20


     
     「今日の煮物、美味しいと思いません?。」
     「ん。」
     「ちゃんと煮込まれてるのに固くないでしょう。」
     「ん。」
     「臭みも抜けてるし。」
     「ん。」
     「何使ったと思います?。」
     「うん。」
     「・・。」
     
     ついさっき、大きなキャンバスを抱えてアパートに戻ってきてからずっと
     彼はこんな調子だ。
     
     持ち込まれたキャンバスは、流し脇の窓下に無造作に立て掛けられた。
     その場所を選んだのは多分、一番目につきやすいからだろう。
     大事な何物かを奥の部屋にしまい込むんじゃなくて、
     いつも目に触れる場所に置くというあたりは、いかにも彼らしい。
     
     だけど一度描かれた絵が変わるわけでもなし、
     食事の時くらい食べてる物の方を見てもいいんじゃないか。
     梧譲の好みを考えて前日から仕込みを始めて煮込まれた
     渾身のモツ煮の立場も考えてみてほしい。
     
     食卓に並べられた料理に一応は箸をのばしつつも、
     彼の視線は今も窓下のキャンバスへと固定されたままだ。
     絵に魂を持って行かれてしまったらしい。
     
     「具材を柔らかく保ち、かつ臭みを抜く、そんな秘密兵器何だと思います?。」
     「ん。」
     「知りたいですか?。」
     「うん。」
     「別に興味無いみたいですね。」
     「うん。」
     「・・。」
     
     酢なんだけどなあ。お酢。
     聞いてらもえそうもないし、僕はひとり心で呟いた。
     
     
     梧譲の視線の先を辿って、僕もなんとなくキャンバスを見つめてみる。
     最近悟一の保護者となったあの麗人のマンションで見かけた風景画。
     僕が見た時に描きかけだった紅い街並みは、
     完成されて尚一層、得体の知れない迫力を携えた。
     
     「額装した方がいいですよ。その絵だけど。」
     「がくそう?。」
     
     その時彼は、今晩初めて僕に振り向いた。
     どうやら絵の話なら聞こえるらしい。
     
     「専門のお店でキャンバスに合わせた額に入れてもらう、って事。」
     「ふ〜ん。」
     「その絵、サイズは定型かもしれないけど、絵の具をナイフで盛ってるから一部厚みがあるでしょう、
     普通の額縁だとその厚みを潰しちゃうかもしれない。」
     「でもさあ、ナマもすてがたいよな。」
     「ナマ?。」
     「俺は今、ガラスの板なんか挟まないで直接あの絵と向き合ってるワケよ。」
     「はあ。」
     
     キャンバスに向けて両手を差し出してみせた彼の頭には
     『ジュテ〜ム』なんて吹き出しが読み取れる気がする。
     バカバカしい気分で僕はひとり湯呑みを抱えた。
     
     「だけどさ、戒而はこの絵あんまし好きじゃないのかと思ったんだけど。」
     「べ、別に。」
     
     そんな彼の台詞に、ふと落ち着かない気分になるのは何故だろう。
     
     「別に嫌いじゃないです。特別好きでもないけど。」
     「ふうん。」
     「特別好きじゃなくてもそれが大作だって事くらい分かります。
     だから額装した方がいいって言ってるんです。」
     
     まるで機嫌が悪いような自分の物言いに、僕は我ながら驚いてみたりする。
     しかし敢えて謝るような暴言でもないわけで、取り繕うのも不自然かもしれない。
     何となく言葉が継げない僕を気遣ってか単に思いついただけか、
     彼がふと日常を取り戻した気の抜けた声をあげた。
     
     「あれ、もうお茶?。」
     「お茶じゃないんですけどね。」
     
     僕が抱えた湯飲みをもぎ取ると、梧譲はその匂いを確認した。
     
     「酒?!。」
     「料理用のワイン。料理用だと税率が低い分価格設定も下目なわけで、
     中途半端な値段のワインより美味しいと思うんだけどどうでしょう。」
     「へえ。でも俺はバーボンがいいや。」
     
