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     間もなく俺と戒而は自宅マンションに戻り着いた。
     しかしそこにまだ悟一の姿は無かった。
     
     悟一が一緒にいるだろう相手は知れているわけで、
     不安はないが、別の種類の疑惑はあった。
     
     ヤツは何故あの時間にあの場所にいたのか、
     おまけに悟一を連れ出したのか。
     いずれにしても俺の絵が絡んでいる可能性は高く、
     それを思うとうんざりした気分になる。
     
     戒而はと言えば、買い付けた食材と共に台所に入り込み、ひとり何やら始めていた。
     明日の食事の準備には早過ぎる。
     敢えて俺を避けるようなヤツの不審な挙動で思い出したが、
     そう言えば戒而は「俺と部屋に2人きりは具合が悪い」と断言していた。
     夜中にわざわざ買い物に出たのもその為だった。
     
     野郎2人で何がどう具合悪いのかと腹が立つ反面、
     戒而の思惑を知ってしまった今となっては理解できない事も無く、
     しかも厄介な関係の当事者に俺も含まれているとなると、怒りのやり場が無い。
     
     おまけにリビングと続きのキッチンを戒而が陣取っているとなると
     俺の居場所までもが無いわけだ。
     俺はブツブツ文句を呟きながら、逃避先を風呂場に決めた。
     ひとりで考えるべき件もあるし、風呂から上がる頃には悟一も戻るだろう。
     
     ◇◇◇
     
     大理石めかした柄だがその実鋼製アクリルのバスタブに浸かり、
     顔を洗うついでに頭まで湯舟に沈めてみる。
     頭を冷やすのとは逆だが、普通でない状況の方が答えも出しやすいかもしれない。
     
     そう、俺自身の宿題の件だ。
     
     (「後悔しますよ。貴方。」)
     
     戒而の声が耳にこだました。
     
     もしヤツを失ったら、俺は後悔するのだろうか。
     
     答えを出すより先に息が詰まった。
     水飛沫を上げ勢いよくバスタブから頭を上げて、肺に空気を取り戻す。
     息が上がっていた。
     
     (バカか俺は。)
     
     やっている事がまるでガキだ。
     
     バカバカしい気分になって俺は結局風呂を出た。
     バスタオルで適当に濡れた頭を掻き回しながら、
     脱いだ服を洗濯機に放り込む。
     その時、丸めた服のポケットから、カツンと音を立てて
     小さな物体がフローリングの床に転がり落ちた。
     
     拾い上げたそれは、『クリムゾン レーキ』。
     俺がヤツに放り投げ、その後ヤツから戻されたあの絵の具だった。
     
     あの店で梧譲に絵の具を放り投げた日の事を、俺は思い出した。
     この赤の意味を、俺は問いたかった。
     つまり。
     あの時、俺はヤツを知りたいと思った。
     
     それで、どうなのか。
     俺はヤツを充分に知ったのか。
     
     (全然。)
     
     そういう事だ。
     宿題の解答としては、それで全て事足りた。
     
     俺はまだヤツを知る必要がある。
     
     
     何に付けヤツが手早すぎるせいで、
     俺は自分の欲望を見失っていたんだろう。
     
     (クソ。)
     
     手の早いヤツと出遅れた自分と、双方に毒付き乍ら俺は風呂場を後にした。
     口を衝いて出た言葉とは裏腹に、俺の気分は晴れていた。
     
     気付いてみれば、何も考える事などなかった。
     ヤツが俺に付け込んだのは、俺が隙だらけのせいであり、
     何故俺が隙だらけかと言えば、つまり、それが答えだった。
     
     
     俺も、求めていた。
     
     
     ◇◇◇
     
     「悟一は?。」
     「まだみたいですね。」
     
     キッチン兼リビングへと顔を出した俺に、
     流し前で作業中の戒而は手元から顔も上げずに答えた。
     
     「も少ししたらココ一段落しますから。そしたら僕その辺探しに出てみます。」
     「じき戻るさ。ほっとけ。」
     
     自身の宿題を片付けた俺は、ささやかな祝杯でも上げたい気分だ。
     しかし部屋に戻ってすぐに空けたはずの缶ビールが見当たらない。
     
     「冷蔵庫に戻しときました。」
     
     今俺は何かが無いとか声に出して言っただろうか。
     お前は超能力者かと心で戒而に問いながら、俺は冷蔵庫へと足を向けた。
     
     キッチン兼リビングは12畳程度がひと続きになった、だだっ広いスペースだ。
     南北に広く伸び、西一面は全面の強化ガラスが広い視界を確保している。
     台所自体はその広いフロアの北東部3畳程度の手狭な区画であり、
     居間のスペースを広いままにしておく為に、細かいものは全て台所に押し込んである。
     
