39


     
     「さて、と。」
     
     部屋を片付け終わったら出ると、僕は決めていた。
     前日にこの部屋を後にした時に大体の整理は済ませていたから、
     室内は特に散らかってもいない。
     名残り惜しむ間もないらしい。
     
     「じゃまあ僕はそういうことで。」
     「・・マジ出てく気?。」
     「まあ出て行くと言っても死ぬわけじゃないですし。」
     「そりゃ当然だけど。」
     「お世話になりました。」
     
     未練が残らないように、僕は梧譲の顔も見ずに適当な言葉で部屋を出た。
     しかし実際部屋を出たのは僕の右足一歩のみだ。
     アパートのドアを開けて身体半分外に出た僕の腕は、
     梧譲の手にひしと掴まれていた。
     
     「待て。」
     「あの。痛いです。」
     
     去り際の僕を彼が引き止めたと言えば、ロマンチックに響くかもしれない。
     しかし実際のところ、玄関先で歩を止めた僕と彼は、
     現行犯で掴まった万引き犯人と刑事まがいの無骨さだ。
     後ろ手に捉えた僕の腕を軽くひねるのは無意識かそれとも故意か。
     これじゃ関節技だ。
     
     「痛いんですけど!。」
     「あ。ワリ。さっき悟一と技決め合ってたから。」
     「・・。」
     
     「なあ、絵は宗蔵が描き直してくれたじゃん。」
     「そうですね。」
     「だから、もういいよ。」
     「そういうわけにはいかないでしょう。」
     「なんで。」
     「なんでってアナタ。」
     
     僕はもう一度彼の前で、自分の負けを再確認する台詞を吐かなくてはならないのだろうか。
     玄関先で振り向いた僕を、彼は言葉もなく間近で見据えていた。
     微かに眉根に寄った皺は、「マジ分かんないんですけど」と、そういう意味だろう。
     本当に困った人だ。
     
     「僕、手紙残しましたよね。」
     「・・あ。」
     「読まなかったとは言わせませんよ。」
     「よ、読んだ。」
     「だったら分かるでしょう。僕がココに居れない理由が。」
     「あ〜・・っと・・」
     「さようなら。どおぞお幸せに。」
     
     「待・て!。」
     
     またしても彼は僕の腕を掴み、おまけに後ろ手に関節をキメた。
     
     「痛!。痛いです!!。」
     「待てっつてんだろ!!。」
     「待ってるじゃないですか!!!。」
     
     その時、隣の部屋のドアが開いた。
     それは開けられたというよりも、
     内側から蹴り付けた反動で開いたという感じの勢いだった。
     
     「ウルサイのよアンタ達!!!!。」
     
     貧乏アパートの隣室から姿を現したのは、意外にも女性だった。
     彼女を形容するならば、プロの女性とでも言うべきか、
     要するに水商売のお姉さんかもしれない。
     どうして僕がそう判断したかといえば、いくら激情に駆られたと言っても、
     スリップ一枚で隣人の前に姿を現す女性はそうそう存在しないと思われる故だ。
     
     「アンタら学生は年中休みかもしれないけどね、こっちは出勤前の貴重な時間なの!!。
     それにアンタ達、ホモならホモらしく人目を気にして暮らしなさいよ!!。」
     
     「んだと!!。」
     
     売られた喧嘩は買わずにいられないタチの梧譲が、ドアから顔だけ付き出した。
     これ以上話がややこしくなったら大変だ。
     僕は梧譲を部屋に押し戻しながら、半裸のお姉さんに微笑みかけた。
     
     「そうします。今後は人目を気にして静かに暮らします。」
     
     「まったくもお!!。」
     
     「うるさいホモなんて人間のクズよ」などと僕達に聞こえるように呟いて、
     半裸のお姉さんはガツンと扉を閉めた。
     梧譲はフン、と鼻息を荒げ、閉じられた隣室のドアに向けて中指を立てた。
     
     「・・で、なんでしたっけ。」
     「なんだっけ。まあとりあえず入れ。」
     「ええ。・・って僕出ていくところでした。」
     「あ、ソレだ。」
     
     う〜ん、と呻きながら、梧譲は長髪を片手で掻き回し始めた。
     厄介な話の予兆だろうか。
     
     「あのさ。」
     「はあ。」
     「お前は俺に惚れてないと思う。」
     「なんですかそれ。」
     「賭けてもいい。」
     
     「賭けませんよ僕は。」
     「そう。」
     「じゃこれで。」
     「待・て。」
     「いい加減にして下さいよ!。大体何ですか『惚れてないと思う』って!!。
     どう思うかなんて貴方の問題でしょう!!。
     それに精一杯の告白をそんなふうに一蹴される方気持ちを貴方は」
     「しーっ!!!。」
     
