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     翌日。
     俺は朝から作業部屋に閉じこもっていた。
     
     夕べ遅くに戻った悟一はと言えば、今はキッチン兼リビングで戒而と朝食の最中だ。
     手持ち無沙汰に任せて戒而が一晩中下ごしらえをした量の朝食は
     夕方までも食い続けられる程だろうが、
     俺自身はどうにも食欲を感じない。
     
     前夜のドタバタから自身を取り戻す為にも、
     俺は俺自身の場所に立ち戻る必要があった。
     そんなわけで、俺は久々に白いキャンバスと対峙している。
     
     画廊への販売用に描き始めたラフを結局ヤツのオーダー通りに仕上げたせいで、
     そう言えば画廊への納品分が何も上がっていなかった。
     
     素描から再度始めるつもりで、俺はいつもの赤を一色パレットに溶いた。
     筆先で慣れた赤を掻き回すうちに、自然と題材は決まる。
     
     しかし、今朝に限っては何も思い浮かばなかった。
     
     俺がキャンバスに叩き続けた赤の狂気は、今やその意味を薄めていた。
     それは俺自身にとっても驚きだった。
     
     怒りと狂気をそのままに受け止める存在が現れた事で、
     俺の衝動は解放されつつあるのかもしれない。
     
     俺の中で、何かが終わったのだろう。
     
     ならば、俺はようやくスタートラインに立った事になる。
     ようやく俺は、壊すのでも叩き付けるのでもなく、初めて何かを創造できる。
     
     (だが一体、何を創る。)
     
     手が止まったままの俺の背後で、ガンガンと出入り口のドアが叩かれた。
     悟一だ。
     ドアを開ける前にノックしろと言ったのをようやく覚えて守っているらしいが、
     ノックして間髪入れずにドアをブチ開けるなら、ノックの意味は無い。
     だが面倒なのでそこまでは言わないまま今に至る。
     
     「朝ご飯早く食べろって!。」
     「ああ。」
     「冷めちゃうよ。」
     「分かった。」
     「じゃオレ学校行ってくる。」
     
     「悟一。」
     「ん?。」
     「美味かったか?。」
     悟一は満面の笑みで、俺にビシッと親指を立ててよこした。
     「おう!。」
     「そりゃ良かったな。」
     暇にまかせて一晩中下ごしらえした戒而も報われるだろう。
     
     「な、宗蔵。戒ちゃん、ずっとココに居ちゃダメかな。」
     「あん?。」
     
     上目遣いに睨み付けた俺に恐れをなしてか、
     悟一がその足を半歩引いた。
     
     「いやあの、思ったダケ。なんとなく思ってみたダケだから。」
     「調子にのんなよ。ココは」
     「分かってる。ココは宗蔵んちだから。」
     
     もしココが俺の場所でなく悟一の場所だとするなら、
     悟一はヤツを一体どうしたいのだろう。
     だが朝のせわしない時間帯は、そんなことを聞き出すのに相応しくもない。
     
     「んじゃ行ってきます!。」
     
     作業部屋のドアを閉めもせず、ドタバタと悟一が駆け出した。
     その後の物音からすれば、玄関までもが開け放たれたままだ。
     閉めろと叫んだところで、もはや悟一の耳には届かないだろう。
     
     あの野郎とか呟きながら、結局俺は立ち上がり、玄関先まで扉を閉めに出た。
     玄関から続く廊下の突きあたりでは、やはり当然のようにキッチン兼リビングのドアも開け放たれている。
     開いたドアの隙間から、食卓にひとり取り残された戒而の姿が小さく見取れた。
     
     気のせいかもしれないが、その姿が何となく侘びしいような気がして
     俺は無意識に頭を掻いたりしていた。
     
     描くべき対象も見つからない今、
     朝食にでも付き合うのが正解だろうか。
     
     
     ◇◇◇
     
     
     「お早うございます。すぐ準備しますね。」
     
     食卓には朝食というよりディナーの風情の数の皿が並べられていた。
     しかしどれも空だ。これを全部悟一が食ったのだろうか。
     
     「たくさん食べてもらうと、嬉しいですね。」
     
     それにも限度があるだろう。
     正直俺はゾッとした。
     
     答えない俺の目前、空いた皿は戒而によって手早く撤収されつつあった。
     そして俺はテーブルの隅に乗った朝刊に気付いた。
     戒而が朝に郵便受けから取ってきたんだろうか。
     ヤツの気の回り具合に敬服しつつ、俺は時間潰しにそいつを手に取った。
     
     俺はバサバサと新聞を繰り、
     今日もまた特にこれといって気を引かれるニュースが無いのを確認し終えた頃、
     目の前に一杯のコーヒーが差し出された。
     
     「どうぞ。蒸らし時間短め、かつ浅出しのマンデリンです。」
     
     どうやら俺の好みを覚えていたらしい。
     一口啜ったそれは、以前のヤツのコーヒーと同様、比類無く美味かった。
     それを伝える為に肯いた俺に、ヤツは柔らかく微笑んだ。
     
