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     「いらっしゃいませ!。
     ・・っと、おにーちゃんだ!!。」
     
     李厘ちゃんの賑やかな声に迎えられて、
     僕がこの店を訪れるのはこれで三度目。
     
     初回は悟一と、悟一の新しい保護者となった宗蔵とこの店で待ち合わせた時。
     二度目は、頼まれてこの店でピアノを弾いた時。
     三度目が、今日。
     
     そして、今回が最後になるんだろう。
     
     ウェイトレスというよりギャルソン風のボーイッシュな制服に身を包んだ李厘ちゃんは
     ローラー付の靴で僕に滑り寄り、園児みたいな無防備さで僕の周囲りをくるりと回った。
     そんな彼女に微笑みながらも、僕の目は無意識にもう一人のスタッフを探していた。
     
     店内に踏み込んだばかりの僕から数歩と離れない場所に、彼は居た。
     
     ノリの効いた白いシャツに蝶タイという彼にしてはめずらしい正装も、
     赤い長髪のおかげで堅さが抜けて、その分艶っぽく見える。
     レジ脇のカウンターで頬杖をついたその姿は、
     高級喫茶店のチーフマネージャーと言うには少々シマらない。
     彼がシマらないのはきっと、今この場にいない麗しの君へと思いを馳せていたりするせいだろうか。
     
     頬杖のままで彼はぼんやりと、しかし確実に僕を見つめていた。
     現れたのが愛しの彼じゃなくて僕だった事に、
     少なからず驚いているのかもしれない。
     
     「ぼおっとしてたら死んだハズの友人に出会っちまったけどこれは夢なんだろーか」とか
     そんな事を考えているような顔だ。
     僕は図らずして彼の虚を衝いたらしい。
     おかげで出会い頭に怒鳴られる事も無く済みそうな気配だ。
     
     「特に親しくもないけど名前くらいは知っているクラスメートに街で偶然会いました」
     そんな状況設定にふさわしい無難な笑顔で、僕は彼に会釈した。
     それから、多分普通一般の客はそうするだろうというように、
     自分の席を物色しつつ、店の奥へと歩いた。
     
     ざっと見渡せば、フロア中央の白いグランドピアノの向こう、
     3組ある壁際のボックス席にはカップルが2組の計4名が在席中。
     閑散とした店内と言えるが、閉店間際の客数としてはこんなものだろうか。
     
     先客から離れた場所を選んで僕が腰を落ち着けたのは、
     そういえばかつて宗蔵と悟一が向かい合っていた場所だ。
     無意識にレジ方向に背を向けて座った僕は、
     前に悟一が居た席に陣取った事になる。
     
     僕が腰を落ち着けてすぐに、ローラーシューズのウェイトレスさんが
     片手にはメニュー、もう一方の手は銀のトレイを肩の高さに上げて、
     テーブル脇に登場した。
     少年とも少女ともつかない不思議な魅力の彼女目当てでこの店に通う客も、少なからずいるに違いない。
     
     「ね〜おにいちゃん、お願いあるんだけど。」
     「今日は弾きません。」
     「え〜。」
     
     無邪気でキュートなウェイトレスさんを落胆させるのは僕的にもかなり不本意だけど、
     今日に限っては、どうしてもそんな気分になれそうもない。
     
     「じゃちょっとだけでいい。」
     「また今度弾きますから。」
     「ね、あのほら」
     一応は丁寧な僕の拒絶に耳をかす様子もなく、
     彼女は「タラララン・・」とリクエスト曲を口ずさみ始めた。
     
     「無理ですから!。」
     
     つい語気を強めた僕の目の前で、いたいけな少女は口を噤んで硬直した。
     ふと我にかえった僕は、大人げない自分の言動に慌て、場を取り繕う言葉を探した。
     だけど僕が何かマシな台詞を思い付くより先に、
     幼くしておおらかな天使は僕に照れ笑いを返した。
     
     「ごめーん。じゃまた今度。
     えっとそしたら、オーダー。何にする?。」
     「・・あ。ブレンド?。」
     「りょーかい!。」
     
     大きな瞳でバチッと僕にウィンクのサービスをくれたあと、
     李厘ちゃんは僕の傍らから滑り去った。
     今さっき無邪気な天使が短く口ずさんだ軽やかな三拍子のリズムが
     彼女の背を見送る僕の頭に余韻のように流れる。
     『子犬のワルツ』。
     
     女の子はみんな、ショパンが好きだ。
     
     少し前までなら、僕も嫌いではなかったけれど。
     
     頭の中で響き続けるショパンの繊細な旋律から思いを振り切って
     窓外の風景に意識を向けてみる。
     そう言えば、かつて宗蔵はこのテーブルで
     僕のピアノも耳に入らないみたいに戸外を見つめていた。
     よっぽど魅惑的な風景なのだろうかと思った記憶がある。
     