     普段料理などする事もないせいで、台所のスペースはほぼ物置と化していた。
     その物置に男ひとりが先客として入り込んでいる。
     ただでさえ狭い場所が一層狭くなっているわけで、
     その最奥の冷蔵庫まではいつになく困難な道程と化していた。
     俺は先ず戒而を流し台に押し付けて、その背側に入り込んだ。
     
     「ああ、待って下さい。僕が取りますから。」
     
     その時ようやく俺に振り仰いだ戒而は、何故か俺を見つめて瞳孔を開いた。
     
     「な、なんですかその恰好!!。」
     「?。見た通りだが。」
     
     見た通りの風呂上がりだ。
     賭けてもいいが世間の風呂上がりの人間は9割がこんなもんだ。
     まあ俺の想像だが。
     
     「腰にバスタオル巻いただけじゃないですか!。」
     「悪いのか。」
     「貴方までそんな!。」
     
     『まで』とは何だ『まで』とは。
     
     「ビールですね。僕が取りますから。こっち来ないで。」
     
     何故貴様が俺に命令する。
     
     「あと煙草とライターが無い。」
     「玄関の靴箱の上に置きっ放しだったから僕が持ってきてます!。」
     
     流しの隅に確保されていた煙草とライターは戒而の手に取られ、
     それから叩き付けるようにガツンと俺に手渡された。
     渡されたものを受け取る衝撃で、濡れたままの俺の髪からは水の雫が落ちた。
     
     「床が濡れるじゃないですか!。」
     「・・拭くか?。」
     「腰のタオル取らない!!!。」
     
     一体何がそんなに気に入らないのか。
     
     風呂上がりのスタイルなんつーのは育った環境によるのかもしれず、
     そう言えば姉と2人暮らしだったとかいうヤツにとって
     タオル一枚は有り得ないのかもしれないが、
     同じルールを野郎の生活に持ち込まれるのも甚だ迷惑な話だ。
     
     「もういい。ちょっとどいてろ。」
     「こっち来ないでって言ってるでしょう!!。」
     「うるせーぞ。貴様、ホモか?。」
     
     突然場の空気が冷えたのを、俺は風呂上がりの生肌で感じた。
     俺にとっては何気ない売り言葉に買い言葉のひとつだった。
     しかし、差別用語めかしたその言葉は、この場合に限り真実を衝いていたことになる。
     
     「スマン。そうだった。」
     
     戒而がヤツに惹かれたというのなら、つまりはそう言うことだ。
     しかし、俺の真摯なる詫びの言葉は、この場合逆効果だった。
     俺は意図せずして戒而の逆鱗に触れた上に、油を注いで火を点けたらしい。
     
     「貴方ね、迂闊なんですよ。」
     
     戒而の声のトーンが落ちていた。
     
     声音のみならず、オーラまでもが一転していた。
     俺の知る温和な家庭教師の姿はもうそこには無く、
     目の前に立つ男は野生の狼めかした飢えをその瞳に湛えていた。
     俺の知る戒而と、本当に同一人物だろうか。
     
     「貴方は僕を追い返すべきだった。
     言ったでしょう。『僕は彼に惹かれた』って。
     だとしたら、僕が貴方に嫉妬しているとは考えませんか。」
     「そう考えろという意味か。」
     「フラれた腹いせに、僕が貴方の元にやって来る。
     そして、彼よりも先に、彼が望んだものを手に入れる。」
     
     さっきまで「こっちこないで」とか叫んでいた男は今や豹変し、
     自ら手を伸ばして俺の顎を掬った。
     俺の視線を絡め取ったその瞳は夢を見るように薄く霞んでいる。
     但し、暗い夢だ。
     おそらくはヤツ自身も望まないような。
     