     言ってる途中で彼は席を立ち、流しの下と冷凍庫をバタバタいわせてから、
     ボトルと氷入りのグラスを手にして僕の向かいに戻る。
     背の低いグラスに手酌でボトルの酒を注ぐと、
     彼はその琥珀色の液体の向こうから、上目使いに僕を見つめた。
     
     「そんじゃまあ、乾杯。」
     
     僕の目の前で揺れる長髪の紅。
     僕にとって唯一彼だけを意味したその紅は、
     今やもうひとりの誰かをも象徴している。
     
     キャンバス一面に紅い街並みを描き出した麗人と、僕の目の前の彼。
     僕の知らぬ間に、二人は一体何を共有したのだろう。
     
     「貴方がもらった大作に乾杯、かな。」
     「へへ。」
     「ね、何か進展あったんですか。」
     
     丁度口に流し込んだアルコールを喉の辺りにつまらせて、
     梧譲はおもむろに咳き込み始めた。
     なんてわかりやすいひとだろう。
     動揺を隠すつもりなんだろうか、一度は置いた箸をまた取り上げたりして。
     
     「お。ウマいなこのモツ煮。」
     「そーですか。」
     「柔らかいしクセも無いや。なんかコツとかあんの?。」
     「・・ええまあ。」
     
     辛口の日本酒がほしいなあなんて思いながら、
     僕は湯飲みの料理用ワインを飲み干した。
     
     「あ。そういえば戒而にお願いあるんだけど。」
     「何でしょう。」
     「店の客がさ、あのピアノ弾き連れて来いってもおうるさくって。」
     「誰です?そのお客さんって。」
     「さあ。雑誌記者とかかなあ。あんましシツコイから俺つい『じゃ明日』って言っちまったんだけど。」
     
     こないだあの店で僕が弾いたピアノは、自分で言うのもなんだけど、全然イイとは思えない。
     音階理論とテクニックに依存して鍵盤を叩いたという、それだけの事だった。
     そういうのがウケたと聞くと、幾分虚しい気持ちになったりもする。
     だけどそもそもはそんなのを弾く自分の非なわけだから、文句を言う筋でもないのだけれど。
     
     「いーですよ。貴方のお願いだし。」
     「ワリ。」
     
     軽いウィンクみたいに片目を潜めて、彼が少し笑った。
     『貴方のお願いだし』の部分に重きを置いて受け止めたりしてみてはくれないものだろうか。
     
     「あと、もう一つ。」
     「何でしょう。」
     「次家庭教師に行くの、いつ?。」
     「明日ですけど。」
     「あの・・また、俺行ってもいい?。」
     
     何気ないお願いとは思えない緊迫した眼差しで、
     彼はひたすらに僕の回答を待っていた。
     本来なら微笑ましいはずの彼の挙動に、僕の胸は押し潰されそうになる。
     
     
     貴方が好きだと今告白したら、どうなるだろう。
     
     
     既に手遅れの想いでも、告げるだけの価値くらいあるかもしれない。
     だけど、お人好しの彼を困らせて、僕は一方的に満足できるだろうか。
     
     「じゃ、あなただけ行く、ってのはどうです?。」
     「へ?。」
     
     彼の想いを後押しするような僕の言動は、きっと優しさと言えば欺瞞になる。
     
     「僕は明日貴方のバイト先にピアノ弾きに行くことになるみたいだし。
     僕が悟一とココに帰ってきて一緒に勉強します。」
     「い、いーの?。」
     「僕達4人がそろうと授業にならない気がするんですよね実際。」
     「ほ、ホントにいーの?。」
     
     酔いが回ったのかそれとも単に調子が上がったのか、
     彼は食卓の向こうから手を伸ばし、僕の肩付近をビシバシと叩き始めた。
     「ありがとう!。戒而、戒ちゃんっ!!。」
     
