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   38


     
     「・・ホントに来てたんだな。」
     「・・ホントに来てますね。」
     
     僕と梧譲がアパートに戻り着いたのは、夜の午後10時前。
     宗蔵から言い渡された通り、寄り道もせず2人で帰路についたわけだが、
     店を出る前に僕がピアノを弾いたりしたせいで、
     帰宅予定時刻を大幅に上回ってしまった。
     
     「・・怒ってるかな。」
     「怒ってるでしょう。」
     
     僕達は建物の角に隠れるようにして、アパート二階の玄関前を見上げていた。
     部屋前に立つ二人組の人相までは見取れないが、
     状況からしても背格好からしても、宗蔵と悟一であることは間違いない。
     
     ちなみに梧譲のアパートというのは、シンプルに表現するなら「結構頑丈なプレハブ」であり、
     2階への階段も野晒しの鉄梯子だから、こんな状況では大変見通しが良い。
     しかしそれは別に利点でもなくて、こんな場合は相手からも見つかり易いということだ。
     などと考えている間に、僕は悟一と目が合ってしまった。
     
     「戒ちゃん!。」
     
     まあいつまでも隠れてるワケにもいかないし、いいタイミングだろう。
     もぞもぞしたまま動かない梧譲の背を押して、僕達は鉄梯子まがいの階段を登った。
     
     「こんばんわ。悟一も来てたんですね。」
     「うん!。勉強の日じゃないのに戒ちゃんに会えるってラッキー。」
     「僕も嬉しいです。」
     「マジで?!。」
     
     「遅い!!。」
     「ワリ。」
     「遅過ぎる!!!。」
     「な何で俺にだけ言うんだよ!!。」
     「コイツらなんか和んでんだろ!!。」
     「俺のせいかよ!!。」
     「知るか!!。」
     
     「まあまあ皆さん。」
     
     「ひいきだ」とか「ガキか貴様」とか「腹減った」とか口走るそれぞれを適当になだめつつ、
     ご近所迷惑を考えて、僕は3人を部屋の中へと押し込んだ。
     今はもう僕のウチじゃないわけだけど。
     
     ◇◇◇
     
     狭い屋内に一応玄関はあるが、それはただ靴を脱ぐだけのスペースであり、
     上がればすぐに居間兼台所。その台所の壁に、あの絵が立て掛けられてある。
     僕が留守にする前から配置は変わっていないようだ。
     そしてやはり当然ながら、キャンバスは左上4分の1に褐色の液体を吸い込んだままだ。
     
     宗蔵は部屋に上がるなり脇目も振らずにキャンバスへと向かい、
     その前に立ち、腕を組んでは少々首を傾げるといった姿勢で、
     無惨に汚された絵を眺めた。
     
     渾身の大作が台無しになったのを眺めるというのは、一体どんな気分だろう。
     
     僕と悟一は宗蔵の背後で無意識に縮こまっていた。
     ふと顧みれば、悟一の脇で梧譲もが肩をすぼめている。
     
     僕達はまるで草野球中にガラスを割って職員室に呼ばれた子供達のようだが、
     しでかしたことはそれ以上だ。
     ガラスは入れ替えれば済むが、汚れた絵は元には戻らない。
     
     それに、宗蔵がこの絵の元に出向く気になった訳を僕達は知らされていなかった。
     僕まで呼ばれた理由はと言えばいっそうの謎だ。
     漠然と、僕にとってはあまり喜ばしくない事のような、
     そんな予感だけはする。
     
     宗蔵が一言も口を聞かずキャンパスを眺めること約5分、
     僕達だけが緊迫した沈黙の後、宗蔵はおもむろに絵の前に座り込んだ。
     そして彼は持参した木製の箱を開け、何やらガサゴソと始めた。
     
     取り出されたのは白いタオルと油絵用の溶剤。
     液体をタオルに染み込ませると、宗蔵はキャンバスのココアを吸い込んだ部分を
     ガツガツと拭き始めた。
     素人目にもその手法は大雑把過ぎる。
     あれでは汚れを広げるだけじゃないんだろうか。
     しかし僕にそんな事を口にする権利があるだろうかしかしいくらなんでも・・
     
     「あの〜。」
     
     先に声を上げたのは僕ではなく梧譲だった。
     
     「あのさ、俺明日休み取ったんだよね。」
     
     僕は思わず肩を落とした。
     彼が僕と同じ事を考えていると思うのが間違いだった。
     
     「そ、それでさ〜宗蔵。映画とか、どう。」
     「ちょっと梧譲。」
     「お前は黙ってろ戒而。」
     「彼に失礼でしょう今は。
     宗蔵は貴方が貰った絵を修復してるんですよ?、
     全然なおってないけど。」
     