     「あの。夕べはすいませんでした。」
     「全くだ。」
     「・・。」
     
     昨晩の事をこれ以上蒸し返すのもどうかと思われた。
     ヤツも同じ気分なのだろう。
     俺はそれ以上を話さず、戒而もまた続けようとはしなかった。
     
     テーブルの上の空恐ろしい量の皿はいつの間に完全撤収され、
     今は俺用に盛られた一皿が出し直されている。
     戒而は俺の向かいで、両手でマグカップを抱えていた。
     
     いつもの朝なら俺と向かい合うのは悟一であり、
     俺は毎朝この場所で「こぼすな」とか「こぼしたら拭け」とか怒鳴り散らすのが常だ。
     しかし今、目の前の男に怒鳴る要素は何もないわけで、
     俺は暇に任せて目前の存在を観察していた。
     
     窓から差し込む朝日にも透けない漆黒の髪が、端正な輪郭を一層際立たせている。
     カップを抱える指先は筋張って長く、神経質な器用さを思わせた。
     そう、確かにヤツは器用だった。
     コーヒーや料理の数々、それにあの店のピアノがそれを証明している。
     
     しかしあの技術に依存した硬い音が、ヤツの心の音だろうか。
     
     「僕の顔に何か。」
     「綺麗な顔だな。」
     「・・嫌味にしか聞こえませんけど。貴方に言われると。」
     「もっとマシな相手が探せる顔だ。」
     「貴方もね。」
     「・・。」
     
     ヤツには何を言っても墓穴らしい。
     
     「もしかして、僕の今後でも心配してくれました?。」
     「まあな。」
     「余計なお世話ですよ。」
     「・・。」
     
     その温和な物腰とは裏腹に、実のところヤツは怒っていたらしい。
     しかしヤツの怒りは、俺に対していうよりはむしろ、
     世界に向けられているような気がした。
     何故だろう。
     
     俺が俺の宿題を片付け、
     つまりは俺もあの野郎を求めているらしいと認めた事によって、
     戒而は決定的に居場所を失った。
     
     なら、戒而が俺に怒りをぶつけたとしても、
     あながち八つ当たりとも言い切れない。
     しかしこの男は、それを諦めたかのように見える。
     
     「想う人の望みが叶うよう」。
     そう願う程には割り切れていないと、断言したクセに。
     
     もしヤツが、割り切れていない想いを
     目先の器用さでやり過ごそうとしているのなら。
     この男は見かけに反して不器用だということになる。
     
     「オイ。」
     
     俺は軽い手招きでテーブルを挟んだ向こうの戒而を呼んだ。
     
     「醤油ですか。」
     「イヤ。」
     「砂糖?。」
     「違う。」
     「ちゃんと言ってくれないと。」
     
     「お前だ。」
     
     疑問符を貼り付けた顔で呼ばれるままに椅子から腰を上げた戒而に、
     俺は食卓のテーブル越しに手を伸ばした。
     それから、そのままヤツを抱え込むようにして唇を奪った。
     その感触がどうなのか、経験の浅い俺は例えようも無い。
     
     「なんですか!!!。」
     「下手か?。まあその、覚えたてだからな。」
     
     誰に覚えたかと言えば、そう言えばヤツなわけだ。
     
     (・・。)
     
     俺は多分、余計な事を言った。
     
     「ど、どういうつもりですか。」
     
     あまり、意味はない。
     否、嘘だ。
     意味が渦を巻いて言葉にならない。
     
     失うばかりではなく、ヤツにも与えられる権利があるはずだと、
     俺はそんな事を思ったような気がする。
     どうなのか。
     
     「僕に何かを与えられるとでも思いましたか。」
     
     戒而の声は冷めていた。
     もしそうなら貴方は不遜だと、ヤツの瞳が言外に含んでいた。

     おそらく、戒而は正しい。
     
     「悟一に居場所を与えたように、僕にも何か恵んでくれるつもりですか。」
     
     俺は言葉を探せなかった。
     
     「僕達は梧譲に会った方がいい。
     これ以上話をややこしくする前に。」
     
     その点については、俺も同感だった。
     
     戒而はおもむろに席を立ち、それから流し場で洗い物に専念した。
     俺は食卓の皿に手を付けないままで、煙草をくわえて火を点けた。
     窓下に見下ろす馴染み深い街の風景は、いつになく遠いように感じられ、
     建造物の輪郭すらただぼやけて見えた。
     
     
     俺は戒而を傷つけた。
     多分。
     
     
     その事実だけが、いつまでも俺の頭の隅に貼り付いて消えない。
     
     
     - 続 -
     .

□□ ここまでのお付き合いありがとうございました □□  .
次の終章は八戒の語りで。

毎回どうにもすっきりしない終わり具合ですが(汗)、
最終的にはハッピーエンドで筋を上げてます。   .


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