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     降り立った地階には、生ぬるい風が吹いていた。
     
     マンションのエントランスでは地に埋め込まれた照明が、
     薄い緑の光を辺りに投げかけて、
     植え込みの草木を不自然な色に際立たせている。
     夜だというのに植物を眠らせない作戦は一体誰の為か。
     
     「さて、どっちでしょう。」
     「駅の方?。」
     「ああ。」
     
     そういえば外出時には手放した事の無いソフト帽を忘れてきたと、
     俺は今更ながらに思い付いた。
     
     「どうかしました?」
     「イヤ。」
     
     俺はくわえ煙草で歩き出した。
     帽子が無いくらいで頼りない気分になってたまるかと
     ふと自身に毒づいたところからすると、
     どうやら俺は多少心許無いらしい。
     
     しかしそれより何より気付いてみれば、俺の後を追う人の気配が無い。
     
     振り返って確認した先、マンションを出たあたりで
     悟一が遠くを見つめ立ち尽くしていた。
     俺と悟一の中間地点で、戒而は悟一へと今振り向いたところだ。
     
     悟一の視線の先を追うかたちで、俺は何気なく一軒先の通りに視線を投げた。
     その時俺の目は、生け垣の隅にふと身を隠した人影をとらえた。
     
     「・・見ました?。」
     
     戒而が俺に向き直り、そう聞いた。
     俺は「何を」と聞くかわりに、煙草をくわえた口の脇から紫煙を吐いた。
     
     隠れた影の人相までは見取れなかった。
     しかし赤い長髪の大柄な男がそうそうこの街にいるとも思えない。
     
     「あの。オレちょっと。」
     「悟一?。」
     「すぐ戻っから!。」
     
     謎の人影、もといそんなに謎でもない誰かを追って悟一が駆け出した。
     獣並みの駿足はあっという間に通りを駆け抜け、
     生け垣の角を曲がり、俺と戒而の視界から消えた。
     
     「・・どうしましょう。」
     「ほっとけ。行くぞ。」
     「でも・・。」
     「1人で出歩けない歳でもねーだろ。戻ると言ってるし。
     それとも俺らも行くのやめるか?。」
     「行きます。行きますけど。」
     
     行きますと繰り返しつつも、戒而は生け垣の向こうが気になるらしい。
     足が止まったままの戒而をその場に残し、俺は勝手に歩き出した。
     せっかく外に出たところだし、ひとりで夜の散歩というのも悪くない。
     
     家族団欒の時間帯も過ぎた今、駅前の喧噪から離れた住宅街は眠りにつきはじめている。
     外灯の薄明かりに照らされた通りには、生暖かい夜風が駆け抜ける。
     愛でる程のものが何もない風景も逆に悪くないと、俺はそう思う。
     
     誰も何も主張せず、ただそこにあるがままの情景には
     美とか醜とかの判断すら入り込む余地が無い。
     人の意識にのぼらないという事はすなわち、無きに等しい。
     別に卑屈になるわけでもなく、ただ在るがままに、無い。
     そんなありきたりの風景のなかに入り込めば、俺自身すら存在を消す。
     
     しかし、背後から駆け寄る足音は、紛れもなく俺を追っていた。
     どうやら俺は消えてなどいないらしい。
     まあ、当然だ。
     
     足音の主は、静寂の懐に滑り込むように俺の傍らに並んだ。
     特に話し出す様子もない。
     
     「追わなくていーのか。」
     「貴方こそ。」
     「何で俺が。」
     「まあ、そうですけど。」
     
     「僕は彼のところを出てきたわけで。」
     「ああ。」
     「彼のとこを出てきた僕が、彼を追いかけるってのもおかしな話でしょう?。」
     「そーか?。」
     
     そもそもがおかしな事の連続だった。、
     今更その程度のおかしな話は正直妙だとも感じない。
     
     「さっき、何考えてたんです?。」
     「いつ。」
     「ついさっき。独りで歩いてた時。」
     「別に。」
     
     その後の静寂は、未だ俺の解答を促しているような気がした。
     だから、どうでもいいと思いつつも俺は考えてみた。
     ついさっき、何か考えてたのかどーか。
     
     やはり、取り立てて何も考えてなどいなかった。
     
     「特に何も無い通りだとか、そんな事思ったくらいだが。」
     「ふうん。」
     「普通は色々考えてるもんか?。」
     「いえ。僕は貴方の後ろ姿を追いかけて走ったんですけど。
     何となく貴方の陰が薄いような気がしたから。」
     「?。」
     「なんだか、この世に存在してないような気がしたんですよね。
     気のせいに違いないんだけど。」
     
     言われてみれば、そんな事も考えていたような気がする。
     この場に俺が、否、この場自体が存在しないような気がしたのは
     俺だけではなかったからしい。
     
     「そりゃイイな。」
     「何言ってるんですか。全然良くないですよ。」
     「面白くねーか?。」
     「・・貴方、死にたいんですか?。」
     「そりゃお前だろ。」
     
     ふと空いた間の空気が重量感を増した。
     迂闊な受け答えの言葉が、図らずしも真実を衝いてしまった気がして、
     俺は幾分気まずさを感じた。
     
     「敢えて死ぬとか、俺はそんな面倒はご免だ。」
     「ま、そんないい加減な決意なら消えてもすぐ戻っちゃいますね。」
     「益々結構じゃねーか。実際俺は今ここで貴様とくだらない事を話している。」
     
     俺の肩越しで、「ふう」と聞こえるように大きい溜息が漏れた。
     しかし馬鹿馬鹿しい気分なのはお互い様だ。
     
     「ね、気付いてました?。」
     「あ?。」
     「空全体がうっすら明るいのに、月が出てないんですよ。」
     「そーか。」
     「ちょっと淋しいと思いません?。」
     「じゃ、探すな。」
     「?。」
     「探すから無い事に気付く。」
     「・・。」
     「あると思っとけばいい。」
     
     「なるほど。」
     
     単なる思い付きの言葉に、戒而は必要以上に納得した。
     俺はなんとなく気まずい気分で、帽子のツバを引き下げた・・つもりだった。
     しかし頭の上で俺の手は空振りし、
     そういえば俺は帽子を忘れてきたと今更ながら思い出した。
     
     世界との境界も持たずに、こんなに俺の軽口が過ぎるのは、
     隣の男の柔らいだ雰囲気のせいだろうか。
     それとも、夜のせいだろうか。
     
     
     - 続 -
     ..

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