21


     
     向こう側が見えない木製の重厚なドアを押し開ければ、
     そこは白を基調とした洒落た内装の喫茶室。
     ライトを落とした夜ならば、高級クラブといった風情のこの場所に、
     僕が訪れるのは今日で2度目。
     
     「いらっしゃいませ!。」
     
     ボーイッシュな白黒の制服を着込んだ李厘ちゃんが、
     ご機嫌な挨拶で僕を迎えてくれた。
     
     「こんにちわ。」
     「待ってたんだよ。チーフも。」
     
     レジ脇のカウンターで頬杖をついた梧譲が、「よぉ」と短い挨拶で瞳を上げた。
     普段なら柄モノのシャツでだらしなく前をはだけてるような彼が、
     ここでは白い詰襟に蝶タイ姿。
     紅い長髪にモノトーンの正装はやっぱり場違いでホストにしか見えないけれど、
     清潔感が新鮮で、僕はこっそり見惚れていたりする。
     
     正直なところ、彼の制服姿はかなり悪くない。
     まあ、僕がそれを口にすることは永遠にないだろうけれど。
     
     「遅いぞお。」
     「あはは。すいません。あんまし気が乗らないもんですから。」
     「で、アイツらなんだけど。」
     
     梧譲は視線でフロア中央付近の客席を指した。
     白いグランドピアノに一番近い席に陣取った二人組の男。
     彼らが僕をご指名した物好きな輩なのだろう。
     一人はコーデュロイのジャケットを着込み、もう一人は上下揃いのスーツ姿。
     いかにも「芸術にコダワリ有」という目線でコチラを見据えている。
     
     「やりにくいなあ。」
     「やりにくいだろーな。うん。」
     「敢えて聞かせるようなモノじゃないですよホント。」
     「ま、適当にお願い。悪いケド。」
     
     ざっと室内を見渡せば、コダワリの芸術家以外の客は3組5名。
     有閑マダムチームとご出勤前の風俗系お姉さんチーム、加えて窓際の美青年。
     
     「彼、もう来てるんですね。」
     「お、おう。」
     「悟一が来たら待つように言っておいて下さいね。
     僕達あなたのアパートで勉強するんだから。」
     「おう。」
     
     容姿端麗な若き保護者サンに過剰反応気味の彼。
     だからどうということもないと自分にいい聞かせつつ、僕はひとりフロア中央へと歩み出る。
     
     弾き手が入り口を向くかたちに据え置かれたグランドピアノの前に腰を下ろせば、
     再奥の席で窓側を向いた麗人が、僕の斜め後ろに控える事になる。
     鍵盤の前で椅子の位置なんかを直したついでに「どうも」と短く声をかけると、
     くわえ煙草の彼は、僅かに瞳を上げるだけ、といった手抜きの挨拶を僕に返した。
     
     僕の左脇では、コダワリの二人組が、
     「さあ来い」とばかりに僕を見据えて足を組み替えた。
     状況は僕史上最高の弾きにくさと言える。
     
     (どうしようかなあ。)
     
     曲目も決まらないまま、右手で軽くスケールを流してみる。
     片手だけというのも何だし、左手で追いかけるようにご愛嬌程度の和音を叩きだす。
     しかしこのままでは指慣らしのエクササイズ以外の何物でもない。
     
     始めてすぐに、僕は助けを求める気分で辺りを盗み見たりしていた。
     斜めに開いたグランドピアノの屋根下向こうに見えるレジ脇のカウンターでは、
     頬杖の姿勢に戻った梧譲が、ひたすらにこちらを見つめていた。
     しかし彼の視線は、僕を素通りして僕の斜め後ろ付近に固定されている。
     
     
     白黒の鍵盤に意識を投げ込めばいい。
     前のめりのリズムを追うように、追われるように。
     ふと胸に湧いた灰色の想いに、気付く間もないように。
     
     「ビル・エヴァンズかな。」
     コダワリの左脇席からそんな声が漏れていた。
     前傾気味の僕の姿勢から連想したのだろうか。
     
     なるほどその辺がいいかもしれないと、逆に僕が納得したりする。
     いい加減なスケールを叩き続けていた僕の脳裏で曲目は即座に決まった。
     「Funkallero」。
     
     適当なりにも巡回していたスケールが都合のいい調に回ってきたあたりで、
     本来ならテナー・サックスの旋律を、鍵盤で強引に叩き出す。
     知ったフレーズなのだろう、左脇からは「お」と歓声が漏れた。
     
     この場には存在しない早弾きのウッドベースのラインを勝手に頭に思い浮かべて、
     それに合わせるというよりは先を行く気分でたたみ掛ける。
     ビーズの箱をひっくり返したみたいに転がる小粒な音たちを操り上げるのは無類のテクニック。
     小手先の技術に集中力の全てを注ぎ込めばほら、意識はいつの間に感情を切り離していく。
     
     とりつかれたみたいに音の粒にのめり込む、その為には完璧な選曲と言えた。
     しかし弾き始めには忘れていたが、それは5分にも満たない短い曲だった。
     
     入れ込み過ぎたせいでアドリブを効かす余裕もなく、
     僕はうっかり本来のフレーズで終止形を叩き出していた。
     オリジナルのコピーを期待していたらしい左脇席的にはそれで正解だったのだろう、
     待ち構えたような拍手が上がった。
     
     立ち上がって会釈くらい返すべきだろうとは分かっていたが、
     なんとなくそんな気分にもなれない。
     その場しのぎの為だけに、僕は再び音を紡ぎ出していた。
     今の曲をスローにアレンジした、というよりは、
     手抜き気味に和音をアルペジオに分解したようなヤツ。
     
     迂闊にも素に戻った僕の意識と視界は、
     グランドピアノの屋根下向こうに、再度彼の姿を捉えていた。
     彼の視線はといえば、曲が始まる前同様に僕を素通りしたままだ。
     
     僕の斜め後ろではきっと、生演奏のBGMなんか耳にも入らない麗人が
     暮れ行く街並みの造形を眺め続けているに違いない。
     
     僕はここにいるのに。
     あなたが彼に出会うより先に、
     僕はあなたの側にいたのに。
     
     そういえば少し前にも僕は、同じような事を想っていた。
     
     「I've been loving you too long.」
     ずっと前から好きだった。
     
     和音を分解したアルペジオをより一層分解して原曲が分からないまでに砕いてみる。
     原曲の影も消えたあたりで、さりげなく別のフレーズに転調させる。
     「I've been loving you too long.」
     オーティス・レディングの古い定番曲。
     洒落たジャズには相容れないカントリーワルツのリズムを
     ジャズっぽくアレンジしたり戻したりしつつ、前の曲にも馴染ませて、
     不自然じゃなくなった頃にそのものの旋律とリズムに切り替えた。
     
     「I've been loving you too long.」
     
     聞き覚えのあるフレーズで、あなたが僕の存在を思い出せばいい。
     
     安っぽいミラーボールの下で、あなたは知らない女性と踊っていた。
     薄暗いホールを照らす赤いライトが、あなたの髪の色を溶かしたから、
     僕はあなたの外見じゃなくて、あなたそのものを見ている気がした。
     露出度も高い女性の腰に手を回して、ウェーヴがかった豊かな髪に顔を埋めたあなたを、
     僕はただ見つめていた。
     
     「I've been loving you too long.」
     
     
     だけど、この店では僕と彼しか知らない想い出の曲にも
     彼は振り向かなかった。
     
     
     - 続 -
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