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「2人のため、世界はあるの」
そんなフレーズを口笛で吹きながらの帰り道。
俺んちはハニーのマンションとは違って学生アパートだけど。
おまけに居候まで付いてたりするんだけど。
鉄の梯子を引き伸ばしただけのよーな向こう側が透けて見える安っちい階段を、
俺はご機嫌な勢いに任せてカンカンと一段抜きで駆け上がった。
そーいやウチでお勉強予定のスポーツ少年はもう帰ったかな。
アイツうるさいからなー。帰ってるといーなー。
だって俺のこのスィートでハッピーなテンションをずうっとキープしてたいじゃん?。
「ただいま〜。」
俺サマのご希望通りに、ガキんちょはいないみたいだ。
いたらこんなに静かなはずがない。
だけどそれにつけても静か過ぎるような。
「戒ちゃ〜ん。」
ガキんちょを真似てウチの居候クンを呼んでみる。
答えがないところをみると、2人して出かけたのかもしれない。
あんまり静かでもちょっと物足りないよーな気分になるから不思議だ。
だけど俺にはハニーがいるし。
勿論本人はいないけど、ハニーの分身みたいな絵があるとゆーこと。
「ただいま〜。」
ハニーに声をかける気分で、壁に立て掛けた絵に話しかけてみたりして。
「?。」
昼の風景だった絵が、夜の風景になっていた。
へえ。上手くできてんなあ。
・・って、はあ?!!。
「?!。」
俺は咄嗟に絵の前に膝を落とした。
キャンバスを舐めるように見つめれば確かに、白かった部分が黒くなっている。
切り取られた風景の左上、塗り残しだったはずの空。
そして、今や黒くなったその部分からは、甘ったるい匂いが漂っていた。
最近は余り嗅いだ事のないその匂いの正体を、
俺はどうにかこうにか記憶の彼方から引きずり出した。
・・ココア。
ガキの飲み物だ。
この場ので一部始終を見たかのように、俺には事の顛末が理解できた。
「野郎!!!。」
誰もいないと知りながら、俺は叫ぶと立ち上がり、辺りを見回した。
その時、俺の部屋と隣との境の壁がガツンと鳴った。
隣の住人が叩いたんだろう。
「うるさい」という意思表示らしいが今の俺はそれどころじゃない。
隣から殴り込んで来るなら来てみろ逆に殴り殺す。
殴る相手がいた方がむしろすっきりできる。
「戒而!!、どこ行きやがった!!。」
俺の絵をあんな風にしたのがサルの仕業だとして、
戒而に監督責任が無かったとは言わせない。
八つ当たりだろうが何だろうが、俺は叫ばずにはいられなかった。
しかしひとりで怒鳴り散らして慣れた部屋を見回すうちに、
俺はようやくとある事実に気付きつつあった。
部屋は、いつもより一層片付いていた。
ここから見渡す範囲、つまり居間兼台所と続きの洋間に関しては、
棚の食器も灰皿も意味不明の置物も全てがかつてなく整然と並んでいた。
胸に浮かんだ予感の裏を取る為に、俺は奥の間のドアを開けた。
寝室兼クローゼットである室内に積まれた洗濯物の山を崩して確認する。
そこにあるのは、洗う前のも洗って畳んであるのも全部俺の服だ。
ヤツのは、無い。
つまり、戒而はもう戻らない。
「野郎!!!。」
何に対して怒っているのか自分でも分からないまま俺は叫んでいた。
隣との境の壁がまたしてもガツンと鳴った。
たった今向こう側から叩かれた壁のまさにその場所を、
俺はありったけの力でブッ叩いた。
それから俺は部屋を駆け出した。
じっとしていたら気が狂いそうだった。
居間兼台所から玄関へと駆け抜けた時、
あの大きなキャンバスが俺の視界の隅を掠めた。
だけど俺はもうそれを直視できなかった。
胸が痛くてまともに見れなかった。
- 続 -