     「全然なおってないとか言う方が失礼だろ!。」
     「そこは聞き流してもらうとして。」
     「そーなんだよなおってないんだよ全然!。」
     「何で貴方が開き直るんですか。」
     「なおんないんだよ分かってるよ、宗蔵、もういい!。」
     「ちょっと・・。」
     
     「その『なおんないのをどうにかしてくれてるのにやっぱりなおんないって』のが、
     見てらんないんだよ俺もお胸のコノ辺がちくちくと傷むっつーかさ!。」
     「・・意外とナイーブですね貴方。」
     「意外かよ!。」
     
     「あいにく明日は先約がある。」
     「え。」
     
     僕達に背を向けて独り黙々とキャンバスを拭く宗蔵は
     振り返りもせず、手を動かしたままで、
     それでも梧譲の誘いに反応した。
     僕達の話を聞いていないわけでもないらしい。
     
     「せ、先約?。」
     「戒而、お前も来るか?。」
     「はあ?。」
     「なんで俺は誘われないの?!。」
     「お前も来るか?。」
     「行く。行きます。」
     「じゃ僕はいいです。」
     「なんで。」
     「貴方に気を使ってるんですよ。」
     「でかした戒而。」
     
     梧譲は大きな手の平で僕の背をビシバシと叩いた。
     彼は露骨にあからさまに、まさに絵に描いたように嬉しそうだ。
     僕は気の抜けた感じで、彼に叩かれるままゆらゆらと身体が揺れるのに任せた。
     
     「貴方は僕に気を使わないんですかね。」
     「はい?。」
     「いいですもう。」
     
     「なんだ、来ねーのか。それじゃ悟一ががっかりだな。」
     「え?。」
     「い、いいよ。オレ、出れるかどうか分かんねーし。」
     
     ボソボソ呟いた悟一の言葉で、思い出した事があった。
     近々サッカーの試合があると、そういえば悟一に聞いていた。
     「出れるかわからない」のは、補欠だからという意味だろう。
     
     「前言撤回。行きます。」
     「え〜。」
     「絶対行きます僕。なんなら梧譲は来なくてもいいです。」
     「なんだと!。てかどこに行くんだよお前ら。あと俺。」
     「関東選抜の準々決勝戦。ね、悟一。」
     「ん。」
     「・・な〜んだ。」
     「なんだとは何ですか。やっぱり貴方来なくていいです。」
     「お前が決めんな。行くぞ俺は。」
     
     僕達4人は居間兼台所のフローリングの間にべったりと座ったままだ。
     行くとか来なくていいとか僕達がそんな事を話している間も、
     宗蔵は独りキャンバスに向き合っていた。
     
     なおしてもなおらないのを見るのがツライ梧譲はと言えば、
     僕とのつまらない会話に専念する振りで、
     敢えてキャンバスと宗蔵から目を逸らしている。
     
     僕の目の端で、宗蔵は独り「さて」と呟いて、何やらゴソゴソ始めていた。
     宗蔵は僕達に背を向けているから、彼の手元付近は僕の視界に入らない。
     彼は単に拭くのを終えて撤収の準備を始めたんだろうと、僕はそう思っていた。
     実はパレットを広げて絵の具を溶いていたなどと、誰が想像できるだろうか。
     
     「あ。」
     
     宗蔵の手に握られた太い筆が、ズッ、と画面左上4分の1をなぞっていた。
     本来は白だったけどココアで茶色になった部分に、更に漆黒の斜め線が入った。
     その情景を目の端に捉えた僕は、背筋が冷たくなり、身動きできなくなった。
     凍り付いた僕の視線の先を目で追った梧譲は、
     僕よりワンテンポ遅れて、前より一段と汚れた絵の有り様に気付いた。
     
     「うわああああっ!。」
     
     梧譲が叫び、宗蔵に背後から抱きついた。
     宗蔵の腕を押さえ込むつもりらしい。
     
     「止めて!。止めてくれ!!。」
     「離せ馬鹿者!!。」
     「お願いだから〜。」
     
     居間兼台所のフローリングの上でバタバタと暴れ始めた2人に気付きつつも、
     僕はキャンバスから視線を振り切る事ができなかった。
     この絵はもう、描き手自身の手によって殺されてしまったのだろうか。
     
