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「入れ。」
「はあ。」
「座れ。」
俺がさっきまで座っていたソファの隣、朝食用の背の高い椅子の方、
そっちに座れと、俺は男に顎で示した。
そこは初めてこの男がウチに来た際、悟一に勉強を教えた場所でもあった。
男は逆う様子もなく俺の指示に従った。
俺は黙って男の向かいに腰を下ろした。
状況は何となく、取り調べ室のような様相を呈してきた。
ヤツを見据える俺の視界の隅で、キッチン兼リビングのドアが薄く小さく開かれた。
ヤツの身を案じた悟一がこちらを窺っているらしい。
「ええと。」
乱れた襟元を直し、曲がった眼鏡を元の位置に戻し、
俺の目の前でそそくさと身支度を整えたあとに、
男はボソボソと話し出した。
「僕が貴方の絵を汚しまして。」
「それで。」
「それでまあその・・・そういうことです。」
どういう事だ。
「すいませんでした。」
それから男は黙って頭を下げた。
しかし俺が聞くべきだと思ったのは、絵を汚したとかどうとかいう事では無い。
それに、俺の絵で誰かに騒ぎを起こされるなんざ真っ平ご免だ。
その辺を伝える言葉を探しつつ、俺は煙草に火を点けた。
「名前は。」
「は?。」
「貴様の名前だ。それとも俺にも『戒ちゃん』と呼ばれたいか。」
「・・戒而。」
「いーか戒而、教えとく。」
「はあ。」
「あの絵は、クソだ。」
「は?。」
「あの絵は、俺のクソだ。」
「なんですって?!。」
俺なりの端的な比喩に、何故か戒而が気色ばんだ。
「あの絵は俺のクソのよーなものだと言ったんだ。悪いか。」
「そんな・・。」
今までの従順な被疑者は突然その様相を一転させ、
怒気を含んだ視線で俺を睨み据えた。
希有な風景にでも出会った気分で、
俺は瞬時に豹変する戒而の感情の色を眺めた。
紫煙を細く吐き、俺は疑問をそのままに口にした。
「一体何が不満だ。」
「表現が下品過ぎる。」
「上品ぶる必要があんのか。」
「それに。」
「それに?。」
「そういう言い方はあの絵を貰った人に対して失礼だ。」
ある意味正論なんだろうか。
俺にしてみれば俺のクソを欲しがる人間が存在した事が予想外だ。
しかし今の論点は俺のクソではないし、それを受け取った人間でもない。
俺は煙草を挟んだままの手で、こめかみを押さえた。
「よく聞け愚か者。」
「・・。」
「俺はあの絵を真剣に描いた。しかもいつになく、乗り気で描いた。」
「はあ。」
「人のウケを気にも留めず、俺の思うように仕上げた。」
「なら大事な作品じゃないですか。」
「だからこそ『クソ』なんだ。分かるか。」
「分かりません。」
「・・。」
無意識に俺の肩が落ちた。
会話が不得意な俺なりに努力して解説したつもりだった。
なのに見るからに頭の良さそうな男に「分からない」と断言されては、
俺としては補足のしようが無い。
俺は結論だけを述べた。
「つまり。あの絵に関しておまえらが大騒ぎするような事は何も無い、
と、そういう事だ。」
「はあ。」
「今度は分かったか。」
何故か戒而は俺から目を逸らせた。
幾分顔を伏せた後、ヤツはズレてもいない眼鏡を中指で押し上げたりした。
「一部納得のいかない箇所もありますが、貴方の言いたい事は分かりました。」
棘のある物言いの仕返しに、俺は戒而に紫煙を吹き付けた。
間近からの煙を吸い込んでゴホゴホと咳き込みつつも、
戒而は背筋を伸ばした正しい姿勢を保っていた。
「でも、もうあの作品は貴方の手を離れて、貴方のものじゃないんです。」
「だったらどう違う。」
「今のあの絵の所有者に、僕は会わせる顔が無い。」
「それでウチに居んのか。」
「だからそれは大きな間違いだったと気付いてます。帰りますから!。」
語尾を荒げつつ、戒而が立ち上がった。
俺と話す際に限ってか、ヤツはかなりの割合で怒っている。
「帰るってどこへ。」
「貴方に関係ないでしょう!!。」
全くその通りだ。
関わりたいとも思わない。
しかし戒而をここで帰したら、別の種類の厄介事が起こる。