     梧譲は僕の口を片手で覆い、もう一方の手で自分の口の前に指を立てた。
     確かに今のさっきでは、隣のお姉さんに襲われかねない。
     
     「あのさ。」
     
     梧譲は僕の頭を抱え込むと、僕の額を自分の額にくっつけ、
     それから2人だけが聞こえるくらいの声で話し始めた。
     
     「俺はさ、結構レンアイ経験とか豊富なワケ。」
     「自慢ですか。」
     「聞けよ。だからさ、俺はそういうのが何となく分かるの。お前は違う、ってゆーか。」
     「僕は経験が浅いのでそういうのがどういうのなのか分かりません。」
     
     梧譲は抱え込んだ僕の頭を離し、ふ〜、と大きな溜息をついた。
     それから彼は、両手で長髪を掻き回し始めた。
     よっぽどの何かがあるんだろうか。
     
     「じゃ、一つだけ質問する。」
     「はあ。」
     「その答えによっては・・出てってヨシ。てか、出てけ。」
     
     掻き回しすぎてボサボサになった髪の間から、
     いつになく真剣な彼の瞳が僕を見上げていた。
     彼の緊迫振りにつられて緊張した僕は、胃のあたりに痛みすら感じた。
     
     「お前は俺に、ヤられもいいわけ?。」
     
     「は?。」
     
     彼の滑舌に淀みはなかった。
     語られた言葉の意味も理解できた。
     なのに僕の思考は停止した。
     
     「俺にヤられたいのか、って聞いてんの。」
     
     「嫌!。」
     
     僕の思考は停止したままだ。
     だから考えて何かを言ったというよりも、内蔵から気持ちが飛び出たという感じだ。
     
     ヤられるのは嫌だ。
     男なら誰だってそうだ。多分。
     ヤられるくらいなら殺される方を選ぶ。
     
     「イヤです!!。」
     
     その点をはっきりしないと、今この場で押し倒されるんじゃないか。
     そんな有り得ない妄想に駆られた僕は、ひきつった声音でただ叫んでいた。
     
     「絶対にイヤです!!。」
     「分かった。もういい。」
     「絶・・・対にイヤです!!!!。」
     
     「アンタ達!!!。」
     
     バネ仕掛けの勢いで、再度隣室のドアが開いた。
     中から飛び出したのは、化け物だった。
     客観的に見るのなら、それは化粧途中かつ髪のセット途中の女性であり、
     顔が半塗りで頭にはカーラーを巻いたスリップ姿の妙齢の女性という事になるだろうが、
     怒りに燃えた見たこともない人型という意味では、直感的に化け物としか見取れない。
     
     「ヤベ。」
     
     思考停止状態で化け物を目の当たりにした僕は、
     もはや身動きすらできなかった。
     そんな僕を梧譲は屋内に引き込み、勢いよくドアを閉めた。
     
     僕は閉じられた扉に内側から背もたれて、浅い息を繰り返した。
     僕なりに自分を取り戻そうと努力したつもりだ。
     
     「な。分かったろ。お前は違うんだって。
     お前、女にフられたばっかりだっつーのに、俺はひとりで勝手に浮かれてて、
     それでお前、混乱しちまったんじゃねーの。だからそれは悪かった、って。」
     
     梧譲の解釈は明らかに間違っていた。
     そして更に悪いことに、僕の答えが「否」だった事で、
     彼は自分の仮説が証明されたと思いこんでいる。
     
     僕はドアをノックするみたいに、
     自分の後頭部を背後の扉に小さく叩き付けた。
     僕の本音を、一体どう説明すればいいんだろう。
     
     しかし、そんな僕の身じろぎすらも、
     彼は「本音がバレた野郎の戸惑い」と解釈したのかもしれない。
     
     
     「おかえり。」
     
     苦笑するような照れた笑顔で、彼が僕の肩を引いた。
     無骨な優しさの滲んだ彼の瞳に、うっかり僕は見惚れてしまった。
     だから、違うんだと言葉に出すタイミングを失った。
     