     「悟一!!。」
     
     宗蔵の号令で、悟一が梧譲にタックルした。
     しかし体格の差と混乱の度合いで梧譲は悟一に勝っていた。
     
     「戒ちゃん!、手伝って!。」
     「え・・あ、はい。」
     
     思考停止状態の僕は、悟一に呼ばれるがままに
     一応梧譲を押さえる側に回った。
     
     「コラ!。離せサル!。」
     「サルって言うな!。」
     「お前もだ戒而!。」
     「と取り敢えず落ち着きましょう皆さん。」
     「宗蔵に言えよ!。まずコイツの錯乱を止めろ!!。」
     
     「錯乱してんのはお前だけだ。」
     「違うだろ!。」
     
     「は・な・せ。」
     
     宗蔵の声は、僕達が想像する以上に落ち着いていた。
     
     冷静とさえ言える宗蔵の声音に、
     僕達は憑き物が落ちたみたいに我に返った。
     
     「まったく」と口の中で呟いて、宗蔵はキャンバスに向き直った。
     彼が絵筆を取ったのは自暴自棄になっての事ではないらしいと、
     ようやく僕達にも分かり始めていた。
     
     「コイツは俺のクソだ。」
     「まだそんな・・。」
     「え?。糞?。」
     
     「だが、クソなりのささやかな希望も託した。
     俺の意識の届かない、天上の無色。」
     
     敢えて塗り残したキャンバス地に自身の希望を込めたのだと、
     宗蔵はそう告白していた。
     そして今彼は、彼自身の手でその希望を塗り潰している。
     そうさせたのは、僕だ。
     
     「面白いもんだな。教訓か。」
     
     僕には返す言葉も無い。
     僕達3人は横一列に並び、宗蔵の背と、休む事なく動く筆先と、
     塗り込められていく「希望」を見据えていた。
     
     「手を抜いた他力本願の希望なんざ、所詮こんな結末だ。」
     
     キャンバスを縦横に横切る宗蔵の手は、
     今やココア色に変色した隅の一部分のみならず、
     絵の全貌に筆先を落としていた。
     
     「あ。」
     
     気付いてみれば、彼が絵に乗せていく黒は、タッチ毎に同じ黒ではなかった。
     手元が何度もパレットに戻るところを見ると、微妙に濃度を変えているらしい。
     それに、腕の動きが大きいせいで一見無計画な塗りのようだが、
     気をつけて見れば色の置き方にはある規則性がうかがえた。
     
     「お。」
     
     僕達の目前、
     キャンバスに浮かび上がりつつあるのは、街の夜の姿だった。
     
     「だが、絵なんざ描き直すまでだ。」
     
     茶色く変色したかつての「希望」は、今や完全に夜の闇に落ち、
     その余韻すら無い。
     しかし建造物自体は淡い月光を受けて、街の姿を朧に浮き立たせていた。
     かつての赤い造形は今や暗い闇の中で、
     色褪せた写真のように懐古的な色合いに変貌していく。
     
     奇蹟を目の当たりにした宗教家みたいに、僕は敬虔な感動を抱いて
     僕の目の前でゆっくりと生まれ変わる街並みに魅入っていた。
     
     陽の光を反射した淡い銀の月が、前と変わらぬ配置の建造物を
     まるで別の風景として再構築していく。
     絵の中に光源は描かれない。
     しかし、キャンバスからはみ出た僅か先の空に月が存在する。
     造形を浮かび上がらせる光と影のアングルから、見る者はそれを確信できる。
     
     「手抜きの希望なんざ、泥にまみれて当然だ。
     貴様等に汚された以上に俺が塗りつぶしてやる。」
     
     物騒な宣言通りに、かつての「希望の空」は彼の手で闇に落とされた。
     しかし、キャンバスの外に昇った月が、彼の心象風景を新たに照らし直した。
     
     絵の一部に描かれない部分を残し、無意識を希望としたかつての絵とは違い、
     生まれ変わった絵は、キャンバスの全てに彼の意図が及んでいた。
     
     悟一が持ち込む騒動や、僕が無意識に叩き付けた反感や嫉妬、
     そんなもの全てを塗り込めて、新しい風景を創り出せる程に、
     彼は、しなやかで強かった。
     
     「ま、こんなもんか。」
     
     一段落ついたらしい。
     宗蔵は絵筆とパレットをフローリングの床に投げ置いた。
     生まれ変わった風景を少し離れて見る為に、宗蔵はキャンバスから一歩分だけ退いた。
     僕達はと言えば、僕、梧譲、悟一、と横一列に並んで
     変わりゆく絵の有り様に魅入っていたわけで、
     後ろに下がった宗蔵は、僕と梧譲の間に割り込んだことになる。
     
