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     「豆板醤、XO醤、オイスターソース、芝麻醤、甜麺醤まであるんですね!。」
     
     店に着くなり戒而はハイテンションに変貌した。
     
     俺が戒而を案内した食料品店は、駅とマンションの中間地点にある。
     高級住宅街のハイソなマダムあたりを客層にとらえた輸入食材店で、
     駅前のスーパーなら同じ物が半額で買える。
     
     見覚えのないパッケージやラベルの瓶がそこここに溢れている事からして、
     この店でしか買えないようなあれこれも多数存在するのだろう。
     しかしここでしか買えないような物は、何にどう使うのかが俺には分からない。
     よって、俺にとってこの店の利用価値は皆無であり、普段は通り過ぎるだけの場所だった。
     実際入ったのも今日が初めてだ。
     店内は外から見るよりも広く、生鮮、食肉、総菜、調味料と品揃えも豊富らしい。
     
     「甜麺醤はちゃんと輸入品じゃないですか!。日本で売ってるのは普通
     八丁みそに砂糖とごま油を加えて作るんだけど、本当は小麦粉を発酵させるんですよ。」
     
     だったらどうなんだと思うが俺は敢えて口にしない。
     
     「朝からこってりした中華なんざ食わんぞ。」
     「それもそうですね。」
     「先にメニューを考えろ愚か者。」
     「だってこんなに食材が豊富なんですもん。
     そうだ、野菜見ましょう野菜。どこですか。」
     「知らん。」
     「え。」
     「言っとくが俺がココに入るのは初めてだ。」
     
     「あ、あっちです。山積みのオレンジが見えるでしょう。
     きっとあの近くです。行きましょう。」
     
     行きましょうさあどんどん行きましょう、と背を押され、俺は店内をゆらゆらと歩いた。
     店内は当然ながら禁煙であり、俺自身のテンションは戒而とは対照的に下がる一方だ。
     
     「あっ、ルッコラ。ビエトラまでも!。」
     
     何が『までも』だ、と思うが俺は敢えて口にしない。
     
     「同じ種が2種類あるでしょう、こっちの丸みがある葉っぱが『ルッコラ・コルティヴァータ』。
     栽培種なんですよ。名前も貴婦人みたいだと思いません?、それとも深窓の令嬢かな。」
     
     よく見ろ。どこからどう見てもお前が今手にしているそれは草だ。
     
     「こっちの尖った葉っぱが『ルッコラ・セルヴァティカ』。野生種。
     見るからにワイルドですよね。扱いにくいけど味わい深い。言わばおてんばさんですか。」
     
     それも草だ。
     
     「そうだ、カルパッチョはお好きですか?。」
     「普通。」
     「ラビオリは?。」
     「普通。」
     
     明らかにやる気のない俺の受け答えに、戒而が険しい視線で振り向いた。
     俺を射殺す眼鏡越しの目線に多少圧倒されつつも、俺は平静を装った。
     
     「ラーメンの塩と醤油と味噌なら。」
     「・・塩。」
     「目玉焼きにかけるのは。」
     「醤油。」
     「卵の焼き方は。」
     「半熟。」
     
     「分かりました。大体。」
     
     何がどう分かったのか俺には不明だ。
     しかしそれから戒而の手は迷うことなく数種類の野菜を選び出した。
     ちなみにルッコラは『貴婦人』の方だった。
     
     その後の戒而の話によれば、ビエトラという野菜も複数種あって、
     ワインのように赤と白があり赤いのが云々・・
     とかいうあれこれを俺は適当に聞き流した。
     
     俺にややこしい説明を聞かせつつも、戒而の視線は陳列棚をせわしなく追っていた。
     敢えて奥の方からモノを取り出したりもしているが、何か理由があるんだろうか。
     
     「退屈ですか?。」
     「別に。」
     「退屈だって顔に書いてありますよ。」
     なら早く済ませろ。
     
     口には出さなかった分も俺の顔に書いてあったのだろう。
     戒而は少し肩を揺らしてクスクスと笑った。
     
     「僕は楽しいんだけどな。こういうの。」
     「そりゃ良かったな。」
     
     話の流れからすれば俺の言葉は嫌味以外の何物でもないが、
     半分は、本音だった。
     まあ、所詮半分だ。
     
     「よく、姉と2人でこんなふうに買い物に来てたんです。
     僕達の両親は海外赴任が長くて、僕と姉は学校があるんでこっちに残ったから、
     長いこと2人で生活してまして。」
     
     野菜ゾーンを一通り歩き終え、「次はあっちいきましょうあっち」などと背を押されるままに
     俺は店内をくまなく歩く羽目になった。
     肉や魚と新たな食材を目にする度に新たなうんちくが語られ、
     うんちくの合間にどうでもいい事のように、ヤツ自身の経緯も語られていた。
     
     「つい最近姉が結婚したんです。
     でも入籍に新居の建設が間に合わなくて、今その相手、まあ僕の義理の兄になるわけですけど、
     その男がウチで暮らしてるんですよね。そんなとこに僕がいれるわけないです。」
     「そーか?。」
     「僕、彼女の事好きだったし。」
     
     待て。
     彼女というのは姉か?。
     だとしたら何かおかしくはないだろうか。
     話を半端に聞いていたせいで俺が聞き違った可能性もある。
     しかしベーコンのパッケージに顔を寄せ日付チェックに余念のない戒而に
     今更そんな詳細を聞き直すのもどうだろう。
     