潜伏した厄介事の火種は、今もドアの隙間からこちらを窺っている。
既に立ち上がって去りかけの戒而を、俺は背後から呼んだ。
「待て馬鹿者。」
「ホントに失礼な人ですね貴方!。」
「間違いだと知りつつ何故ココに来た?。」
振り向いた戒而が、ふと言葉を詰まらせた。
どうやらその点はヤツに取っても要所だったらしい。
という事はどういうことか。
「あのバカが貴様を強引に連れて来たんだな?。」
俺は視線で薄く空いたドア向こうを指した。
咄嗟に気配はドアの隙間からその影に少々動いた。
まだ隠れているつもりらしい。
「僕の意志で来たんです。悟一に拉致される程僕は軟弱でもないです。」
「間違いだと知りつつ自分で出向いて来る程、貴様は頭の足りない男か?。」
「・・。」
「何故悟一は貴様に固執する。」
「そんな・・」
固執なんて云々と言い淀みつつ、戒而が言葉を濁した。
おれは浮かんだ想いを口にしただけだった。
だがふと口を衝いて出たその疑問こそが、
俺が戒而と話し合う必要があると感じた件そのものだった。
しかし、今に限っては、意図するより先に言葉にしたのは失敗だったかもしれない。
何故ならその問いの答えは、
疑問を言葉にした瞬間、俺の頭に浮かんでいたからだ。
俺がおそらく他人よりは格段に疎い、そういった錯綜する感情劇、
まさに俺が俺自身の宿題として留保していた類の何ものかを、
俺は戒而に、もしくは悟一に話せと強要しているのかもしれなかった。
「・・まあいい。」
判断の保留を認めたのはヤツと悟一に対してであり、
同時に俺自身に対してでもあった。
具合の悪さを払拭すべく、俺は煙草を揉み消した。
「出ていくのは構わんが、明日にしろ。」
「でも・・。」
「お前が遠くへ行ってアイツが後を追ったりしてみろ、面倒が増える。」
戒而はその場に立ち尽くしたままで、
新しい煙草をくわえなおした俺と、ドア陰の悟一を交互に見比べた。
それから「分かりました」と小さく呟いて、戒而は所在無さ気に頭を掻いた。
「じゃ僕明日の朝食作りますね。」
「好きにしろ。」
「そーゆうわけでちょっと買い出しに行ってきます。」
「今からか?。」
俺の声が聞こえない振りで、戒而はドア陰に声をかけた。
「悟一も一緒に行きます?。」
「行く!。」
隠れていたハズの悟一が迂闊に返事をした。
部屋にいろと指示したのに部屋にいなかったのが露呈したわけで、
本来なら怒鳴りつけるところだが、それも今更面倒だった。
「何故無理矢理外に出る?。」
「ええと。」
俺に少々首を傾げて見せたあと、
ヤツはまたしてもズリ落ちてもいない眼鏡を押し上げた。
「貴方に隠し事はできないみたいだ。」
「聞かれた事に答えろ。」
「じゃ正直に言いますけど。
気まずいんですよ。貴方と部屋に2人っきりっていうの。」
「そんなに俺が不愉快か。」
「まさか。どっちかと言えば逆ですけど。」
「言ってる意味が分からん。」
「今ココにいない人の事も考えると、僕の立場としては、ね。分かるでしょう?。」
今一つ良く分からなかった。
だがもし分からないと口に出せば、またしても厄介な会話に逆戻りしそうな予感がした。
「そうだ貴方も一緒に行きましょう。」
「断る。」
「考えたら僕この辺詳しくないし。夜遅くまでやってる食料品店まで案内してもらえますか。」
「悟一に聞け。」
「オレ知らない。」
「・・。」
「行こーぜ、宗蔵!。」
悟一はひとり絶好調だ。
それからの悟一と戒而はと言えば、行くべき先も知らないくせに
明日の朝食メニューを話し合いつつ、勝手に部屋を出た。
「悟一はご飯派?、それともトーストですか?。」
「両方!。」
「どっちかにした方が消化がいいと思うけど。」
キッチン兼リビングにひとり取り残された俺は、多少唖然とした気分で
廊下沿いに遠くなる2人の楽しげな会話を聞いた。
一体俺は何のために、戒而をこの部屋に連れ込んだのだったか。
「早くしてくれませんか!。」
玄関先から戒而が怒鳴っていた。
全くわけが分からないこの状況で、明確な事実はただひとつ。
どうやらこの部屋内の主導権は、俺から戒而に移ったらしい。
- 続 -