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     (「またな!。」)
     
     乗り合わせの客もないエレベーターは
     狭いスペースに俺だけを収容し、最上階を目指す。
     俺の耳には、去り際のヤツの声が残っていた。
     
     ホストまがいの爛れた色気と、無骨な男臭さを合わせ持つ長髪。
     しかしヤツは色気とも不器用さともそぐわない、少年めいた明るい声音を残して消えた。
     おまけにヤツは、ヤツらしくもない印象のみならず、
     僅かな感触までをも俺の肌に残していた。
     
     他人との接触を避け続けてきた俺にとって、
     それは有り得ない経験だった。
     
     一体俺は何に取り込まれようとしているのか。
     
     面倒を避ける為の選択肢は、過去のどの時点に於いても存在していた。
     嘘と知りつつ絵の具をヤツに放り投げた時、
     悟一の家庭教師と一緒に自宅に上がり込んだヤツを黙認した時、
     ヤツのオーダーで絵を仕上げるまでに加え、
     ヤツに絵を取りに来させた時。
     
     面倒を呼び込んだのは、俺自身だった。
     
     何故か。
     
     
     しかしその問いに俺自身が結論を下すより早く
     エレベーターの狭い小箱は最上階に辿り着き、
     出ろと俺を促してその口を開けた。
     
     ◇◇◇
     
     「ただいま。」
     
     マンションの玄関口で、俺は言い慣れない台詞をぼそりと呟いたりする。
     悟一と暮らす以前なら、決して口にすることのなかった言葉だ。
     
     (?)
     
     玄関には悟一の運動靴ともう一つ、見慣れない男ものの靴が脱ぎ捨てられていた。
     悟一は確か今日、ヤツのアパートで家庭教師の男と勉強を済ませるという予定だ。
     という事は、靴の主はヤツの同居人だろうか。
     
     「おかえり。」
     
     部屋から顔だけのぞかせて、悟一が俺にそう言った。
     
     玄関の先は、居間兼台所の突きあたりまでを、一本真っ直ぐの廊下が繋いでいる。
     その廊下の両脇には、6畳程度の4部屋が左右に2部屋づつ連なる。
     玄関に近い2部屋は、左手が俺の作業部屋、右手が今は悟一の部屋。
     少し前までは物置だった一部屋に机とベッドを入れて悟一に譲り渡した。
     その一室から、悟一はドアを半分開け、顔だけを覗かせている。
     
     「勉強は。」
     「してきた。」
     「そーか。」
     「ん。」
     
     部屋から出ないと決めているように
     身体を斜めにして顔だけ出した悟一の有り様は
     誰がどう見ても不自然だった。
     
     「客か?。」
     「え?。」
     「誰か来てんのか。」
     「き、来てないよ。」
     「そーか。」
     
     火を見るより明かな嘘だが、俺はどうでもいいやという気分だった。
     俺は玄関から廊下に上がり込み、吾一はパタンとドアを閉め、
     俺はそのドアの前を素通りして真っ直ぐに居間へと向かった。
     
     
     冷蔵庫から取り出した缶ビール片手に、居間のソファにどっかりと腰を下ろす。
     右手下の眼下には、ネオンに瞬き始めた街並みが見下ろせる。
     高層マンション最上階から見下ろす無機質な造形と光は、
     俺が最も同化し易い何物かだった。
     おそらく人間的な感情からは遠く隔たっているせいだろう。
     
     しかし、どういうわけか今日は違うらしい。
     冷えた缶ビールをあおりつつ下界を見下ろしても
     俺は造形に入り込めないどころか、
     胸には妙な苛立ちばかりをつのらせていた。
     
     俺は俺自身に宿題を残していた。
     
     何故自分自身で面倒を呼び込んだのかという問いに、
     俺はまだ答えを出していなかった。
     
     それに、悟一。
     
     見え透いた嘘は一体何を隠す為か。
     
     と、俺はふとある事実に思い当たった。
     
     悟一が誰を連れ込もうが関係ないとはいえ、考え直してみればココは俺の場所だ。
     悟一が誰かを連れ込んだというのなら、俺の家に得体の知れない人間がいる事になる。
     実際おおよその得体は知れているわけだが、それにしてもだ。
     そう思うと、何となく腹が立ってきた。
     
     自身の宿題を更に先延ばしする為の八つ当たりのような気がしないでもないが、
     一応俺の怒りには正当性がある。
     俺はガラス台のテーブルに缶ビールをガツンと置いた。
     それから立ち上がると、俺は悟一の部屋へと向かった。
     