     体育会系のスキンシップは、話がわかる同居人への感謝の表現らしい。
     だけど喜びを共有しろというのは、今の僕には酷なハナシだ。
     
     「洗い物済ませようかな。」
     
     下向きになりかけた気分を読まれないように、
     僕は食事を切り上げて席を立った。
     テーブルの上の食器をひとりでバタバタと運んだ後は、
     流しの前に立ち、特に急ぐ必要もない洗い物に専念する。
     
     だけど、そんな僕の胸の内を想像だにしない彼はといえば、
     持ち上がったテンションにほろ酔い気分も相まって絶好調。
     流しまで僕を追って来ては、他人の肩付近をビシバシと叩くのを続けた。
     
     「いやあヨカッタ。話の分かる相棒で。」
     「そーですか。」
     「俺もさあ、もっと早く相談とかしたかったんだけどさあ。」
     「はあ。」
     「相手がさ、ええと、その、野郎なわけじゃん?。」
     「気にすることないと思うけど。」
     「そ、そう?。」
     「僕も経験あるし。」
     
     まさに今なんですけど。
     おまけに僕自身気付いたのはつい最近で、どうやら手遅れみたいなんだけど。
     
     「・・マジで?。」
     「多分。」
     
     僕をはたき続けていた彼の手がふと凍り付いて、
     流しの水音が突然大きくなったみたいに狭い室内に響く。
     もしかして僕の言葉の意味するところに気付いたのだろーか、
     なんて思った僕は浅墓だった。
     
     「ヤルなあ!、戒而!!。」
     
     そして彼は前以上の力強さで僕の背をビシビシ叩いた。
     
     人知れず脱力した僕はと言えば、
     背後からの攻撃のおかげでユラユラと上体を揺らしつつ、
     皿だの茶碗だのを洗い続けた。
     
     「教えてくれ俺に。ぐ、具体的な手順とか方法とかその。」
     「アナタ、『経験』の意味を勘違いしてませんか。」
     「頼む。先生!。恋のマンツーマン家庭教師ってヤツ?!。」
     
     うんざりするようなバカバカしい台詞で、彼が僕の肩を抱き寄せた。
     
     「こ、こんな感じ?。」
     
     こんな感じとは一体どんな感じなのか、
     彼は暴力的な腕力にモノをいわせて僕を振り向かせると、
     僕に顔を重ねるように迫りつつ、ふとその目を閉じた。
     
     「や・・」
     
     悪趣味な冗談だとは分かっていた。
     酔っぱらいの悪ふざけ以外の何物でもない。
     
     だからこそ、僕は許せなかった。
     
     「やめて下さい!。」
     
     ある種の感情が裏返って暴発した怒りが、僕に無駄のない動きを誘発した。
     
     皿洗いで濡れた手もそのままに、彼のシャツの脇下辺りをきつく掴む。
     同時に彼の脇へと踏み出した足は、彼の利き足を彼の後方から払っていた。
     バランスが崩れて軽く浮いた彼の腰を支点に、
     僕は瞬発力を利かせた腕で、彼を頭から後方に引き落とす。
     
     「へ?」
     
     大外刈り。
     一本。
     
     大きな荷物が床に叩きつけられるよーな音を最後に、
     狭いアパートはシンと静まり返った。
     
     そして僕達は見つめあっていた。
     うなだれて足元を見つめる僕と、
     咄嗟の出来事に受身を取り損ね、僕の足元に大の字に倒れた彼とが。
     
     大きく見開かれた彼の瞳は、
     一体何が起こったのか、まだ把握できていないようでもある。
     
     誰がどう見ても、やり過ぎだった。
     
     「・・すいません・・。」
     
     
     どうしようもない脱力感に襲われて、僕は崩れるようにその場に膝をついた。
     しかし膝をついただけでは足らないようで、気付けば両掌も床に落ちていた。
     
     一体僕は何をやっているのだろう。
     
     
     ねえ神様、
     こんな想いを恋と言うのでしょうか。
     
     言いませんよね普通。
     
     
     - 続 -
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