     「どーだ?。」
     「素晴らしいです。」
     
     咄嗟の僕の感想は、表現として最高に陳腐だ。
     だけど、それでも構わない。
     この絵の前では、どんな言葉だって陳腐に聞こえるに違いないのだから。
     
     「すげーな。」
     
     「悪くないか?。」
     「悪いどころか・・すげーよ。うん。俺マジびっくりしてまだなんかこう。」
     
     「俺のクソ2号だ。」
     「・・また大作をそんな・・」
     「糞?。何が糞?。」
     「お前の絵、さ。」
     
     宗蔵はひとりでクスクスと笑い、
     新たな生を得たキャンバスを、鼻先で無造作に梧譲へと示した。
     
     「え!。コレ俺の?!。」
     「そもそもお前のだろ。」
     「えっ!・・あ、そ、そう。そう!。俺の!!。」
     「まあ、邪魔なら」
     「まさか!!。部屋が狭いっつーなら俺が家を出る!!。」
     
     興奮のあまり、梧譲の話は無茶苦茶だ。
     まあ僕が出て行くんだから安心してくださいよとか
     僕は心でそんなことを呟いた。
     
     「おっと悟一、お前は今後絶対『俺の絵』に近づくな。」
     「・・うん。」
     「もう一度前みたいなことしてみろよ、その時は俺様がお前を・・」
     「気をつけるよ。」
     「信用できねえ。」
     「気をつけるって言ってんだろ!。」
     
     兄弟じみた梧譲と悟一の口喧嘩は次第にエスカレートした。
     それからどちらが先とも言えない感じに手を出し始め、
     いつの間に二人はつかみ合いになっていた。
     
     新しい絵の前で二人が度を外す事はないだろうと思いつつも、
     僕はこっそりキャンバスを引いて揉み合う二人から離した。
     
     宗蔵はと言えば、二人の喧嘩は全く目に入らないみたいに、
     彼が言うところの「クソ2号」を眺めつつ、
     煙草をくわえて火を点けた。
     
     「借りは返した。」
     
     貸したつもりのない僕は、
     それが僕に向けられた台詞だとは気付かなかった。
     
     「聞いてんのか。」
     「僕ですか?。」
     「他にいるか。」
     
     あと二人いるにはいるが、
     殴ったり殴られたり揉みくしゃになっている現状からすれば、
     話ができる状態なのは僕だけだ。
     
     「貸してませんけど僕。」
     「今朝の事だ。」

     「・・あ。」
     
     今朝の僕達のささやかな過ちを、彼は「借り」と認識したらしい。
     そして僕が汚した絵を甦らせた事で「借り」はチャラ、と、そういう発想だろうか。
     
     「僕的には、役得かなあなんて思ってたんですけど。」
     「一体どんな役だ。馬鹿者。」
     「あはは。」
     
     「梧譲と話したのか。」
     「ええまあ。」
     「もう一度話せ。」
     「貴方に命令される覚えはないです。」
     「俺の借りがない状態で話せと言っている。」
     「僕、貸してませんて。」
     
     宗蔵は吸い込んだ煙を天上に向けて長く吐いた。
     素直にYESと言わない僕に不満なんだろう。
     
     「貴方には関係ないじゃないですか。少なくとも僕に関しては。」
     
     梧譲の方には関係あるかもしれないけど、と言外に含んでしまうあたり、
     僕は無意識に皮肉めいている。
     
     「言い訳すんなよ。」
     「はあ?。」
     「俺のクソを汚したとかそういう事を理由にするなと言っている。」
     
     「随分余裕ですね。自分が勝つと信じて疑わない。」
     
     今度は露骨な僕の皮肉に、ぼんやり天井を眺めていた宗蔵もさすがに振り向いた。
     まるで珍しい動物を見つけたみたいに僕を凝視したあと、
     彼はあろうことか、口の端だけで笑った。
     
     「初めから負けてる気分のヤツに負ける気はしねーな。」
     「・・僕を挑発してどうします。」
     「さあな。挑発してるつもりも無い。」
     
     「僕が勝ったらどうします?。」
     
     あり得ない仮定をつきつけたのは、僕の精一杯の虚勢。
     素でポーカーフェイスの僕に限っては、
     他人にはそうとも見えないかもしれないけれど。
     
     「奪うさ。」
     
     宗蔵は片眉をひそめ、僕を覗き込んでいた。
     僅かに引かれた口元は、これも一種の笑顔なのかもしれない。
     僕に明白な事実はただ一つ。
     彼は僕に負ける事をすら楽しむつもりだ。
     
