本塗りの手順なんかが、瞬時に俺の頭を駆け巡る。

間もなく俺は、キャンバスに叩き付けた無骨な下絵のタッチを俺自身の手で塗り込める事になる。
仕上がった頃には、この気違いじみた線は微塵も残らない。
「粗いタッチとは対照的な色彩の繊細さが貴方の絵の魅力」だと、とある画廊のオーナーは言った。

「繊細な色彩」の下に眠る狂った紅を知るのは俺だけだ。
それは秘密というよりは、俺にしか意味を持たない狂気であるが故の必然だろう。

そして繰り返し描かれては潰される狂った紅の意味は、俺自身知らない。
おそらく、意味など無いに違いない。

そうでなければ、或いは、俺は深い部分で狂っているのかもしれない。


- 続 -
 


時間的には少々戻ってます。
三蔵の語りが3回分続いて、最後で悟浄語り部分の最後と時間的に合うハズです。
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