     引き寄せられるまま、僕は彼の肩にコツンと額を付けた。
     ついでに、額で彼の肩を押した。
     僕は、僕の本音を伝えるもう一つの方法を思い付いていた。
     
     実力行使。
     
     「ん?。」
     
     玄関先で僕に押されて後退る彼の足の踵が、
     玄関と居間の段差に止められた。
     つまり、後方への移動は封じられた事になる。
     
     僕は梧譲の耳朶に吐息をかけるように、彼の耳元で囁いた。
     
     「僕はそんなに甘くないかも。」
     「え?。」
     
     どういう意味、と問われる前に、僕は瞬発的な勢いで彼の肩を押した。
     後ろに下がれない梧譲は、当然その場に倒れる事になる。
     フローリングの床に後頭部を打ち当てて気絶されても困るから、
     僕は彼が倒れ込むより先に床に片膝を付いて、
     倒れ込む彼の上体を受け止めた。
     
     そして僕の読み通りに、姫とナイトの構図が出来上がる。
     
     好きとか嫌いの感情論を、いきなりヤるとかヤられるとかの話に
     すりかえた彼の問題証明はどうかと思う。
     どうかと思うがそれも実質的な一側面だと容認するのなら、
     ヤるとかヤられるとかの件においても、
     彼が提案した以外にもう一つのパターンが存在する。
     そして、そっちのパターンなら、僕も嫌じゃない。
     というより望ましい。
     
     そんな思惑を込めて柔らかく微笑んだ僕に、
     僕の腕の中の姫が目を見開いた。
     
     「何?、コレ。」
     「おとなしく身を引くつもりの僕を、引き止めた罰でしょうか。」
     
     僕は彼の上体を床に放すと、さりげなく自然に彼の両腕を取り、
     彼の頭の上で両手首をまとめ、それを僕の片手で床に押さえ付けた。
     おめでたい彼も、さすがに僕の意図を汲んだだろう。
     あとは早い方がいい。
     僕は彼の身体に乗りかかり、顔を寄せた。
     
     しかし、多少は焦ってもいいこのシチュエーションで、
     彼は口の片側で「へッ」と笑った。
     その意味を図りかね、つい僕が動きを止めたその隙に、彼が動いた。
     
     梧譲は僕が乗りかかった腰を軽くひねった。それだけだ。
     しかし彼の上に乗りかかる僕は微妙にバランスを崩し、
     彼の腕を押さえた片手の拘束が僅かに緩んだ。
     その手を、逆に握られた。
     
     「!。」
     
     片手を固定された僕は、次手への動きが封じられていた。
     バランスを崩した上に動きが限定されている僕は、簡単に床へと振り落とされた。
     おまけに、床に転んだ僕の喉には、膝立ちの梧譲のもう一方の膝が当てられた。
     決め手がついた事になる。
     
     「へへ。」
     
     形勢逆転した梧譲は、僕を上から見下ろして満足気に笑った。
     
     「先手取られたけど、持ち直して、イーブン、ってか。」
     「・・そんなところですか。」
     
     俺は負けてないぞ、と僕に確認を入れてから、彼は僕を解放した。
     僕はいろんな意味で気まずく、上体を起こして頭を掻いた。
     そんな僕に梧譲は手を差し出して、引き立たせてくれた。
     
     「いーんじゃん?、そういうの。」
     「は?。」
     「ストレス溜め込むよりもさ、ヤな事とかあったらドンと来い。」
     「・・。」
     「相手すんぜ。いつでも。」
     
     梧譲は片腕で力こぶを作ると、その上等な筋肉をもう一方の手でパンと叩いて見せた。
     見事なまでの爽やかブリだ。
     僕の本意は、全然全く伝わらなかったらしい。
     
     「・・はあ。」
     
     僕にはもう、振り絞る気力も体力もなかった。
     
     だからなんだかもう、それでいいやという気分になった。
     「それ」とは、梧譲の思う現状解釈の事。
     
     「アレ」じゃなくて「それ」の方に甘んじて彼の傍にいるのも悪くないのかもしれない。
     いずれ僕が欲望を隠し切れなくなったときには一騒動起こる事になるわけだけど。
     その時改めてこの場を去るという選択肢もあるし、
     それより何より当分は、事を起こす気力自体湧きそうにない。
     
     「じゃ、あの。」
     「ん?。」
     
     「・・今後もひとつよろしくお願いします。」
     
     
     - 続 -
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