     しかし僕の予想に反して、ここから見下ろせる光景は陳腐なまでに平凡だった。
     『薄汚れた駅前の雑踏』。
     言葉にするならそのワンフレーズで足りる。
     
     例えば、心が洗われるような風景でないにしても、
     歌舞伎町とか錦糸町とかそういう街の荒みれ具合なら逆に
     行き過ぎていてある意味風情というか哀愁がある。
     しかしここから見下ろせる、程々に老朽化した駅ビルと雑踏の風景は、
     敢えて意識しなければ何も目に入らない程に普通だった。
     
     このつまらない街並みに、宗蔵は一体何を見ていたのだろう。
     
     一日未満彼の傍らで過ごした今ですら、
     僕は彼という存在を掴みきれないままでいた。
     
     内気で尊大、繊細で大胆、真摯にして横暴。
     完全に対立する諸要素が彼の内では至極当然のように共存する。
     
     (人じゃないかも。)
     
     そんな馬鹿げた結論が、一番納得がいくようにも思える。
     神とか聖霊とかだというのなら、
     彼の浮世離れした端麗な容貌の説明も容易だ。
     
     それにつけても。
     
     僕の想い人は何故よりにもよって
     そんな特別な人を選んでしまったのだろう。
     特別過ぎて微塵も張り合おうという気が湧かない。
     
     まあ、一見フラフラしてるようでその実しっかり現実を踏まえている梧譲と、
     俗世離れした芸術家の組み合わせというのは、
     意外と相性のいいカップルなのかもしれない。
     
     彼らの関係に於いて、僕は既に部外者だ。
     
     そう。
     その事実を梧譲と確認し合うという冴えない目的の為に、
     僕は今日わざわざこの場所に出向いている。
     
     
     僕が招かざる客として宗蔵のマンションに踏み込んだのが昨晩、
     彼と僕がささやかな間違いを犯したのが今朝。
     
     午後の講義に出席する都合上、僕は昼前に宗蔵のマンションを後にした。
     部屋を去る間際、これ以上話をややこしくする前に僕達は3人で会うべきだと、
     僕は宗蔵に提案した。
     しかし宗蔵は僕の話をちゃんと聞いていたのかも不明で、
     一方的に僕へと指令を出した。
     
     「ところで俺は俺のクソに用がある。夜にはあの絵の処へ行く。
     お前がヤツに会いに行くなら寄り道しないでヤツを連れて来い。
     お前も一緒だ。逃げんなよ。」
     
     彼はたしかそんな事を言った。
     
     『あの絵の処』というのは梧譲のアパートを指すのだろうか。
     突然彼が何を思い付いたのかは不明だけれど、
     汚してしまった彼の大作の前から逃げ出したい気分の
     僕の心情の方は読まれているようだった。
     
     どうにも、分が悪い。
     
     
     「コラ。」
     
     視線は戸外へと向けつつも、内側の思いに沈み込む僕を現実に引き戻したのは、
     今となっては懐かしくもある無骨な声音だった。
     
     声に呼ばれて傍らを顧みれば、
     テーブルのすぐ脇に梧譲が立っていた。
     彼はトレーも無しでコーヒーのソーサーを直接持っている。
     その上にあろうことか、バイトとはいえフロアのチーフマネージャーはくわえ煙草であり、
     その口の端からは紫煙がもくもくと上がっている。
     
     こういう有り様だとせっかくの白いシャツも本来とは違う意味に見える。
     僕は暴力団の事務所で若い衆に茶を提供されているような錯覚を覚えた。
     
     「・・どうも。」
     「戒而、話がある。」
     「はあ。」
     「もうすぐ店閉めっから待ってろ。」
     「ええ。僕もそのつもりです。」
     
     口の端の煙草もそのままに、
     彼は僕の目前にガツンとコーヒーのカップを置き捨てて去った。
     置き方が乱暴なせいで、カップの中で大きく揺らいだ濃い色の液体は、
     多少の表面張力をも振り切って、全容量の一割くらいが雫となってテーブルの上に散った。
     
     (・・怒ってる・・みたいですね。)
     
     当然だろう。
     
     何かを失った。
     そんな気分の時には必ず、
     僕の胸の隙間にはショパンのノクターンが滑り込んでは鳴り響く。
     だけど、粘液質の悲壮感に囚われる前に
     僕は胸に忍び込んだ旋律を振り払った。
     
     物憂げな音に呼び戻されないように、僕は指先で軽くテーブルを叩く。
     意図的に思い浮かべるのは、ビル・エヴァンズの「Funkallero」。
     リズム取りが困難な前のめりのウッドベースが聞こえるつもりになって、
     イメージ上の鍵盤で、ビートを更にリードする旋律を叩き出す。
     
     どこまでも整然と、明晰に、冷徹に。
     
     あたかも僕には感情なんてないのだというみたいに。
     
     そう。そこがポイントだ。
     
     置き手紙を残して逃げ去るつもりの僕が戻ったのは、
     まさに今から彼の前でそういう役割を演じて、
     今までの過ちを精算するためなんだから。
     
     
     - 続 -
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