     「・・。」
     
     虚勢の余力すら無い僕は、彼の目前で肩を落とした。
     完敗だ。
     
     「ま、せいぜいかんばれ。」
     
     ダメ押しされた。
     
     僕のダメージを推し量る事もなく、
     宗蔵は用が済んだとばかりに退場する気配だ。
     
     
     「帰んぞ!、悟一。」
     
     フローリングの床の上、悟一と梧譲はといえば、
     プロレス技のかけ合いにいそしんでいる最中だった。
     しかし宗蔵の掛け声一つで、悟一は訓練された警察犬の素早さで
     梧譲の腕固めを擦り抜け、玄関先の宗蔵の脇に並んだ。
     
     「じゃーな。」
     
     突然遊び相手の弟分を失った梧譲はと言えば、
     腕固めを抜けられた体勢のまま、つまり床に寝転んだままで
     愛しの君が帰りがけという現状に気付いたところだ。
     
     「ままま待って!。」
     
     梧譲は叫んで、寝たままの姿勢で腕だけ伸ばした。
     起きてから叫べばいいものを。
     無人島で救助を求めるような逼迫感に、
     帰りかけの宗蔵も玄関先で振り向いた。
     
     「『俺の絵』、サンキュ!。」
     「ああ。」
     
     そしてこのまま宗蔵と悟一が立ち去れば、事は一旦丸く収まるのかもしれない。
     梧譲は2枚目の絵を与えられ、僕は絵を汚したという負い目をなくす。
     
     宗蔵の手によって生まれ変わった絵は、即興とは思えない出来映えだ。
     もし画廊に売るとしたら、以前の絵より高い値がつくかもしれない。
     だけど。
     あの激しい赤のキャンバスこそが、
     梧譲にとって特別な意味を持っていた。
     多分。
     
     「あの。」
     
     僕は僕の中のわだかまりを口にせずにはいられなかった。
     
     「宗蔵の前で梧譲に聞きたいんですけど。」
     「え?。」
     「前の絵とこの新しい絵と、どちらが好きです?。」
     
     玄関先の宗蔵が小さく舌打ちした。
     僕の問いに毒付いたらしい。
     
     床に寝転んでいた梧譲はだらだらと起き上がり、長髪を掻き上げた。
     言いにくい事を口にする前の彼の挙動で、もう答えは分かっていた。
     
     「前の。」
     
     それから梧譲は自分が悪い事をしたような顔で、僕と宗蔵を交互に見た。
     
     「アレは、特別だから。」
     
     玄関先の宗蔵は、ソフト帽を頭に乗せて、
     前が見えないんじゃないかと思えるくらいに帽子のツバを引き下げた。
     自爆した僕に愛想をつかして帰ると思われた彼はしかし、
     帽子に半分表情を隠し、梧譲に振り向いた。
     
     「前のクソを覚えてるか。」
     「糞?。」
     「前の絵だ。」
     「当然!。」
     「なら、それでいい。」
     「?。」
     
     「俺も覚えてる。」
     
     僕達が言葉の意味を反芻する間に、彼はもう立ち去っていた。
     後に付いた悟一が僕に微笑んで別れの手を振るのに、
     僕は反射のように手を振り返した。
     2人の姿が玄関先から消えた後も、僕は彼らの残像を見つめ、
     去り際の宗蔵の言葉を反芻していた。
     
     (「俺も覚えてる。」)
     
     僕には激しすぎると思えた赤のキャンバスは、
     今や現存しないが故に、宗蔵と梧譲が共有する何物かとなった。
     僕と悟一もあの絵を見るには見たけれど、
     あの狂気に踏み込んだのは梧譲だけだった。
     
     そして今後も、他の誰かがあの赤を知る事はない。
     なにせ絵自体がもう無いのだから。
     
     絵を失う事で、彼らは逆に何かを共有した。
     かつてのあの絵にこめられていた、
     僕には理解し得なかった何かを。
     それってなんか・・
     
     「スゴイですよね。」
     
     独り言めいた僕の呟きに、梧譲が振り向いた。
     そして彼は照れた子供みたいに笑った。
     しかし少々鼻の下が伸びてるあたりは、純粋に童心とも言い切れない。
     
     「へへ。」
     
     梧譲をこんな風に笑わせることができるのは、
     世界中で彼だけなんだろう。
     
     だから僕も彼に微笑んだ。
     僕も、嬉しかった。
     多少の喪失感も感じないと言えば嘘になるわけで、
     そんな喜びは偽善だと人は言うかもしれない。
     
     だけど。
     僕の胸に広がった安堵は本物だった。
     
     
     - 続 -
     .

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