     「僕、実の姉が好きだったんです。」
     「・・。」
     「おかしいでしょう?。」
     「ああ。」
     
     咄嗟に同意した俺の答えを予期していたように、
     戒而は意外にも屈託無く微笑んだ。
     
     「肉と魚ならどっち。」
     「魚。だが悟一は肉だ。」
     「了解。」
     
     戒而に軽く背を押されて俺は次の食材ゾーンへと向かう。
     どこに何があるのか戒而には見当が付き始めてきたらしい。
     
     「そんなわけで失恋して、自暴自棄になってた頃に彼に出会いまして。」
     「彼?。」
     「今の同居人です。ああ、『元』同居人って言うべきなんでしょうけど。」
     
     俺は今までなんとなく、戒而のアパートにあの長髪が転がり込んだように思っていた。
     実際のところは逆らしい。
     
     「それで、気付いたら彼に惹かれてました。
     もう貴方も知ってると思うけど。」
     
     ん?!。
     
     「白身と赤身ならどっちです?。」
     「・・。」
     「朝からマグロもないですからね。赤身って言ったらこの場合ロゼとゆーかサーモンだけど。」
     「待て。その少し前のところをもう一度話せ。」
     「朝からマグロは出しませんというあたり?。」
     「もう少し前。」
     「白身と赤身ならどっち。」
     「白。」
     「分かりました。」
     「イヤ、違う。」
     「じゃサーモンで。」
     
     それも違う。
     
     「ざっとこんなもんですか。さ、会計して帰りましょう。」
     
     貴方も知ってると思うけど、と戒而が後付けしたその件について、
     俺は全く知ってなどいなかった。
     そうだとすれば。
     もし今俺が聞いた言葉が聞き違いでないなら。
     
     今まで分かるような分からんような、
     今一つ釈然としなかったあれこれの輪郭が、ようやく俺にも見え始めた。
     戒而が俺の絵を汚したという一件に関してもだ。
     その事件は確かに戒而にとって、俺のクソを汚したという以上の意味を持つだろう。
     
     あの絵を、梧譲は気に入っていた。
     
     つい考えに耽った俺の背を、戒而の手のひらが押した。
     俺は押されるがままに歩き、押された先でレジに並んだ。
     3人分の朝食にしては多過ぎると思える量のあれこれが
     中年女性の手によってバーコードをチェックされ、カゴからカゴに移る様を
     俺はぼんやり眺めていた。
     
     「大丈夫ですよ。」
     
     会計を済ませた戒而がそう言ったのは、
     その程度の量なら吾一が全部食うという意味ではなかった。
     
     「僕もこれ以上話をややこしくする気はありませんし。
     今晩はお邪魔するけど、明日には貴方のところを出ますから。」
     「・・行くとこあんのか。」
     「どうにかしますよ。」
     「どうにかなんのかと聞いている。」
     
     レジで手渡された大きな紙袋を抱えて、戒而が俺に微笑んだ。
     駄々をこねる子供を諭すような、そんな笑顔だった。
     
     「僕じゃ、貴方にかないそうもない。」
     
     「話をそらすな。」
     「想う人の望みが叶うようにと願うのも、愛のカタチでしょう。」
     「嘘くせーな。」
     「まあ実際はそんなに悟り切れてないんですけど。」
     
     未練があると言い切りながら、戒而は作り物のように綺麗に笑った。
     
     店を出て禁煙が解除されるなり、俺は煙草をくわえて火を点けた。
     店内と違って空調が効いていない分、外には湿度が感じられる。
     来たときより夜は更けているはずだが、薄明るい住宅街に闇の深まりは感じられない。
     
     「そーゆーことなんですよ。」
     
     妙に吹っ切れた口調で、戒而が突然そんな台詞を口にした。
     一体どこから続いている話題なのか俺には見当がつかない。
     
     「彼が貴方を選んだんですから。」
     
     裁判の結審が下ったかのように、戒而はとある事実を述べ立てた。
     
     しかし戒而はもう一方の事実を見極めるのを忘れている。
     
     俺は、誰かを選んだのかどうか。
     
     そして俺は一旦棚上げした俺自身の宿題を思い出す羽目となった。
     
     行き詰まった思考に衝かれて見上げた夜の空はただ広く、
     全体に薄ぼんやりと光を湛えていた。
     光源はどこか。
     見渡す限り、月は無い。
     
     俺の肩越しにクスリと小さな笑い声が響いた。
     
     「ホラ、月がないとちょっと淋しいでしょう。」
     
     「あるんだよ。」
     「どこに?。」
     「どこでもいいがどっかにはある。」
     「・・まあ、確かに。」
     「不満そーだな。」
     
     「あると思うだけじゃ満足できなくないですか。」
     
     「俺はどうしても月が見たいとも思わん。
     お前がそうじゃないんなら、探し回ればいいさ。
     座って待ってるよりは気分も晴れる。」
     「『欲しい物は手にいれろ』って事ですか。」
     「ああ。」
     
     「後悔しますよ。貴方。」
     
     戒而の声音が変わり、俺はふと足を止めた。
     
     そんな俺に戒而は振り向いて、「なんてね」と笑った。
     ソツのない綺麗な笑顔だった。
     
     
     - 続 -
     ..

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