     
     「悟一!。」
     
     廊下を歩きながら悟一を呼べば、部屋の中からは「な、何?」と焦り気味の声が返った。
     
     「入んぞ。」
     「えっ!。ま、待って!。」
     
     待てと言われて待ってやるようなお人好しでもない。
     運良くというか当然というか、悟一の部屋には鍵がかかるわけでもない。
     ドアを蹴り開けて、俺は部屋に入った。
     
     
     
     「・・・。」
     
     部屋に押し入った俺は、中を見渡した。
     入り口から見て左手に学習机、右手奥にベッド。
     悟一を受け入れる際に業者に頼んでセッティングさせたそのままの位置に
     それぞれが据え置かれている。
     吾一は俺の脇で、身を小さくして佇んでいる。
     
     部屋の情景として不自然な箇所は2つ。
     1つ、普段より部屋全体が小綺麗に整理されている点、
     2つ、ベッドの隅の、奇妙な盛り上がり。
     
     大人が膝を抱えて座ったサイズの、毛布の不自然な盛り上がり。
     俺はその前に立った。
     腕を組み、黙って毛布の小山を見据えたのは、
     悟一もしくは盛り上がり自体が何とか言ってくれれば面倒が減ると判断したせいだ。
     
     しかし沈黙のまま数秒が過ぎた。
     
     結局、俺は毛布を鷲掴みに剥ぎ取った。
     
     「・・あはは。どうも。」
     
     毛布の下から現れた端正な顔立ちが、俺にそう笑いかけた。
     しかし剥ぎ取られた毛布に引きずられた眼鏡は斜めにズレ落ちて、
     手品に失敗した芸人のように見えない事もない。
     
     「どーもお邪魔しました。帰ります。僕帰りますから。
     帰ろうと思ってたとこなんですよ実際。
     さすがに僕がここにいるのもどうかと思いますしね。ええ。」
     
     毛布の小山である事をあきらめた人影は、逆に開き直った。
     一人で何やらブツブツ話しつつ、特に何事も無いというように俺の脇を擦り抜けると、
     今度は勝手に帰る気配だ。
     
     「どうもお邪魔しました。それじゃ僕帰ります。じゃ。」
     
     何が『じゃ』だ。
     
     そそくさと部屋を出た短髪の後頭部を追って俺も部屋を出た。
     それから俺は、玄関へと向かう男の襟首を掴んで逆の方向に引きずった。
     この男とは、少し話をする必要がある。
     
     シャツの第一ボタンまでキチンと締め込んだその男は、俺に背後から襟を掴まれ、
     シャツに喉元を締められて「ぐ」とか小さく呻きながら
     俺に引かれて廊下を後ろ足に歩く羽目になった。
     
     「戒ちゃん!。」
     「悟一〜。」
     「悟一、お前は部屋にいろ。」
     
     「戒ちゃ〜ん!!。」
     「悟一〜。」
     
     マンションの廊下でヤツらは今生の別れのようにお互いを呼び合っていた。
     
     「戒ちゃ〜〜ん!!。」
     「悟一〜。」
     
     バカ共が。
     オマエらは生き別れになる親子か。俺はナチの憲兵か。
     死ね。つーか殺す。
     もし俺が銃を持っていたなら、今すぐ2人共撃ち殺す。
     
     「宗蔵!、オレなんだ!!。オレが宗蔵の絵にココアこぼしたから・・」
     「悟一!、それは僕の非だって言ったでしょう!!貴方は・・」
     「違うんだ宗蔵!!。」
     
     「黙れ!!。」
     
     俺の一喝に、引き離されつつある親子双方は黙り込んだ。
     
     吾一が叫んだ短い言葉の内容で、
     ヤツらの怪しげな挙動の意味には漠然と想像がついた。
     
     ヤツらはヤツらなりに問題を抱え込んでいたらしい。
     そしてそれには俺自身とは言わないまでも、
     俺の絵が絡んでいるらしい。
     
     
     塗り込めることもなく仕上げた俺の狂った赤が
     俺の知らないところで気違い沙汰を引き起こした。
     俺はふとそんな錯覚を覚えていた。
     
     
     なんとなくうんざりした想いを抱きながら、
     片手には男の襟首を掴んだままで、
     俺は今度は居間へのドアを蹴り開けた。
     
     
     - 続 -
     ..

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