     「これが、僕がココに来た事の当然の帰結だとは、考えませんか。」
     
     疑問形で投げかけたくせに、戒而は答えを待つ間もなく俺に顔を寄せた。
     期待されない問いの答えを、俺は敢えて口にした。
     
     「んな面倒な事考えるのは貴様だけだ。」
     
     俺の言葉に戒而がふと片目をひしいだ。その隙を衝いて俺は拳を繰り出した。
     不愉快な行為の仕返しに、横っ面を張り飛ばしてやるつもりだった。
     狭いキッチンの内側に逃げ場は無く、俺の拳が外れる要素もない。
     (?!。)
     しかし、俺の腕は戒而の鼻の前を素通りした。
     勢いも充分に突き出された俺の拳は、戒而の手に撫でられるように絡め取られ、
     その軌道を僅かに逸らしていた。
     
     (クソ!。)
     
     喧嘩にはまるで縁のなさそうな優男の外見にそぐわず、
     戒而は何らかの体術を身につけているらしい。
     素人には有り得ないかわし技だった。
     その事実に、俺は多少なりともあせった。
     
     冗談では済まなくなるかもしれないと感じた途端、俺の中の防衛本能が動いた。
     つまり俺は、本気になった。
     
     かわされた腕が振り切れる前に、俺は膝を突き上げた。
     位置と角度が絶妙だったのは運の良さか、それとも火事場の冴えだろうか。
     膝先には確実な手応え、もとい足応えが感じられた。
     俺の膝先は、正確に戒而の鳩尾を衝いていた。
     
     しかし、必殺の一撃が決まった安堵の余韻か、俺は次の一挙動への間合いが過ぎた。
     要するに、一歩退くのが遅かった。
     声を出す間もなく意識を途切らせた戒而の身体が、俺に倒れ込んでいた。
     
     「馬鹿者!!。」
     
     もはや聞こえていない人間に叫んだところで意味は薄い。
     狭い流し前で俺は今更後退ったが、何らかの食材の箱に足を取られてそのまま床にすっ転んだ。
     俺はしたたかに後頭部を打ち、
     更に俺の上に倒れ込んだ戒而の頭が、俺の胸付近にダメージを上乗せした。
     
     (クソが!。)
     
     乗りかかった荷物を即座に払い落とそうとしたが、
     そもそもが流しの裏は人が一人通れるだけのスペースしか空いていない。
     払ったところで戒而の身体を振り落とすだけの場所がない。
     
     狭い場所から這い出るつもりでジタバタと動くうち、
     俺の手は床の上に知った感触の物体を探り当てた。
     それは、少し前戒而に手渡されたジッポーのライターだった。
     
     (お。)
     
     その先を探ればマルボロのケースも落ちていた。
     
     こんな事で気分が落ち着くのもどうかと思う。
     どうかとも思うが取り敢えず、俺は煙草をくわえて火を点けた。
     俺は未だ床に寝たままであり、身体の上には意識の途切れた男を乗せている。
     
     バカバカしい。
     
     バカバカしい事のトドメに、そう言えば俺は半裸だった。
     
     更に、そう言えば。
     似たような馬鹿馬鹿しい光景を俺は以前目の当たりにしていた。
     あれは初めて戒而に会った日であり、初めてヤツのアパートを訪ねた日の事だ。
     今とは逆に、というか同じに、半裸だか全裸だかの梧譲の上に戒而が乗りかかっていた。
     
     (・・。)
     
     戒而を胸の上に乗せたまま、
     俺は紫煙を肺まで吸い込み、それから長く吐き出した。
     
     コイツとヤツは何か関係があったのだろーか。
     今更の疑問が俺の胸に浮かんでは消えた。
     しかしそんな疑惑はあんなシーンを見たその時に思い付くべきだろう。
     
     戒而の指摘通りに、俺は迂闊だった。
     迂闊というより、間抜けと言うべきか。
     
     良く知ったはずの物事が、俺には初めて見るように新鮮に見えていた。
     
     それは比喩にも限らない。
     
     例えば住み慣れたマンションに於いても
     こんなふうに床から天井を見上げるアングルは初めてだ。
     高層マンションの最上階にしては、天井は高いと言える。
     
     それはともかく、他に俺はあと何を見逃しているだろうか。
     
     
     「ただいまあ。」
     
     玄関付近で小さな声が上がった。
     ようやく戻った悟一が俺に怒鳴られるのを予感して、遠慮がちな声を上げたらしい。
     この現状においては渡りに舟だった。
     俺は何よりもまず、俺自身の状況を改善しなければならない。
     
     「悟一!、こっちだ!。荷物が落ちて動けん。」
     「えっ!!。」
     「どけるのを手伝え。頼む。デカくて動かせない。」
     
     - 続 -
     ..

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