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     「サインとコサインのグラフは似てっけど、
     タンジェントだけつながってないのって気になる。
     ココの切れてっとこ、どこまでおっきくなんだろ。
     なあ、戒ちゃん。・・聞いてる?。」
     「え。」
     「聞いてた?。」
     「ええと。」
     
     半分くらい聞き逃した気もするが、
     悟一のペン先がグラフの漸近線を繰り返しなぞっていたおかげで、
     なんとなく話題の推測がついた。
     
     「ええと、一見無限大だけどそういうわけでもないんですよね。」
     「ふうん。」
     「tan45で1だし倍にしても2だけどそれはあり得ないし。」
     「なんで。」
     「グラフの横線がここの角度でしょう、これをぐっと開いていくと
     この辺に対してこの辺が長くなっていくの分かりますよね、これがY値なんだけど、
     もっとぐっと開くとほら、三角形じゃなくて一本の線になっちゃうわけで。」
     
     三角形の一角が開いた末の直線を強調して、
     僕はペン先でノートに書いた線を繰り返してなぞって見せる。
     悟一は哲学者めいたムズカシイ表情で、紙の上の線を睨んでいる。
     
     いつもは梧譲と向かい合うはずのこの場所で、
     今晩僕は悟一と向かい合っている。
     なんとなく不思議な感じがしないでもない。
     宗蔵の絵も昨夜から同じ位置、つまり流し脇の窓下に立て置かれたままで、
     僕と悟一の2ショットを見張るかのようだ。
     
     「戒ちゃん?。」
     「え?。」
     
     悟一に呼ばれてふと気付けば、僕が繰り返してなぞる直線は
     今や紙の破れ痕となって、僕のペン先は一枚下のノートに線を引いていた。
     
     「うわ!。すいません。」
     「・・。」
     「ち、ちょっと休憩にしましょうか。」
     「ん。」
     「ココアでも入れますね。ミルクたっぷりで。」
     「うん!。」
     
     授業に身が入らない自分を誤魔化す為に、僕はそそくさと台所に立った。
     
     狭いガス台で2人分のお湯を沸かしながらも、
     あの人たちはどうしてるだろうなんて、僕はそんな事を考えていた。
     
     
     梧譲のバイト先で僕がピアノを弾いている最中に、
     悟一はいつものジャージ姿で転がり込んで来た。
     その後は適当に演奏を切り上げて、僕は悟一を連れて梧譲のアパートに戻った。
     梧譲がまだここに戻らないということは、
     彼は宗蔵のマンションに招かれたのだろうか。
     
     台所に立ってまでもとりとめのない想いに耽りそうな僕を呼んで、
     背後から悟一が「なあ」と声を上げた。
     
     「なあ、コレ、宗蔵が描いてたヤツだ。」
     「ええ。」
     「なんでココにあんの?。」
     「梧譲がもらったみたいです。」
     「ふうん。・・あ、なんか手伝う?」
     「じゃあ冷蔵庫から牛乳出してもらえますか。」
     「うん。」
     
     椅子から降り立って冷蔵庫から牛乳を出すというシンプルな動作の合間にも、
     悟一はあちこちにぶつかったりぶつけたりを繰り返し、室内は自然と賑やかになる。
     
     「はい、牛乳。」
     「ありがとう。ミルクも軽くあっためましょうね。」
     「うん。」
     
     悟一は流しで僕の脇に立ち、僕の手元を覗き込んでは、
     宗蔵との生活や部活のあれこれといった、彼の日常を話してくれた。
     誰かが僕の傍にいるという事実に、僕はふと救われる気分になる。
     授業よりもむしろ、こんなひとときが今の僕には大事だったりするのだけれど、
     2人分のココアが出来上がるまでなんてあっという間だ。
     
     「じゃ、テーブルに運んでもらえますか。」
     「うん。」
     
     授業が終わったら悟一を最寄り駅まで送り届けるとして、
     そのあとここに梧譲が戻るまでの時間を独りでどうやってつぶそうか。
     そんなあれこれを考え始めた僕の背後で突然、ひときわ大きな破壊音が響いた。
     
     振り向けば、2人分のココアが床に広がっていた。
     どうやら悟一がつまづいたらしい。
     
     「ごめんっ!!。」
     「うわ。怪我はありませんか?。」
     「悪ィ!俺・・。」
     「大丈夫。床は拭けば済むしココアもいれ直すだけですし。」
     
     僕の言葉も耳に入らないみたいに、悟一は宙の一点を見つめて立ち尽くしていた。
     雑巾を手にした僕も、つられて悟一の視線の先を追った。
     
     「あ。」
     
     それからは僕も絶句して立ち尽くした。
     他に一体何ができただろう。
     
     どうやらココアは床に落ちる以前、立て掛けられたキャンバスの角に当たっていたらしい。
     キャンバスの左上4分の1が、くっきりと黒い液体を吸い込んでいた。
     
     事の重大さに僕は眩暈さえ感じたが、倒れる前に試してみる事があった。
     僕は雑巾をティッシュに持ち替えて、恐る恐るキャンバス地を撫でてみた。
     その様子を、悟一も一緒に息を詰めて見守った。
     
     「・・。」
     
     ダメだった。
     
     当然と言えば、当然だ。
     
     キャンバス地に吸収された黒い液体は、今更ティッシュで押さえたところで
     柔らかな紙を気持ち程度汚し返すだけだ。
     運の悪さは重なって、キャンバスを濡らしたココアは僕用のミルク抜きの濃い色の方であり、
     更に濡らされた箇所はといえば、宗蔵が意図的に塗り残したに違いない白地の部分だった。
     
     本格的に眩暈がして、僕はその場に膝を落とした。
     
     「ゴメンっ!!。」
     
     僕を支えるように脇に立った悟一に、大丈夫と伝える為に腕を回した。
     しかし実際は、これ以上倒れないように縋ったというのが正解かもしれない。
     
     「誰も怪我しなかったんだし。問題ないですよ。」
     
     本当にそうだろうか。
     とてもそうとは思えない故に、僕の言葉には力が入らない。
     
     「だってこれ宗蔵の・・」
     「僕が自分でカップ運べばよかったんです。僕の責任ですから。」
     
     それは確かにその通りだ。
     
     「でも・・。」
     「悟一は気にしないで。だけど、」
     「だけど?。」
     「今日の授業はこれくらいにしておきましょうか。
     近くの駅まで送りますから。」
     
     
     - 続 -
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